第2話

 尾張を出てから後も、前と同じように泊まりを重ねた。

 その間も、業平の直子への悶々とした気持ちは消えなかった。業平の心の中でもうすっかり、高子のことはどこかへ行ってしまったようだ。

 そのうち、目の前にものすごいものが立ちはだかりはじめた。

「もしやあれが、音に聞く富士の峰では?」

 継則が前方に目を釘付けにしたまま言う。業平とて同じだった。はるかに天をつく峰が、ものすごい広さに裾を大地に広げている。

 山肌は青っぽく見えるから、まだかなり遠くにあるのだろう。それでもこの大きさである。そして夏だというのに頂上付近にはまだ雪がまだらに残っており、その上からは煙さえ上がっていた。

 その巨大な山に向かって、彼らは近づいていった。しかしその日のうちはおろか、何日泊まりを重ねてもその山はなかなか近くにはならなかった。


 そんなある日、富士をまだ遠くに見ながら峠にさしかかった。道は細くて蔦が生い茂り、薄暗くて鬱葱とした森の中へと続いている。馬が何度も草に足を取られ、なかなか進めない。この山は宇津の山というと、貞行の現地案内がついた。

 その時、業平はふと手綱を引いて、

「ちょっと待て」

 と、小声で供の三人に馬の歩みを止めさせた。それとほぼ同時に、前方の茂みが鳴った。誰もが息をひそめた。熊だと思ったのである。何しろ熊が出てもおかしくない密林の中だ。

 ところが、出てきたのは人で、それも僧侶であった。

 民百姓を別にすれば旅をする人などめったにいから、ここ数日間に久しぶりに出会った旅人だ。

 僧侶は寺の仏僧というより、修験道の行者というなりだった。ところがその僧は業平を見るなり、驚いた表情で歩み寄ってきた。山中で貴人に会ったというだけの驚きではない証拠に、僧は顔に親しみの笑みさえ浮かべていた。

「おお、おお、左近将監殿ではございませぬか」

 僧が身をかがめるので、業平だけ馬に乗っているわけにはいかなくなった。供の三人も、業平にならって馬から下りた。

「お顔を上げられよ」

 地に降り立って僧の顔を見ると、今度は業平の方が驚きの声を上げる番だった。

「御坊は……」

 数年前、業平が風邪を患った時、加持に来てくれた僧であった。

「将監殿、お懐かしゅうございます。なぜ、かような所に……?」

「わけあって東国下向でな。御坊こそ」

「拙僧は出羽へ赴いておりました。これから都へ戻るところでして」

「おお、都」

 業平の心の中に、熱い塊が生じて頭がくらっとさえした。そして、僧の顔を見た。涙が出るほど、この僧が羨ましい。ところが、ふと高い次元で考えると、これから都へ戻るというこの僧は格好の都へのつてである。

「しばし待たれよ。頼まれてはくれぬか」

 業平は懐から紙を出し、忠親が差し出す筆で歌を書いた。


  駿河なる 宇津の山べの うつつにも

    夢にも人に 逢はぬなりけり


「これを、右大臣家の二の君の御もとへ」

「畏まりてございます」

 それが業平の妻の直子であることを、この僧は知っている。僧はまた身をかがめて、その場をあとにした。

 歌を言付けたその僧の後ろ姿を、再び馬上の人になった業平はいつまでも見つめ、そして手を合わせた。それだけで、心が直子に通じそうだったのである。


 この宇津峠での出来事以来、業平は心の重荷を下ろした感じで、幾分晴れがましい気分になった。

 峠を降りて再び海沿いの道を進み、三日ほどするといよいよ富士が間近に迫ってきた。はじめて見る時以上に巨大な山は、視界の大部分を占めた。

 その神々しさに、思わず神を見たような気分になる。

 山頂から吐き出される煙も、さらにはっきり見えるようになった。その裾野をまわりこむ形で、一向は東に進む。時には海と富士の峰が、同時に視界の中に入ったりもした。

 煙を吐く山……夏なのに雪の残る山……そしてこの高さ……業平は生まれてこの方、比叡の山よりも高い山を見たことはなかった。それは供のものたちとて同じである。

「比叡の山を二十ばかり重ねたみたいですな」

 忠親の言葉は現実としては誇張だが、彼らの実感はまさしくその通りであった。

 

  時知らぬ 山は富士の 何時いつとてか

    鹿子斑まだらに 雪の降るらん


 そんな歌を詠みながら進み、その後何日泊まりを重ねても、富士はいつまでも彼らの後を追ってきた。


 やがて相模を経て、武蔵の国にさしかかった。ここでも尾張に続き、業平たちは国府での歓待を受けた。ここの国司は新任ながら太政大臣良房の従弟いとこである。

 太政大臣の従弟なら、業平の舅である右大臣良相の従弟でもある。ただし藤家の傍流になるので、受領という低い身分にいる。

 業平が歓待を受けたのは、右大臣家との縁によるものであった。その武蔵守の忠雄ただかつが、業平たちを直接接待してくれた。さらには忠雄と同時に着任した介は一ヶ月で左兵衛権佐さひょうえごんのすけとなって都に呼び戻され、代わりの介が夏のはじめに赴任してきたが、それが尾張守と同様に安倍貞行の同族だった。

「将監殿は、いづこまで行かれる」

 酒の席での武蔵守は聞いてきた。

「東の果てです」

「東の果て?」

 忠雄はうなった。酒を酌み交わしているのは、朱塗りの柱の国府の庁舎の石の床の上に一枚だけ敷かれた畳の上でであった。

「武蔵の東は下総で、さらにその東は海でござる。国は北へなら常陸、陸奥と続いておりますが」

「東は下総で終わりでござるか」

 そろそろ旅も終点かなと、業平はふと感じた。

「下総もその国府は国の境からすぐの所で、その東は海まで延々と未開の土地が続くだけでござる」

 住むのにあまりに未開では困る。あくまで業平は貴種であり、土人と化すために東国に来たのではない。

「北の常陸や陸奥はいかに?」

「国府の周り以外は、蝦夷えみしの土地と心得られた方が……」

 これはもっと困る。土民でも同胞ならまだよいが、異民族となってしまっては話にならない。

 事実は別として業平たちの意識の中では、蝦夷は未開の野蛮民族としか考えられていなかった。そのような人種差別に基づく偏見が、仕方なく彼らの一般的な認識だったのである。

「この国にとどまられよ」

 忠雄はそう言った。

「すぐにでもお屋敷を普請して進ぜよう」

「いえ、そのようなものは結構でござる。ただ、たとえ草葺くさぶきでも、夜露がしのげる草庵を下されたらそれで十分でござる」

「それはお安い御用だが、本当にそれでよろしうござるか」

「ええ」

「畏まってござる。ま、ここは都ではなかなか手に入らない新鮮な海のものがたくさんござるによって、どうぞご賞味あれ」

 忠雄はそう言って、大笑いをした。

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