第2話

 その国庁の門を、十分緊張して業平はくぐった。そんな業平を、武蔵守忠雄ただかつが直々に笑顔で出迎えた。

 かつての夢の中で野に火を放って自分をいぶりだそうとした国司であったが、夢は夢で、今業平の目の前にいる現実の武蔵守の態度はとても慇懃だった。業平にとって久々にかぶる烏帽子が窮屈だったが何とか我慢し、彼は漢風建築の国庁の石の床の部屋で勧められるままに椅子に座った。

 対座する椅子には武蔵守忠雄のほかに、先に都に帰した安倍貞行の一族である武蔵野介安倍比高なみたかもいた。そしてその脇で身をかがめて控えていたのは都風の匂いのする下男が二人で、馬を飛ばしてたったの八日で都から駆けつけたのだという。

「まずはこれを」

 その下男の一人がくつを履いたまま業平の椅子の前までかがんで進み、業平に書状を差し出した。差し出し人は右近衛中将兼内蔵頭くらのかみ藤原常行となっていた。一瞬私信かとも思ったが、もしそうなら直子からの文と同様、自分は国府に呼びつけられるはずはないと業平は思った。

 ところが開くと、内容は恐れ入るものであった。何と、帝の御勅諚ちょくじょうだったのである。

 こうなると使いは勅使ということになるから上座を譲って、忠雄も業平も控えねばならない。だが使いは身をかがめたまま動かない。おそらく彼らは、自分たちを常行の使いだとしか思っていないようだ。忠雄は中央の椅子から、黙って業平の様子を見ていた。


 ――従五位上在原朝臣業平、以任左兵衛佐者。

 貞観五年二月十日

 惟仁 可――


 これが詔書であった。しかし左兵衛佐さひょうえのすけごときの任官に、いちいち帝が詔書をお書きになるはずがない。これは右大臣良相の裏工作だなと、業平はすぐに直感した。

 詔書を頂き拝したあと、常行からの私信もあったのでそのままそれも見た。それには、このたび業平は左兵衛佐に任じられたので、即刻都へ帰るようにという内容が真名で書かれてあった。しかも、その筆跡は詔書と同じだった。

 詔書は最後の「可」の字だけが別人の手で、そこだけが帝の御宸筆であろう。太政大臣良房の目を盗んで、右大臣良相が何とか幼帝に自分の息子の書いた詔書へ署名をさせ申し上げたと思われる。

 業平の頭の中は、とにかく渦を巻いていた。常行の文面は、都に召還するから有無を言わずに戻れといった感じだった。この任官とて、右大臣と常行の画策であろう。

 さらに直子からの歌もあった。

 

  むさしあぶみ さすがにかけて たのむには

    とはぬもつらし とふもうるさし


 前に送った「きこゆればはづかし」と書いた文を踏まえての歌だ。自分を都へ呼び戻すよう右大臣や常行が画策したのは、あるいは直子のためであるのかもしれないと業平は感じた。

「しばらく考えるゆえ、そこもとたちはとりあえず先に都へ帰られよ」

 自分たちが勅使であることに気がついていない使いには、業平はとりあえずそう言っておいた。そしてすぐに、懐紙に歌を書いた。


  とへばいふ とはねば恨む むさしあぶみ

    かかる折にや 人は死ぬらん


 それを直子のもとに届けるようにと、使いに託した。

 この地で別の女とたった一夜にせよ契ったことが罪悪感となり、直子に責められているような気になったからだ。

「よろしうござったのう」

 使いが下がった後、もうすでに業平が都に帰ると決めつけて忠雄は言った。だが、業平の心はまだ揺れていた。

 とりあえず隅田川のほとりの草庵に戻り、忠親と継則に諮った。都は恋しいし戻れるのは嬉しい。しかし、都を捨てて出てきた以上、今さらおめおめ帰るのはばつがわるい。

 また、業平には意地もあった。左兵衛佐などという官職には、何の魅力も感じない。それでも心の半分は、すでに都の空へと飛んでいた。直子への想いもつのってくる。

「都へ戻れるのですか!?」

 供たちはもっと直情的だ。忠親など、涙を流していた。そのような彼らを前に、実は迷っているなどとはとても言えたものではない。

 しかし、よき日をぼくする陰陽師の貞行は、すでに都に帰してしまってもういない。吉日を卜することもできぬまま、都へ戻ることだけは決定したが、いつということは定まらずに業平たちは日を送っていた。


 そのことは船頭の耳にも入ったらしく、そこから情報が伝わって入間の中年女もやって来た。そして今度ばかりは逃げきれず、業平はつかまってしまった。

「娘は……真女も一緒にお連れ下さるんでしょうねえ」

 有無を言わさぬばかりの詰め寄りようだ。業平は内心は冗談じゃないと思っていたが、まさかそれをそのまま告げるわけにもいかない。

「娘ももう、そのつもりでおりますから」

 業平はほとほと困った。仕方なく、また歌を書き付けた。


  栗原の あねはの松の 人ならば 

    都の土産つとに いざと言はましを


「まあ、ぜひ娘に伝えますだ」

 女は喜んで帰っていった。このような歌をもらって喜ぶということは、歌の意味が全く分かっていない証拠だ。

 あなたがせめて人並みの姫ならば都にも連れて行くのに……こんなにも露骨に拒絶したのに、それさえ分からない田舎女なのだ。業平はほとほと興ざめで、あきれかえる思いだった。

 二、三日して船頭から聞いた話では、歌をもらった娘も恋の歌と思い込んで大喜びし、都ヘ行く仕度をして間もなくここへ来るという。

 一大事だ。業平と供たちは取るものもとりあえず、隅田河畔の草庵を捨てた。感傷にひたっている暇もない、あっけない旅立ちだった。


 まずは国府に赴き、武蔵守忠雄に暇乞いをした。そして国府を後にして、やっと業平の心は落ち着いた。一行は国府のすぐ南を流れる多摩川の下流に向かって進み、海に出てから西へと進路を取った。

 これで紫野の武蔵野ともお別れである。二度と来ることはないと思うし、むしろ業平の心は馬よりも速く都へと飛んでいた。

 これで息が詰まるような生活も終わる。都で生まれ都で育ったものは都を離れては生きていけないものだと、業平はしみじみと実感していた。

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