第4章 武蔵鐙(むさしあぶみ)
第1話
冬が訪れた。予想していたとおり林の木々の葉はすべて落ち、裸樹ばかりの林野となった。砂ぼこりを上げて風が吹きすさび、紅葉など期待すべくもなく、乾いた風が大地の上を駆け巡るだけの冬だった。
乾ききった晴れの日が多くなり、都のように底冷えはしない。
ただ、業平にとって寒気がするのは、入間の真女の母親である例の中年女が船頭の家に来ているらしいことだった。それをすぐに察知した業平は、供の三人をつれて隅田川を下って海岸まで釣りに行った。この頃は海を見てもつい西の方へ目がいってしまう。供たちの感情を逆なでしないようにあえて都を恋うる言葉は慎んでいた業平だったが、貞行などは自分から、
「あの雲は、都の方へ飛んでいくのですね」
などと言う。
その方角に夕陽が沈む頃、業平たちは隅田の草庵に戻った。
入間の真女の母親は帰ったという。だが、船頭は困惑しきった様子だった。業平への恨みつらみを、船頭は真女の母からさんざん聞かされたようだ。
「おらに文句言ったってよお……かなわねえなあ」
船頭は業平に、そう言って苦笑していた。
業平は、貞行を都に帰すことにした。
供は三人とも望郷の思いは同じだろうと思うが、中でも貞行は一番若い。この地で自分とともに暮らさせるのは不憫だと業平は思ったからだ。それに貞行が、一番露骨に都を恋しがっていた。
名目は、直子への文遣いである。真女などという女を抱いてしまってから、業平にとっての都恋しさの半分は妻恋しさとなり、最近ではその思いがますますつのってきた。
業平が貞行に持たせた直子への文は、歌ではなく散文だった。
――きこゆればはづかし、きこえねばくるし
文の表題は、仮名で「むさしあぶみ」と書いておいた。
都の貴人にとって想像を絶するであろうここでの暮らしを伝えるのは恥ずかしいし、伝えないでいるのも心苦しい――そんな武蔵での暮らしを「むさしあぶみ」のひと言に託したのだ。その文を持って貞行は、他の二人の供に申し訳なそうにしながらも、嬉々として旅立っていった。
そして寒い冬のさなかに初春が来た。だからといって、ここには面倒なしきたりはほとんどないようだ。ただ、聞けば郷の者はこぞって川向こうの観音堂に参詣に行くという。業平たちもそれに従うことにした。
船頭の舟で隅田川を渡る。空はこの日もよく晴れていた。都鳥が葦の繁みの中から、一斉に飛び立つのが見える。
――あれなん都鳥……はじめて船頭からそう聞かされた時のことが、ふと業平の頭の中に蘇えった。あれから半年しかたっていないのに、もう遠い昔のように思える。
対岸はものすごい人出だった。みな同じように観音堂に向かう。このような人ごみは、都でもめったにお目にかかれない。お堂のある垣の中は、それこそ身動きもできないほどだ。
寺ともいえないほどの藁葺きのお堂で僧侶もいないのに、これだけの人が押し寄せる。観音堂の向かって右にはこの観音像を見つけた漁師を祀る祠もあって、そちらも参詣の人びとでいっぱいだった。
業平たちも、群集と同じようにした。はじめてここを参拝した時と同様、今とて何も願うことはない。都に帰してくれなど、意地があってそのようには祈れない。ただ、すべてが良かれと願うだけだ。
その後も、無為に時は過ぎていった。都では梅が咲く頃である。業平がここに来た頃は何もかもが新鮮で、喜びに生き生きとしていた。まさかこのように都が恋しくなるとは思ってもいなかった。
そんなある日、いつも米を届けてくれる国府の役人が、業平に国府への出頭を要請してきた。都から使いが来たという。
土の香りはいち早く、春の訪れを告げてくれる。若菜の上に蝶が舞い、野一面に草が芽吹く。この草を紫草というのだと、業平ははじめて知った。
紫草とは紫色の花が咲くのではなく、根が紫色の染料のもととなるためその名があり、見た目は普通の緑の草なのである。だから、紫草とはてっきり紫色の花が咲くものと思い込んでいた業平は、武蔵野に来てもその代名詞たる紫草が見られないと不平をこぼしていたことになる。
国府はそんな紫草の広がる武蔵野を、西の丘陵の方へ向かっていく途中だ。業平は供は連れず、国府の役人と馬を並べて出かけた。
入間よりは遥かに近いがそれでもかなり距離があるので、業平は道すがら都からの使いについて馬上にていろいろと考えた。
しかし、どう考えても見当もつかない。自分が捨ててきた都からの使いである。直子からの文の使いか……そのような私事の用向きなら、使いは国府で業平の所在を聞いて直接訪ねてくるはずだ。わざわざ国府に業平を呼びつけたりするはずはない。
私事でないなら都への召還かもしれないが、それもへんだ。業平はここへ流罪になったわけではなく、自分の意志で来たのである。もしや例の事件が今さらに大事になって、処刑するために呼び戻すのか……。そうは考えたくはなかったが、とにかく全く分からないという状況で業平は国府に到着した。
都城を模したほんのわずかな町並みと、朱塗りの柱に緑の瓦屋根の国庁に都がしのばれ、業平は頭がくらっとする思いだった。はじめてこの地に来てこの国庁を見た時の業平は別段何も感じなかったが、今はそれが嘘のようであった。
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