第5部 小野宮(おののみや)

第1章 渚の院(なぎさのいん)

第1話

 右大臣良相は、あの応天門事件で兄の摂政太政大臣良房から無言の重圧を受けてしきりに辞表を提出していたその翌年、すなわち貞観九年の十月には病で他界した。五十一歳だった。

 歳のせいと言えば言える。しかし、その兄の摂政太政大臣など、六十四歳でまだぴんぴんしているのだ。

 そしてその養子の基経は昨年の暮れに三位中納言となっているのに対し、あれほど対抗意識を燃やしていた常行はまだ四位の参議である。

 すべては業平の危惧通りになっていた。摂政に先手を打たれて右大臣は辛い立場になり、辞表――それもなかなか受理されず、これでは蛇の生殺しで、摂政のいじめ以外の何ものでもなかった。そしてとうとう老体に支障をきたしての他界……そうとしか思えない。

 だが、業平が今さら何をどう思ったとしても、どうにでもなることではない。あくまで故人は舅だった人だが、同情ばかりしてもいられない。

 その口惜しさが、自邸の業平に杯の数を重ねさせる。そして最後の一杯を飲み干したあと、彼は思い切り杯を床に叩きつけて割った。

 酌をしていた若い侍女が、驚いて瓶子を落とした。割れたその瓶子から立ち上る酒の匂いに、業平の酔いはますます進んだ。

 彼は若いその女房を、一気に抱き寄せた。

 ――良相の立場上の不遇、辞表、死去――しかし、そのようなことは自分の知ったことではないと業平は心の中で叫んでいた。

 突然のことに、女房は身を固くして声も出せずにいた。業平はその髪にくちびるを這わせ、匂いをかいだ。装束の香ではなく、人体の匂いがした。そのまま彼は女房と頬をこすり合わせ、荒々しく押し倒していた。


 業平の右馬寮の長官としての仕事振りも、最近ではかなりいい加減なものになっていた。

 もっともこの職務は、行事のとき以外はほとんど実務はない。奈良の都の頃はいざ知らず、このごろは各役所の機能もかなり形骸化しつつある。役所の機能を動かす律令自体が機能せず、宮中のすべてを動かしているのは摂政の命だったからだ。

 おもしろくない。だから、無断欠勤が重なった。若い頃の彼にとっては無断欠勤は得意で、人々の顰蹙を買ってきた。しかし、今はまがりなりにも寮の長官であるから、たとえ人々から内心顰蹙を買っていても、昔と違って表立って咎める人はいない。同じ職場にいる人は、全員が部下だからである。

 しかも右馬寮は八省の被官ではなく独立しており、いずれかの省に属しているわけではないので業平の直接の上司というのはいない。だから彼は時折しか出仕せず、たいていは自邸で酒を飲む毎日だった。

 西三条の妻も変わってきた。

 関心が自分よりも息子の方に向いているのを自然と感じる。その妻も今は父を亡くして今は不遇の情況にあり、頼みの兄も四位の参議どまり、妹の女御多美子にも女御高子というライバルが現れた。

 もっとも業平に対する態度は、昔と何ら変わることはない。だが、語らいの話題のうち、多くが息子のことであった。西三条邸は主なき屋敷と化しているようで、その対の屋に業平の次男と直子はひっそりと暮らしているといった感じだった。

 業平の足は、息子の話ばかりする妻のもとへは次第に遠のいていった。変わりに足繁く通うようになったのは、別の女というわけではなくほかならぬ惟喬親王邸だった。

 時には朝から、終日ひねもす酒を酌み交わすこともある。二十四の若者を四十の中年男につき合わせるのも気が引けたが、親王もまた四十のデカダンの徒と同じ心境のようだった。

 ともに愚痴を言い合いながら、酌をし合う。

 心が悶々としているときは、愚痴を聞いてくれる人がいることが最大の慰みだ。そういう意味では、互いに愚痴を言っては相手の愚痴を聞き、そうして互いに慰めあっている二人だった。


 年が明けて春になった。もうすぐ桜も満開になる。

 年に一度の行事が今年も近づいてきた。それは宮中の行事ではない。

 業平は毎年春に、惟喬親王とともに山城の南の水無瀬みなせへ狩りに出かけることになっているのだ。

 水無瀬とは淀川の下流の、山崎の対岸である。このあたりでは川は鴨川と桂川を合わせ、さらには宇治川までをも合流させて、巨大な巨椋池おぐらいけが広がっている。

 さらに石清水いわしみずの山の下を通って川を下流に行くと山は左右に遠のき、再び結構広い平地となる。狩りにはもってこいの場で、狩りのための離宮すらある。

 親王は皇族たる身分ゆえに、その離宮を使うことが許されていた。

 供は業平をはじめ、十数名のこぢんまりとした行列だ。世捨ての宮らしく、随身をもつけていない。他には業平の舅の紀有常の姿もあった。親王が輿である以外は、皆狩衣姿の騎馬である。

 空はよく晴れていて、いかにも春といった陽射しだった。久々の解放感である。今、宮中では先帝の御陵が山火事で燃えたことで大騒ぎとなっているが、今日はそのようなことは別世界のことだ。

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