第4部 応天門

第1章 炎 上(えんじょう)

第1話

 業平は四十一になっていた。

 つまり、あの伊勢下向から二年が過ぎており、その年に彼は右馬頭うまのかみになった。

 久々の昇進だ。衛府からは外れてしまったが、今度は長官である。

 右馬寮で扱う宮中の馬のことは、一気に彼の肩にのしかかってくることになった。

 さらに七月の相撲すまい節会せちえでは、業平は相撲司を務めたりしている。

 宮中の歯車の一つになってしまったようにも見えたが、実は彼の意識は昔のままだった。四十になろうが四十一になろうが、心的変化はないつもりだった。若者の頃と何ら変わることなく、自分は自分だと思っている。考えていることも何ら変わりはない。

 ただ、周囲の自分を見る目が変わってきていることだけは感じていた。彼が自分の年齢を意識するのは、そのようなことを通してだった。

 宮中に対しても同じで、仕事は仕事として一応責任上はこなしているが、彼は自分がそれには染まりきってはいないつもりでいた。


 そして年が明けて貞観八年、業平は四十二になった。この年は、春から華やかな行事が多く、まずは三月の末に右大臣良相よしみの西三条邸に帝が行幸され、花見の宴が催された。

 時に桜は満開であった。宮廷官人はほとんど駆り出され、文章生もんじょうしょう四十人による百花亭の詩の詩作、それに舞や射技と盛りだくさんで絢爛たる行幸であった。

 もちろん、業平もそれに参列していた。何しろ業平にとって対の屋では、「お帰りなさいませ」といわれて迎えられる西三条邸だ。勝手も知っている。だから、勤務の一環としての参列ではあったが、業平は晴れがましい気分で仕事にも熱が入っていた。

 二年前に加冠を終えられた十八歳の帝の添伏も、この西三条邸の右大臣の娘の多美子だ。しかも多美子は、すでに女御になっていた。だからこそこのような大仰な行幸になったのだろう。

 その点、太政大臣良房は、はっきりと後れをとっている。しかも、太政大臣の染殿邸にも花見の宴の行幸はあったが、右大臣邸への行幸から七日も後の、閏三月になってからだった。閏が入って春が延びなければ、この行幸はあったかどうかも分からない。

 右大臣良相は得意絶頂だった。

 業平も右大臣家の縁者として、羽振りがよかった。そしてもうひとり羽振りの絶頂の男は、多美子の兄の常行だ。この日の射技の射手の一人でもあった彼はすでに参議で、上達部かんだちめの中に座を占めている。さらに右近衛中将も兼ねていたので、彼は人々から宰相中将と呼ばれていた。

 その常行が行幸から数日後、久々に業平を誘った。山科に行こうと言うのである。業平にとって山科は、かつて先帝の女御で常行の姉だった多賀幾子の葬儀の足で一度訪れたことのある地だ。思えばその時、はじめて業平は常行と親しく接した。まだ常行が、業平の小舅となる前の話である。

 山科では、また例の法親王を訪ねようということになった。そもそも常行が誘ったのはそれが目的で、常行は時々訪ねているようだが業平はあの時以来の訪問となる。

 山科の禅師皇子ぜんじのみこと呼ばれている先帝の弟宮の人康親王――法性ほっしょう法新王を思う時、業平はふと惟喬親王と通じるものを感じていたが、惟喬親王の不遇に比べたら山科の禅師はまだ仕方がないといえる部分があった。


 ところが、その山科行きが実現する前に、世の中はそれどころではなくなった。太政大臣邸への行幸から十日もたたないうちに、大事件が持ち上がった。

 それは大内裏の中心である大極殿のある朝堂院の正門ともいえる応天門が炎上して全焼し、門の左右から延びる二層の回廊の先の棲鳳楼、翔鸞楼までもがことごとく灰燼に帰したのである。


 出火の原因は、全く分からなかった。何しろ火が出たのが全く人気ひとけのない夜だった。

 宮廷の門はすべて閉ざされ、大内裏の中にも一握りの宿直とのいの官人がいたくらいである。

 夜の宮廷は巨大な暗黒空間であり、帝のおわします内裏さえ、夜は魑魅魍魎ちみもうりょうが跋扈すると人々は信じていたのである。宿直までもが曹司の戸を締め切って明るくなるまでは簀子にさえ決して出ない。従って、目撃者などあろうはずもなかった。

 いずれにせよ、不審火である。

 そうなると、宮中では噂が噂を呼ぶ。そんなどろどろとした空気が内裏の外の大内裏南西隅の右馬寮まで押し寄せてきて、業平は息が詰まりそうだった。

 こんな時、業平はそれどころではなくなっていた山科行きの話を、自分から常行のほうに再度持ちかけた。宮廷を抜け出す口実にしたかったのである。


 例の事件のせいで予定していたのよりも十数日後れて、業平と常行が同乗する車は山科へと向かった。年齢よりも官位が優先で、車の前方右側の上座に常行が車の側面を背に座り、それに向かい合う形の左側に業平が座った。

 業平にとっては首を左にひねれば、車の進行方向だ。五位の右馬頭風情の業平が、随身ずいじんが従った先駆付きの車に上達部の参議の常行と同乗できるのも、業平が皇孫であるというほかに右大臣家の婿で常行の義弟だったからである。

 法親王の庵では、単なる世間話で時間が過ぎた。七年ぶりに会う法親王であったが、業平のこともよく覚えていた。そのうち先日の三条への大行幸の話になり、その折に紀伊国きのくにから庭石が献上されたことに話題が及んだ。

 だが常行によると、その石は都への到着が遅れたため行幸に間に合わず、帝に献上する機も失って、今では右大臣家の庭に無造作に転がされているということだ。

 そして、常行は言った。

「宮様はたしか、お庭にご関心がおありでしたな」

「いやいや、私はもう世を捨てた身ですから」

 法親王は笑みながらも、弱々しく目を細めていた。業平よりも若干若いが、それでもこの山が迫る草庵で花鳥風月を友として暮らしている。業平にとっては、それが羨ましくもあった。

「いかかですか。このお寺のお庭にその石を置かれては」

「はあ、頂けるものでしたら、折のついでにでも運ばせてください」

「いえ、今すぐにでも、持って来させましょう」

 そう言うが早いか常行は、庭に控えていた従者を走らせた。そして日が暮れる前には多くの人がその巨石を台車に乗せて運んできて、庭の指定された位置に据えた。苔に覆われた見事な石で、せせらぎが流れ、滝までしつらえてある風情ある庭には実によく調和した。

「石がそのままではなあ、いらないから持ってきたというような感じで失礼だなあ」

 その常行のひと言が、業平の出番を暗に促していた。

 

  飽かねども 岩にぞ代ふる 色見えぬ 

    心を見せむ よしのなければ


 業平の歌心は衰えてはいない。業平はその歌を苔を削って岩に刻みながら、東山の山影に抱かれて自然の気を吸い、久々に息苦しさから解放された気になった。

 ところがそれは、帰りの車に乗るまでだった。

「実は例の応天門の火付けの件でござるが」

 牛に引かれてゆっくり進む車の中で左右に向かい合って座り、常行がそう語りだした途端、業平の解放感は吹き飛び、どろどろとして息が詰まるような日常の生活の中に引き戻されてしまった。

「ま、いろいろ噂は流れているようですね」

 仕方がないので、業平も一応話を合わせると、真顔で身を乗り出してきた。

「禅師の皇子様には申し上げませなんだが、実は噂などというあやふやなものではなく、はっきりとした目撃者が現れましてな」

「目撃者?」

「伴大納言殿の子息が右衛門佐えもんのすけでござる。その日宿直とのいだったとのこと。その者がはっきりと見たというのでござるよ。何者かが数名で朱雀門の脇から乱入して火をつけたのだとね」

「しかし、どうしてそれがおおやけに?」

「そのことを、その父である伴大納言殿が、わが父に訴えて来られましてね」

 右大臣に火付けの目撃を訴え出たという伴大納言とは、かつての名族大伴氏の血を引く伴善男とものよしおのことである。五十過ぎの目のくぼんだ男で、お世辞にも美男とはいえなかった。

 大伴氏は今の帝の三代前で、帝の御曽祖父である淳和帝のいみなが大伴皇子であったため、「大」を削って「伴」氏になった。かつての大伴旅人や大伴家持の血を引く名家だ。

「しかし、なぜ舅殿に? 太政大臣は則闕そっけつの官としても、舅殿の上には左大臣殿がおられるではないですか」

「いえ、それが実は……」

 常行は声を落とした。

「伴大納言が申すには、その火付けを命じたというのが、実は源左大臣殿とか」

「まさか……」

 源左大臣まことは嵯峨天皇の皇子の賜姓源氏で、帝の御祖父の仁明帝の弟であるから、帝にとっては大叔父である。しかし帝の父方の親戚筋は、外戚ほどの力はない。

「で、その密告はいつ?」

「昨夜でござる。西三条の私邸の方に」

 西三条邸といえば、昨夜は業平もその邸内にいた。対の屋で、妻とともに過ごしていたのだ。今日の山科訪問に便利なようにということもあったからだ。今は対の屋には妻の直子だけでなく、三歳になる次男もいる。ところがその親子三人が語らっている頃に、寝殿ではそのようなことが起こっているとは全く知らなかった。

「それで父上はすぐに、源左大臣殿をお召し寄せになりましたがね、そこに伯父上より待ったがかかりまして」

 伯父とは、もちろん太政大臣良房である。

「なにゆえ?」

「なぜかというなら、まあ、父上も父上だ。私を走らせればいいのに、よりによってわざわざ左の宰相中将殿を左府殿の屋敷に遣わしましてね。やつがまっすぐに左府殿の所へ行くと思われますか?」

「はあ」

「染殿でござるよ。まず駆け込んだのは」

 常行は参議兼右近衛中将なので宰相中将と呼ばれていたが、当時宰相中将は二人いた。もう一人は右近衛中将である常行に対し、左近衛中将で参議を兼ねているので、常行と区別するために左の宰相中将と呼ばれていた。

 すなわち良房の養子の基経だ。左の宰相中将基経は右大臣良相の命を受けたあと源信邸には直行せず、養父の良房の染殿邸に転がり込んで、養父に事の次第を告げたのである。だから良房から左大臣追捕は待てとの使いが、西三条邸に来たということだった。

「それにしてもなぜ、舅殿は左の中将を?」

 業平が訝しく思うのも無理はない。わざわざ自分の政敵の息子に、大事な命令を下したのである。

「父上もぼけてこられたのかな。それとも、身内を遣わしたのでは後々まずいとでも思われたのか。いずれにしても人がよすぎる。身内ではないにしても、ほかに人選もありそうなものだ。伯父上の太政大臣殿は夜にもかかわらず参内し、帝に左府殿の無実を訴え申し上げたということでござるよ」

「何を根拠に」

「根拠なんかござるまい」

 車が大きく揺れた。鴨川の河川敷に降りたのである。幾筋もの流れにかかる板橋を、揺れながらも車は渡りだした。増水時には流れるにまかせる橋で、安定感はない。車で渡れば、揺れはなおさらだ。

「伯父君、太政大臣殿は、わが父が自分を差し置いて動くのが面白くないのでござる。ただ、それだけのことで、何しろ自分が帝の外戚であることを鼻にかけておられて、それでもって帝への女御の入内はわが妹の多美子に先を越されて自分はいまだしなるゆえ、ますますおもしろうないのでござろう。ま、嫌がらせでしょうな」

「では真に左府殿が火付けの犯人でも、ことを闇に葬って迷宮入りさせようと?」

「そんなところでござろう。伯父君は火付けの犯人が誰かなどということはどうでもよくて、わが父に功を立てられたら困るというただそれだけなのですよ」

 なんと理不尽なと、業平は舌を巻いた。たしかに太政大臣の耳に何もいれずに右大臣が行動したら、太政大臣としておもしろくないというのは一理ある。

 だが、そもそも太政大臣とは則闕の官、すなわち名誉職で実務はない。ただ良房は帝の外戚であるというだけで、帝の代行者よろしくふるまっている。

 まさしく実質上は今でも摂政といえるのだ。右大臣の僭越というだけのことなら、わざわざ夜に参内して左大臣の無実を証明するというのはどう考えても行きすぎだ。

 何かがおかしい。しかし、そのおかしいことが通用してしまうのが宮中だというのもまぎれもない事実で、宮中とはそのような所なのである。

「やってられないですよ」

 常行は吐き捨てるように言った。顔は苦りきっている。

「何かことが面倒になりそうになったので、何とか都にはいたくなかったのでござるが、都を離れる口実としてちょうどいい具合に今回の山科行きの話がありましたね」

 これには業平も、ある意味では同感だった。常行は、くちびるの端で少しだけ笑った。

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