第2話
宮中ではその後、応天門炎上事件に関して表だった動きはなかった。ただ、応天門のひとつ内側の会昌門の前で大祓の神事が行われたり、五畿七道の諸社に奉幣が行われたりしただけだった。すべて応天門の炎上のためという名目がついている。
そのまま夏が過ぎ、応天門の焼け跡はしばらくそのままで月日は流れていった。そのままでは朱雀門の裏側から会昌門が丸見えで、秋になってようやく復元の槌音が響き始めた。
そしてその頃、業平は紀家を訪ねた。紀家の妻との仲は相変わらずで、息子の棟梁もすでに宮中に出仕している。よってその日もまた業平は寝殿にいたし、対座していたのも舅の有常だった。
そこへ客人が来た。有常と同族の
その夏井の顔は蒼ざめていた。
「密告でござる!」
例の客は業平がいるにもかかわらず、いきなり有常の前に両手をついた。
「応天門炎上の真の火付けは、わが弟の
「何?」
と、先に声を発したのは業平の方だった。伴大納言善男といえば数ヶ月前の事件の直後、犯人は源左大臣信だと密告した者ではないか。その密告者こそが真犯人とは……。
「誰が、誰がそのようなことを」
今度も業平が、主人をよそに訪ねた。夏井も業平の方に身体を向け直した。
「左京の人で、官人としては最下位の大宅の何とかという者でして」
「そんな下っ端が……」
「はい、たしか、備中権史生で大宅の鷹取とかいいましたでしょうか。
伴大納言の密告のときには、太政大臣は待ったをかけた。しかし権史生ごときの密告にはすでに検非違使が動いているという。何かがおかしい。
「実は……」
夏井は声を落としてそう言ってから、部屋の中を見渡し、
「お人払いを」
と、有常に言った。有常の顎で、女房たちは立ち上がって退出した。主人を差し置いての自らの振る舞いに気づいた業平も、一礼して席を立とうとした。それを制したのは夏井であった。
「右馬頭殿は、どうぞそのまま。御舅の少納言殿の御前で何ですが、右馬頭殿は右大臣家の御婿でもいらっしゃる。ことが右大臣家と争っております太政大臣殿のことですので、どうか右馬頭殿もお聞きくだされ」
そう言われて、業平ももとの席についた。夏井は低い声のまま、業平と有常を交互に見て話しはじめた。
「弟の豊城が仕える伴大納言殿は弟の縁で私も存じておりますが、たしかにその風貌は狡猾そうに見えるところもあります。しかし、単独で応天門に火をつけ、さらにその罪を左大臣殿にかぶせて密告するなどという芸当が出来るような大物ではないのですよ」
有常と業平は、互いに顔を見合わせた。まず、業平が口を開いた。
「それはどういうことです? いったい何がおっしゃりたいのですかな?」
「はい、陰で糸を引いている、もっと大物がいるということです」
「ちょっと待て。めったなことは言いなさんな」
有常が制したが、夏井はお構いなしだった。
「その大物こそ、ほかならぬ太政大臣殿です。伴大納言殿に放火をさせたのも、左大臣の罪として密告させたのも」
「しかし……」
首をかしげて、業平は口をはさんだ。
「太政大臣殿は、左府殿の無罪を帝に奏されたということでしたが」
「そこでござる」
夏井は自らの膝を打った。そして身を乗り出した。
「密告を軽々しく信じた右大臣殿を陥れるための策略ですよ。すべてが大芝居のからくりだったのです。これは弟が伴大納言殿から直接聞いた事だから、間違いない」
すでに業平も有常も、言葉を失っていた。夏井はさらに続ける。
「はじめから全部、筋書があったことですな。今回、伴大納言殿が密告されたことも含めて。これで火付けの真犯人が伴大納言殿ということになったら、源左大臣殿を追捕しようとまでした右大臣殿は面目が丸潰れとなる。それにしても、一番かわいそうなのは伴大納言殿だ。利用されるだけ利用されて、最後は捨てられたのでござるからな。もう怒りまくっておられて、その政所の家司を集めてすべての真相を暴露されたということでござる。ゆえに弟もそれを聞き、そしてわが耳にも入ったというわけでして」
「しかし」
業平は言いかけてやめた。伴大納言善男の糾問は本人が大納言でもある関係で、参議である検非違使別当が直々に行うと思われる。その宰相使別当は、太政大臣の従弟でその息のかかる良縄老人だ。いくら伴善男が真実を主張しても、取り合ってはもらえまい。
「許せん!」
業平はこぶしを握っていた。政治的なことに関心を寄せ、それで怒るなどということは業平としては珍しく、これまでにはなかったことだ。その業平は、すくっと立ち上がった。
「婿殿、いずこへ」
有常が尋ねたが、業平は一礼しただけで紀邸をあとにした。
その足で業平は西三条の右大臣邸に赴き、妻のいる西ノ対へは行かずに常行と面会し、そして事の次第をすべて常行に告げた。常行の逆上は、言うまでもない。その常行に伴われて業平は寝殿に渡り、ともに右大臣良相と対座した。
この時の良相は、ちょうど五十の老齢を迎えていた。だが、太政大臣はそれより十三も年上の狡猾な老人だ。だが、そのたくらみのすべてを聞いても、右大臣は静かに座していた。
「父上!」
常行が身を乗り出す。良相は目を閉じた。そして言った。
「騒ぐでない」
「しかしッ!」
「ここで取り乱してはいかん。冷静になることが大切じゃ」
「しかし父上は、伯父上の汚いやり方が我慢できるのですか」
「たしかに、汚いやり方よのう。これからも、もっと汚いやり方で出てくるかも知れぬ。しかし、こちらも同じようにやり返せば、泥沼にはまる。あくまで冷静に、紳士的に対応するのじゃ」
納得がいかない――と、業平は思った。しかしいくら寝殿の殿上で右大臣と対座が許されているとはいえ、そしていくら相手が自分の舅であるとはいえ、右馬頭という身分上、今の業平には何も発言できない。業平にはそれがもどかしかった。
「とりあえず、はっきりとした証拠を調べてからじゃ」
右大臣がその証拠調べなどと称してグズグズしているうちに、伴善男の糾弾は続いた。だが善男のほうも犯行を否認しているので、こちらの方もかなり長引いていた。
ところがそのうちに、太政大臣良房に「天下の政を摂行せしむ」という勅が下された。最も今の帝の即位以来、すでに太政大臣は実質上は摂政であった。帝の御元服とともに、一応その任は終わったということにはなっていた。
だが今回、あらためて正式な勅の形で良房は摂政に任じられたのである。
ところがここに名実ともに摂政となった良房は皇族ではない前代未聞の人臣摂政であり、これが世人を驚かせた。臣下にして帝の代行者であり、あるときは帝と同等の権力を持つ。この貞観八年から、平安朝の歴史の流れは大きく変わったといえる。
だが業平にとって驚いてばかりいていいことではなく、言わぬことではないと彼はいきり立った。
それでもどこか冷めたところがあって、なぜそこまで自分が政治的問題に頭を突っ込むのかと訝しくもあり、自分でも不思議な気持ちだった。以前の彼なら、絶対にあり得ないことだったからである。
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