第23話 お前には贖罪が必要だ

 砦を中心にして、大地に二重の魔法陣が浮かび上がった。夜に赤黒い光を滲ませるのは外側の魔法陣。対して内側の魔法陣は淡い白に輝いて砦をすっぽりと覆っている。

 外側の赤黒い魔法陣からは粘着質な黒い靄が溢れ出し、それは触手となって砦に迫っていた悪魔たちの体へ一斉に飛びかかった。触手に絡みつかれた悪魔は誰ひとり逃れることが出来ず、彼らはレヴィリウスの開いた深淵アビスへと次々に引きずり込まれていく。


 意志を持つように蠢く触手は、内側の白い魔法陣にまでは及ばない。淡い光の結界に阻まれ、溢れ出した深淵アビスの闇が砦の周囲に色濃く澱む気配を感じ、ヴィノクが忌々しげにレヴィリウスを睨み付けた。


深淵アビスを開いたのかっ!?」


 予想だにしない状況にヴィノクの意識が逸れ、レヴィリウスにかけていた術がほんの少しだけ弱まった。それでも自由になるのは声だけで、レヴィリウスの体は依然として大鎌を握りしめたまま硬直している。


「同族よりも、人間の女が大事なのか!? レヴィリウス!」

「……戦いを止めると言った時、私はそう説明したはずだ」

「目を覚ませ! お前は月葬の死神だ。神ですら恐れる残忍で最強の悪魔なんだぞ!」

「ヴィノク。お前は道をたがえた。もう私にお前の声は響かない」


 自由を奪われているとは言え、レヴィリウスの放つ殺気にヴィノクの肌がチリチリと粟立った。

 本来ならば、この殺気を向けられるべきは敵対する神々だ。そして欲深く愚かな人間たちのはずだ。それなのに、彼が憧れ崇拝したレヴィリウスの美しい瞳は、穢れたものを見るような眼差しでヴィノクを真っ直ぐに射抜いている。


 ――なぜ、と問うよりも先に、ヴィノクの心に反応した黒犬が瞬時にフォルセリアへと飛びかかった。


「ネフィ!」


 レヴィリウスの一声に、彼の影から一匹の黒猫が躍り出た。しなやかに体をくねらせて跳躍した黒猫は体を数倍にも膨らませ、フォルセリアに襲いかかった黒犬を鋭い爪で切り裂いた。

 倒しても倒してもヴィノクの髪から生まれる黒犬はフォルセリアを標的とし、黒猫のネフィが鋭い牙で、爪で、それらを撃退する。黒犬とネフィの力はほぼ互角だ。ただ無限に湧き出る黒犬の方が僅かばかり有利で、ほんの一瞬注意が逸れた隙を突いて一匹の黒犬がネフィの脇をすり抜けた。


 黒犬の咆哮が、頭上に迫る。結界を張るのも忘れて後退したフォルセリアの目の前で――次の瞬間、黒犬の体が天から降下した一条の光によって撃ち抜かれた。

 はっとして見上げた先、天井をすり抜けて幾つもの光の矢が落ちてくる。聖なる力を秘めた矢に黒犬たちはすべて倒され、その攻撃は同じ悪魔の使い魔であるネフィの体をも容赦なく貫いた。

 形を保てず霧散するネフィの姿が、その向こうのヴィノクとレヴィリウスの姿が、なおも激しく降り注ぐ光雨こううによってフォルセリアの視界からかき消されていく。それはまるで夜を塗り替えているかのようだった。



 色の吹き飛んだ視界。最初にフォルセリアの瞳が拾った色は、鮮血だった。


「レヴィン……っ!」


 体に幾つもの矢を受け、レヴィリウスが血まみれの状態で蹲っていた。彼の隣にいたはずのヴィノクの姿は跡形もなく消えている。光の矢に消滅したのか、あるいは逃げたのか分からなかったが、レヴィリウスの体が彼の支配から外れたことをみると、もうこの場にいないことは明らかだった。


 駆け寄ろうとしたフォルセリアに向けて、レヴィリウスが緩く首を横に振る。見れば彼の足には深淵アビスの触手が絡みついていた。


「レヴィン! 待って……」

「フォルセリア。……私が深淵アビスへ堕ちたら、すぐに入り口を封印して下さい。君の聖女の力ならば出来るはずだ」


 傷付き、血に濡れても、フォルセリアに向けた菫色の瞳は失意になど沈んではいない。悪魔ですら恐れる深淵アビスへ堕ちようとするその瞬間でも、自分を信じ、フォルセリアを信じて強く気高く輝いている。

 ならばフォルセリアも同じ思いで、レヴィリウスに応えなければと思った。


「レヴィン……。私の悪魔、レヴィリウス。――約束よ」


 泣きそうな顔で必死に笑顔を作り、フォルセリアが祈るために合わせた両手にふぅっと息を吹きかけた。吐息は緩やかに渦を巻き、フォルセリアの長い金髪を優しく揺らしていく。

 紡がれる呪文を巻き取って膨れ上がる、フォルセリアの吐息から派生した柔らかな渦。それは瞬く間に砦を包み、その外に溢れ出していた闇の触手を深淵アビスへと押しやっていく。


 ――あなたを。

 ――君を。


『必ず見つける』


 声はなくとも、思いは重なる。

 フォルセリアの白い頬を伝い落ちた一粒の涙が封印の風に掬い上げられ、それと同時にレヴィリウスの体が深淵アビスの闇へと引きずり込まれた。


 目が合ったのは、ほんの一瞬。

 引き止めようと伸ばしたかった手を頭上へ掲げて、フォルセリアが別れの言葉を呪文に変えて深淵アビスの入り口を完全に封印した。



 ***



 動くものはフォルセリア以外何もなかった。

 砦の外に押し寄せていた悪魔の気配は消え、彼らを引きずり込んだ深淵アビスもフォルセリアの力によって完全に封じられている。聖域の森は先程の惨劇が嘘のように、しんと静まり返っていた。


 血の臭いのする砦を抜け、フォルセリアは泉のほとりに佇んでいた。レヴィリウスとの逢瀬を重ねた、記憶に甘い秘密の場所。すぐそばにまだレヴィリウスを感じるのに、瞼を開けば冷たい風がフォルセリアの頬を撫でていくだけだ。

 優しく、そして激しく肌に触れたあの熱が恋しい。最後に見たレヴィリウスの顔を思い出すだけで、涙が再び頬を滑り落ちていった。


「その涙は同胞を救えなかった悲しみか。それとも、まさか宿敵に対しての恋慕ではあるまいな」


 ふいに落とされた冷たい声に顔を上げると、フォルセリアの後ろに白い光の人影が立っていた。人影は三つ。そのどれもが光に包まれ姿を見ることは出来なかったが、皆一様に背中に大きな翼を広げていた。

 肌に感じる威圧感。その滲み出る力の強さは、先程加勢に来てくれた天使たちとは比べものにならない。フォルセリアが聖女として神託を受けた時に感じた畏怖が、今目の前にある光の影からありありと感じられた。


「悪魔を永久に閉じ込める牢獄、深淵アビスを開いた月葬の死神には驚いたが、奴らを一網打尽に出来たのは結果論だ」

「そこに至る経緯に、聖女フォルセリア――お前の罪がある」

「我らの力を与えられておきながら、宿敵である悪魔と通じた大罪。決して看過できるものではない」


 弁明しようとしたフォルセリアの体から、自由が奪われた。声も出せない。瞼も動かせない。フォルセリアの意見など聞く必要がないとばかりに、三つの光がなおも静かに言葉を紡ぐ。

 感情のない、事実だけを淡々と述べる声音。けれど神聖すぎるがゆえに、声はただそれだけで恐ろしい。


「聖女フォルセリア。お前には贖罪が必要だ」

「純潔を守れど、お前の魂は穢れている。魂を清める輪廻が必要だ」

「百の転生を繰り返し、穢れた魂を浄化せよ。贖罪の転生が終わる時、お前の魂は晴れて天へと迎え入れられるだろう」


 光の一つが、フォルセリアに向かって手を伸ばした。途端フォルセリアの背中の翼が、左右に開く。

 別の光が、また同じように手を上げた。すると広げたフォルセリアの翼が、見えない力によって勢いよく引き千切られた。

 最後の光は、ゆっくりとその手を向ける。レヴィリウスを貫いたものと同じ光の矢が、今度はフォルセリアの胸に突き刺さった。


「聖女の力は封印した。巡る輪廻でお前は人の子として、二十二年間を生きる」

「魂を穢した二十二年目。お前の魂はその先を進むことなく、闇の眷属によって生を終える」

「闇によって贖罪を繰り返し、己の浅はかな思いが間違いだったと気付くが良い」


 翼をもがれ、激痛に声を上げることも許されないまま、フォルセリアの体が泉の中へ倒れ込んだ。跳ねる水飛沫は鮮血と羽根を巻き込んで、動けないフォルセリアを深く泉の底へと連れ去っていく。


 暗く澱む泉の底。冷たく凍える水のかいなが意識を拭い、確実に訪れる死が愛しく温かな記憶を消し去ろうとした。

 レヴィリウスを愛した記憶も、彼に触れられた甘い熱も。はじめからなかったように、死は残酷な手でフォルセリアとして生きた時間を真白に塗り替えようとする。


 何もないまっさらな魂で転生を繰り返し、その度に闇の眷属によって殺されるならば、フォルセリアの魂はいつか闇を……悪魔を恐れ憎むのではないか。愛したレヴィリウスを、思い出せないのではないか。

 そう思った瞬間、フォルセリアは最後の力を振り絞って右手を上に伸ばしていた。


 忘れてはいけない。

 会いに行くと約束した。

 必ず見つけると、約束したのだ。


 震える指先を照らすように、泉の中に光が射した。

 夜が明け、聖域の森が朝日に照らし出されていく。その眩しい光は泉にも降り注ぎ、水底に沈みゆくフォルセリアの周りには揺蕩う幾つもの羽根が浮かび上がった。


 伸ばした指先に、一枚の羽根が触れる。

 聖女の力を僅かに残した羽根を握りしめて、フォルセリアが思いを込めるように口付けた。フォルセリアの手の中で羽根が柔らかな光に包まれていく。羽根を守るようにくるくると渦を巻いた水は、やがて両手に包み込めるほどの小さな箱へと姿を変えた。


 来たるべき再会の時を待って、思い出の泉に包まれて眠る一枚の羽根。

 それはルダの揺り籠。

 月葬の死神を愛したフォルセリアの記憶をいだき、長い時を巡り巡って、それは今やっとあるべき場所へ戻ってきた。

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