第86話 感情が複雑骨折のちミキサー粉砕
3日も空いてしまって申し訳ありません。
切りどころがなくてかなり長くなってしまってしまいました。
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仕事をしながら気もそぞろな香苗をよそに、画面の中ではメイド妖精がスノウにコメント欄から質問を拾って読み上げている。
『騎士様、いい感じのところってどこで見分けるんですかってコメントが』
『……そう言われても難しいな。まあ、勘……としか言いようがないけど』
勘か。まあそうだな、と香苗の脳内のアッシュも同意する。
コメント欄では『で、出たー。技術実況で勘とか言っちゃう奴ーーーwwww』やら『こいつの感覚頼りすぎて、まったく参考にならねえな』などとボンクラどもが喚いているが、実際戦闘でとっさの判断基準となるものは“勘”だ。
アッシュなりに言えば、それは積み重ねた経験則のことだ。
引き際、攻め時のタイミングは経験に従って決めており、そういった自分の嗅覚には自信を持っている。相手がスノウでなければ大体はそれで有利を取れるし、最近はスノウにも1本取れるチャンスが巡ってきている。
だがそれはあくまでも個人が経験を積んで身に付けるもので、他人に教えようと思って教えられるものではない。
あるいは教えられるのかもしれないが、それはマンツーマンでしっかりと指導しなくては無理だろう。少なくとも動画講座などで不特定多数に伝えるのは不可能だ。
……実のところ、アッシュはスノウに質問したくて仕方ないことがある。
それはスノウが“殺気”と呼んでいる現象についてだ。
以前は敵意をだだ洩れにして襲い掛かっては撃退されていたアッシュだが、あるときシャインには狙撃が有効であることに気付いた。しかもそれは極力気配を殺して潜んでいるとき……もっと言えば、はやる敵意を押さえつけているほど有効なのだ。
現に先日のウィドウメイカー戦ではそうやって身を潜めて狙撃に成功したし、強力なF・C・Sを積んでいるはずのストライカーフレームにも敵意を押さえることで至近距離に接近し、尻尾に噛みつくことさえできたのだ。
このことからアッシュは、スノウは一種のテレパシー能力……あるいは敵意を読み取る能力があるのではないかと疑っていた。
確かチンパンジー1号が“エーテルセンス”という名前を付けて仮説を立てていたはずだ。聞いたときにはそんなオカルトあるわけないと鼻で笑っていたが、スノウを見ていると本当にあるのではないかという気になってしまう。
言っちゃなんだけど、そんな能力があったらペンデュラムさんの言うこともっと正確に読み取ってるんじゃないですかねえ。
ああ、シャインと話したい……とアッシュはキーボードを叩く指を震わせた。シャインの煽りが聴きたい。シャインにやるじゃんと言われたい。
シャインは目の前にいるのに、話をすることができない。何故なら自分は仕事中だから。
シャイン……シャイン……!!
俺ならお前の言うことを理解できるのに。
こんな雑魚どもと違って、お前の言わんとすることを全部受け止められるのに。
なんなら今すぐお前の元に飛んで行き、その喉元に噛みついて殺し合いたいのに……!!
「畜生、何でこんな日に限って俺は残業なんだあああああッ!!」
そう叫びながら、発作的にアッシュは投げ銭していた。
【アッシュさんが500万JCでこの配信を応援しました!!】
『貫禄の無言スパチャ』
『さすがはアッシュさんだ! 初投げ銭の名誉はサクッといただいていくぅ!』
『アッシュさん、大丈夫ですか! こんなところで夏のボーナス使っていいんですか! サマーガチャありますけどいいんですか! アッシュさん!!』
「うるせえ雑魚どもがあああああああああああッッッ!!!」
実際のところアッシュには痛くも痒くもない金である。
これまで【
一般的なプレイヤーならJCを使って装備を整えるところを、アッシュはストレス解消にリアルマネーをぶっこんでガチャを回して得た装備を使っているからだ。
ちなみに運営の想定としては、ガチャは新規参入した企業クランが所属プレイヤーに手っ取り早く装備を支給するために用意している。
個人プレイヤーが現在解放されている技術ツリーより少し上の装備を狙うためにも利用できるが、推奨される使い方ではない。ましてはストレス解消目的で回すようなものでは絶対にない。
うん、やっぱアッシュさんの金の使い方おかしいっすわ。
極度のストレスにさらされて発作的に金を使ったアッシュに、スノウはカメラ目線を向けて微笑んだ。
『アッシュお小遣いありがとう! 大事に使うね!』
「ふおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!」
アッシュはのけぞって自分の体を抱きしめ、ビクンビクンと体を震わせた。
これまでに感じたことのない快感が背筋を駆け抜けている。
頬を真っ赤に染め、ハァハァと荒い息を吐きながらアッシュは額の汗を拭った。
なんだ……なんだというのだ、この感情は!?
ホストに貢ぐよりも、メスガキ配信に貢ぐ方が業が深いですね。
まあこれまでも散々武器コレクションを貢いでは使い捨てられてるので今更ではあった。
ちなみに画面の中では璃々丸恋が自分が最初に投げ銭すると会員に言っておいたのにとぷりぷり怒っているが、アッシュは最近仕事で忙しかったのでそもそも読んでいない。
そんな会長をはじめ、スノウガチ勢がアッシュに遅れるなとばかりに続々と投げ銭を始めていた。
しかしスノウは緊張しているのか、はたまた他人の反応を直に知るのが怖いのか、コメント欄に目を向けずスパチャに反応する様子を見せない。
自分以外がスノウに投げ銭するのにちょっとモヤモヤするものを感じながらも、スノウがそれに対して反応しないことにアッシュは密かに口元を緩めた。
「フフン……シャインが反応するのは俺だけか。おめーらザコとは違うんだよ。やっぱ俺くらいのプレイヤーにならねーとシャインの眼中には入らねえっての」
『彼氏面かよ』
「ん? なんか言った?」
『いえ、何でも』
訊き返されたOSのAIはさらっとお茶を濁した。カメラアイが付いていれば露骨に目を逸らしたであろう。
この短時間でAIが格段に進化してる! すごいやアッシュさん!!
※※※※※※
そんなこんなでアッシュが画面をガン見している中、スノウはサクサクと大暴れして両軍の間に割って入ろうとしている。
ちなみにAIは残業タイマーを停止させていた。もはや指摘するだけ無駄だと判断したのである。なんて的確で冷静な判断力なんだ。主人もメスガキに狂ってないで見習えよ。
『まあまあ、カワイイ子ぎつねちゃんのイタズラじゃない。おにいちゃんたちもそんなに“おコンないで”よ、コンコーン♥』
「ああああああああああああ!!!!」
ガタッと椅子を蹴立てたアッシュがディスプレイを掴んで喚く。
「オイゴラァ!! てめえ誰にでも煽ってんのか!! クソがッ、許せねえ!!」
『アッシュさん!? それはどういう感情がもたらす罵声なんです!?』
ちなみに訊いたのはOSのAIである。
ディスプレイをガタガタ揺らして目を血走らせる主人にかつてない恐怖を感じていた。AIが新しい感情を学習しちゃうね!
なお、アッシュが怒った理由は割と単純だ。
これまでの経験上、アッシュにとってスノウに煽られることは挑戦状を叩き付けられることに等しい。そしてアッシュにはスノウのライバルが務まるのは自分しかいないという自負があった。
つまりスノウが自分以外の不特定多数に挑戦状を送り付けたことで、相対的に自分のライバルとしての価値が下落してしまうことに怒りを抱いたのである。
あいつに相応しいのは俺だけなのに! あの尻軽メスガキめッ……わからせてやりてえ!! お前に相応しいのは! 俺だろうがあッ!!!
すまん、全然単純じゃなかったわ。
嫉妬と独占欲とライバル心が複雑骨折してミキサーでかき混ぜられたような極彩色の感情であった。やだ……この子のカルマ深すぎ……!?
「ああああああああ!! 今すぐ帰って乱入したいいいいいいいい!!!」
『ここが家なんですが。自分がどこにいるのかもわからなくなってる……』
そしてそんなアッシュの感情は、1人のパイロットとの出会いによってついにクライマックスに達した。
そう、【
アッシュは直接戦ったことはないが、中規模クランにいる割に厄介な相手だと聞いてはいた。しかしあくまでも中規模クランのパイロットの域は出ないはず。
仮にも大クラン【氷獄狼】でエースを張っていたアッシュより強いことはないはず。ましてやアッシュをも制するスノウより強いなんてことがあってよいはずがない。
「シャインッ! こんなのに負けたら承知しねえからなッ!!」
『どういうポジションからその発言が出てきてるんです……?』
最前線彼氏面だよ、言わせんな恥ずかしい。
本当に恥ずかしいから困る。
そしてゴクドーの動きは、アッシュが舌を巻くほどに上手かった。
まず気配を殺すのが上手い。随分と殺気を隠すのが上手くなった自負があるアッシュをもってしても驚嘆する手際。アッシュが気配を殺して獲物を狩る狼なら、ゴクドーは磨き抜かれた暗殺者の手腕だ。
そして凄まじいほどに速い。目が追い付かないほどのラッシュで襲い掛かる。
だがアッシュが何よりも驚いたのは、遠距離から“サテライトアーム”を飛ばして斬り付ける剣術だ。剣術自体もさることながら、腕を遠距離から飛ばして攻撃するのは至難の業だ。
アッシュもガチャから出たのでやってみたことがあるが、フルダイブの完全3D空間で腕を遠隔操作する行為はかなりの空間認識能力を要求する。
そのときはとてもじゃないがこんなものは使い物にならないと苦笑して倉庫に放り込んだ。他の大体のプレイヤーも同じ反応を示した。後で何らかの補助パーツが出ればともかく、現状ではお遊びアイテムに過ぎないと。
それをこうも本物の手足のごとくに使いこなしてみせるとは。一体どれほどの修練を積めば可能になるのだろうか?
正直に言えば、こんなのが中規模クランに埋もれているとは思ってもみなかった。認めたくないが、彼は今の自分にも匹敵するほどのプレイヤーだ。
つまりはシャインのライバルとしての資格を持つということ。
「あっ……!!」
ギリッと奥歯を噛みしめながら死闘を見守っていたアッシュが声を上げた。
画面の中でシャインがプロレス技を決めたのだ。
「おいシャイン!! なんでこれまでその技を俺に見せなかった!? テメエ技を出し惜しんでんじゃねえぞ!!!」
あまりの悔しさにアッシュはガチガチと奥歯を噛み合わせた。
俺にも見せたことのない技をかけやがって! そんなにもそいつのテクがよかったのか!? 俺じゃあ足りねえってのかよ!? くそおおおおっ!!
『やだ……この人、脳が壊れてる……』
そんなアッシュたちの声が届くはずもなく、全力を尽くした技の応酬の末にスノウは艶然とした微笑みをゴクドーに向ける。
『ボクともっと愉しもう。いっぱいいっぱい殺し合おう?』
「ああああああああああ!!! シャイイイイイインッ!! テメエなんて顔を見せてやがる!! 俺以外にッ、そんな顔を見せるんじゃねえええ----ッッ!!」
俺の! 俺のものなのに!! シャインからライバルとして認められるのも、あの身の程をわからせたくなる笑顔も俺だけの特権なのにッ……!!
俺がこの2カ月を通じて培ったシャインとの絆が、ほんの10分にも満たない時間で他の男に……ッッ!!
「シャインッッ!! 敵と戯れるのはやめろォォッッ!!」
『『『お前が言うな』』』
他の視聴者と共に思わずツッコまずにいられないAIであった。
※※※※※※
そんなこんなで怒涛の生放送は幕を閉じた。
興奮冷めやらぬ視聴者たちは、次の配信はいつだろうとか、ファンクラブにはどうやって入ればいい?といった雑談に花を咲かせている。
彼らは自分の技量では理解が及ばなかったものの、今夜の配信がとてつもない価値を持つ動画であったことはわかっていた。
実のところ超絶ビビリで内弁慶のスノウライトちゃんは、コメント欄を自分で読む度胸がなくてディミに代わりに読んでもらっていたのだが、もし自分でこのコメントの盛り上がりを読んでいたら思わぬ好評に驚いたことだろう。
そんな盛り上がりを横目に、アッシュはため息を吐いた。
これでもうスノウは自分だけのものではなくなってしまった。スノウの魅力など誰にも伝わらなくてよかったのに。スノウからライバルとして認められるのは自分だけでよかったのに。
だが、同時にシャインが多数の視聴者から好評を集めたのが自分のことのように誇らしくもある。どうだ、シャインはすごいんだぞ。そんなシャインから最初にライバルとして認められたのは他ならぬこの自分なのだ。
そんな複雑な想いを込めて、アッシュは遠吠えするかのように叫んだ。
「シャイン!! 次は俺が行くからな!! いつもこんな都合よく行くと思ってんじゃねーぞぉぉぉぉ!! ……あ、でも仕事が……」
『こんなとこガン見してっから残業終わらねえんだよぉ!』
AI、渾身の叫びであった。この1時間よく耐えましたね。
配信も終わって我に返った香苗は、さすがにバツが悪そうに頭を掻いた。
「あ……ごめん……。あの、残業タイマーは」
『止めてますよ。こんなの残業に計上できるわけないですから』
「あはは……」
『ひとまずリフレッシュをオススメします。風邪をひかないうちに入浴されてはどうですか?』
AIにそう指摘されて、香苗は自分が汗だくになっていたことに気付く。
季節は7月。ただでさえ暑い時期に白熱して絶叫していたらそうもなるだろう。汗に濡れたTシャツがぴっとりと肌に張り付き、Gカップの巨乳の形を浮かび上がらせていた。黒いシャツでよかったね。
「うん、じゃあそうしようかな」
リラックスは残業が終わってからにしようと考えていたので、まだ外から帰ったまま入浴を済ませていない。
風呂自体は香苗が帰ってきた時点でAIが湯船に水を張って沸かしているので、いつでも入れる状態にある。
脱衣所で香苗が洗濯機に服と下着を放り込むと、洗濯機の横の棚が開いて折り畳まれたフェイスタオルが出てきた。タオルを手に取った香苗は、そのまま風呂場に入っていく。
なお香苗が風呂から上がれば、洗濯機がバスタオルと適当な着替えを用意してくれる手はずになっている。ついでに冷蔵庫から冷たい水も出てくるし、望むなら冷えたワインやブランデーを掛けたバニラアイスだって出てくる。
もっとも、今日は残業の途中なのでワインもアイスもお預けだが。
香苗が住んでいるマンションはAI家電対応物件だ。単身者でもAIが執事となって快適な生活を提供してくれるのが売りである。家賃は結構な額だが、その快適さは一度味わえばやめられないと評判だ。
快適すぎて婚期を逃すとも言われているけど。
このシステムには香苗が勤めている商社が提携する大手AI開発メーカーが、10年前に実用化したAI技術が使用されていた。
香苗は頭から冷たいシャワーを浴びて、火照った頭を冷ました。
興奮で茹だった意識がたちまち冷えて、香苗は冷静さを取り戻していく。
「大丈夫だ……私は正気に戻った」
正気に戻ってない奴だけが口にする発言であった。
香苗は熱い湯船に浸かると、誰も見てないのをいいことにくう~と唸り声を上げる。江戸っ子じいさんみたいなやっちゃ。
しかし彼女がじいさんでない証拠に、湯船にはぷかぷかと脂肪が詰まった双丘が浮かんでいる。睡眠不足で過酷な仕事をこなしている割には肌ツヤは良く、水滴が滑らかな肌を滑り落ちていった。
「はぁ……まったくシャインめ……」
興奮の名残で思わず呟いて、香苗は頭を振る。いや、やめよう。
あのクソガキのことを考えてると頭が本格的にどうかなりそうだ。
香苗はこの後の残業に向けて頭を切り替えるため、仕事のことを考えることにした。
そう、AIパビリオン。開催まで数か月を数えるこのイベントが目下の懸念事項だ。
仕事はいよいよ忙しさを極めつつあり、これからしばらくはゲームにログインできそうにもない。本音なら今すぐにでもシャインをわからせに行きたいところだが、さすがに激務を放り出してゲームに熱中するなんてことはできない。
「それにしても……何であんなに書類が出てこないんだ?」
香苗は提携する大手AIメーカーの担当者の仕事ぶりに軽くぼやく。
何度言っても進捗状況を教えてもらえない。
非常に重要な技術に関する発表会だけに、関連企業からの注目も集まっている。内々では既に売り込みも始まっているのだ。
何しろ今回発表される技術は“人間同等の判断能力を持ったAIの調律”。
ほぼ人間と変わらない受け答えができ、より合理的な判断力を持ったAIを育成するための機材とノウハウに関するものなのだ。
これが実用化されれば、AIができる仕事の範囲はもっと広がる。
例えば病院の夜間緊急診療。複数の病院間で空いているベッドを瞬時に検索し、患者の重症度に応じたトリアージをAIが合理的にできるようになれば、どれほど医師の助けになるだろうか。
その他にもこれまで人間にしか判断できないとされていた分野はいくらでもある。24時間働けて、俯瞰的な視野を持ち、瞬時にデータベースにアクセスできる働き手は切望されているのだ。
香苗はメーカーのプレゼンでそのサンプルとなるAIと会話したが、確かにあれはすごかった。まるで中に人間が入っているのではないかと疑うほどに素早く、的確な応答が可能なAI。
どこか感情が希薄なことに不気味さを感じなくはなかったが、あれが仕事の相棒を務めてくれるというのなら香苗も信頼できそうだと思う。
あの調律技術はきっと業界を震撼させるだろう。
何しろこれまで世界に知られていない、まったくの新技術だ。
だが……。だが、香苗はざわざわとした不穏な予感を感じずにはいられない。
それはつい最近、レイドボスと戦ったときに感じたものだ。
そして今日見た配信で、その正体がわかった。
「あのメイド妖精……」
ディミ、と呼ばれていただろうか。
まるで姉妹のようにスノウと語らい、人間らしく笑って怒るメイド妖精型AI。
あのAIの方が、プレゼンされたAIよりも遥かに出来がいい。
実際に両方と話した香苗だからこそ、明確にわかる。
ディミはあまりにも出来が良すぎる。中に人間が入っていないことの方が不思議に思えるほどだ。
問題は、大手メーカーがプレゼンする前にその新技術の結晶がゲーム内に既に存在してしまっているということ。
つまりこの驚嘆すべき新技術は、『七翼のシュバリエ』の運営会社にとっては新技術でも何でもないということだ。
「これが露見したら……何もかもおしまい」
香苗は湯を掬って顔を洗い、苦々しい笑みを浮かべた。
顔中ににじむべっとりした汗が気持ち悪かった。
「あの運営、本当に何者なのかしら……」
誰もが思い、そして誰もが真相にたどり着けないでいる疑問。
日本だけでプレイ人口数百万、全世界では数億にも達するプレイヤー数を持つゲームなのに、誰もその運営会社がどこに存在するのか知らない。
巨額の金が動いているのに、その金の流れを追っても決してたどり着けない。
クレジットに記されたスタッフが実在の人間なのかもわからない。
たとえばパーツデザインには“BURNNY”というスタッフ名が記されているが、明らかに偽名だろう。他のスタッフ表記もすべて似たり寄ったり。
そんなふざけたスタッフ表記にそぐわない、既存のゲームよりも数段優れた開発力。とても人力では検証が追い付かないほどの膨大な数のパーツと兵器。意図的に破綻させたとしか思えないゲームシステム。異常なまでに綿密な物理演算。枚挙に暇がない隠し要素。
これだけのものを開発するのに、いったい何十年の時間が必要になるのだろうか。
……いや、それは考えても仕方がない。今考えることは他にある。
香苗の額に脂汗が浮かぶのは、忍び寄る破滅の予感のせいだけではない。
なぜかいくら請求しても出てこない開発資料。プレゼンされたAIは既に存在しているのに、なぜ資料が出てこない?
どう考えたって、出てこないわけがないのだ。
「それが自分たちで開発した技術であれば、だけど」
まるで他人から与えられた技術を必死に解析して、なんとか自分たちで開発したと言い張ろうとしているような。
そんな疑惑を拭い去ることができない。
いや、誰が開発した技術であろうがこの際問題ではない。
仮にパビリオンまでに解析が間に合わなかったとしても、サンプルAIはもう存在しているのだからそれを展示すればいいのだ。
一番最悪なのは、結局どうあがいても解析が不可能だった場合。
あちこちに売約した挙句、どこにも技術を売ることができない。そんな事態になってしまったら……。
香苗は熱い湯船の中で、ぶるっと体を震わせた。
「そうなったら……すべて終わり」
大手AI開発メーカーだけではない。香苗の会社は間違いなく消し飛ぶ。
香苗も路頭に迷うことになるだろう。
「頼むよ……絶対にそれだけはやめてね……」
首まで湯に浸かって、香苗は祈るように呟いた。
※※※※※※
そんな彼女の呟きを聞きながら、風呂の外ではAIが湯上りの香苗のために思案している。なんだかマスターはとても疲れているようだ。
残業があるから本当はよろしくないけれど、特別に彼女が好きなブランデーがけバニラアイスを用意してあげよう。きっと喜んでくれるだろう。
自宅のAIの進化に、香苗はまだ気付かない。
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