第2話
ひとまず離宮で落ちついてから、一行は早速狩りに出た。
狩り場はすぐ近くの
ここは帝のための離宮で、いかに惟喬親王とはいえども殿上に上がることはできないが、親王とその供であれば庭への出入りならできる。
輿は水無瀬の離宮に置いて、ここでは業平たちとともに馬上の人だった親王は、渚の院が近づくにつれ感嘆の声を上げた。桜が満開だったのである。
それも数十本の桜の木はあった。花びらが青空によく映え、その一帯が輝いているようにも見える。
親王が馬から下り、一本の桜の木のそばに歩み寄っていった。そして黙って、木を見あげていた。業平も馬を下り、その隣に立って同じように桜の花の枝を見上げた。
「すばらしい盛りですね。いい時に来ましたね」
「そうですね。狩りはやめにして、ここでみんなして歌を詠みましょうぞ」
親王の提案には、業平も大賛成だった。もともと狩りなどはどうでもよく、都から離れるのが目的だったからだ。
歌――やはり業平にとって若い頃から今に至るまで、最も心の充実を感じる相手がそれだ。銘々、思い思いの桜の小枝を折って烏帽子に挿し、丸くなって座った。その従者の一人に親王は何か言いつけ、馬で走らせた。
「こうしていると、人生ものどかなものですね」
四十四歳の業平の言葉ではない。わずか二十五歳の若者である親王の言葉だ。だが、思いは業平も同じだった。さらに親王はつぶやく。
「いろいろありましたけど、何もかもが夢のようですよ。まるで今まで何事もなく、生まれてからずっとここでこうして、のんびりと桜を見て暮らしてきたかのようです」
「でも、桜は散ってしまいますけど」
何気なく業平は言ったのだが、親王ははっとした表情で業平を見た。それには業平の方が、戸惑ってしまった。
「何か、お気に触りましたか」
「いやいや」
親王は苦笑を浮かべた。
「桜をいつまでも愛でていたいという気持ちは、散る桜を惜しむ気持ちに通じますね。それは苦悩ですよ。まるで皇位を逃がしたときのあの口惜しさのように……」
業平は、心がしめつけられる思いだった。ここ最近は互いに愚痴も少なくなっていた後の、久々のその話題だった。
そして業平は、ため息をついた。皇族にとっての皇位に就くことが至上の望みなら、臣下にとってそれは宮中で栄華を極めることである。誰もが栄華を求め、そのために人生を費やす。そしてその中に、業平も位置を占めてきた。
もっとも今の彼は、いや昔から彼は、そのような望みは持っていなかったが、今ははっきりとこの交野の桜の下で彼は心ののどかさを感じていた。
栄華のためにだけあくせくと働く人々――くだらない人種だと、業平は心の中で吐き捨てる。それで、どれだけ心の慰めを感じることができるというのだろうか。少なくとも自分はそのような人種ではないと、業平は自負している。宮中の栄華などなければ、心のどかに暮らせるのだ。
業平は顔を上げた。
世の中に 絶えて桜の なかりせば
春の心は のどけからまし
それを聞いた人々は、歓声を上げた。
「右馬頭殿、何ゆえ桜がなければ、心のどかなのですか」
同席した者のその問いに業平は含み笑いを浮かべただけで、何も答えずに前方の土を見ていた。
「歌人に歌の心を聞くなど、歌の道にあらず」
質問した者をしたり顔でたしなめる者もいた。
「いや、私には分かりますよ」
惟喬新王が顔を上げた。
「つまり……」
「まあまあ」
業平は笑んだまま、親王が言いかけたのを制した。他のものが、歌を続けた。
散ればこそ いとど桜は めでたけれ
憂き世になにか 久しかるべき
これにも喝采が浴びせられた。返歌としては上出来である。しかしその歌の主は業平の歌の真意までは読み取っていないようだ。だが、それはそれでよしとした。
逆に、この何気ない表面的な歌の作者がそこまでは意図していないであろうはずの深い意味まで、業平は読み取ってしまう。
栄華を、権力を手に入れたとて、この俗世では長続きはしないのだ。良相も右大臣まで昇ったが、悲嘆の最期を迎えた。――我が世誰ぞ常ならむ……この古歌を紙に書いて結び、摂政太政大臣に送ってやりたい。
だが……そのような行為はせっかく手にしたのどかな境地を台無しにして、くだらない人種の仲間になることを意味する。業平は首を横に振った。皆は歌に興じていて、業平のそのようなしぐさには気づかなかった。
親王が、吟じはじめた。
桜花 散らば散らなむ 散らずとて
ふるさと人の 来ても見なくに
やはり親王は、業平の歌の真意を読み取っていた。
歌会はさらに続く。その後も何人かが歌を詠んだ。そこへ親王が先ほど使いに出した従者が戻ってきた。手には酒の瓶をたくさん持っている。使いの内容はこれだったのだ。
「よし、もっと酒を飲むのにいい場所を探そう」
酒好きの親王は、急に生き生きとして立ち上がった。それは、業平とて同じだ。
馬はその場につないだままでぞろぞろと歩いていくうちに、一行は淀川に流れ込む小さな川に出くわした。
「よし、ここにしよう」
親王のひと言で、その河原に彼らは再び
まずは業平が、親王に杯をさす。それを飲み干してから、業平に返杯した。そこへ、口をはさんだものがあった。
「この川は、天の川と申す川でしたね、たしか」
杯を口に運ぶ親王の手が止まった。
「天の川とな? あの空の上にあるあの天の川か?」
「はあ、どういう由縁かは存じませんが、同じ名でして」
「それはおもしろい」
親王は笑った。そしてまた、業平に酌をした。だが、業平が飲む前に親王は笑ったまま手のひらを業平に向けた。
「お待ちください。交野で狩りをして天の川のほとりまで来たのだから、これを題にして一首いかがですか。お酒はそれからですよ」
おもしろい趣向だと考えているうちに、業平の頭の中では同時にもう歌ができていた。
狩り暮らし
天の川原に 我は来にけり
「ほう」
親王は何度も、その歌を口ずさんでいた。それだけで、なかなか返歌が返ってこない。そこで咳払いをしたのは、紀有常だった。
宿借す人も あらじとぞ思ふ
「これはやられましたな」
有常の歌に業平はただただ苦笑だった。自分の娘と疎遠になっている婿を、ちくりと風刺した歌だったからだ。さすがにばつが悪くて、業平はそれには返歌ができなかった。
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