10 バンシーの救済
「まさか……バンシーは、コニーを助けたのか?」
うわごとのようにこぼれたユウリスの言葉に、ロベルタ伯爵夫人は
「どういう意味です?」
「いや、気にしないでくれ。ただの、
「ユウリス殿、聞かせてください」
眉間の皺を深くする伯爵夫人に、ユウリスは順序立てて説明した。
「バンシーは死の予言者だ」
誰かの生に終わりが近づいたとき、それを家人に報せるために嘆く家憑き妖精――それがバンシーだ。
「逆を言えば、その人間の死にバンシーが関係しているわけではない」
「つまりバンシーは、コンスタンスが死ぬことを知って助けようとしたと?」
「ああ、だが死の運命を変えるのは簡単じゃない。それは嘆きの兆しであるバンシー自身が、いちばん理解していることだろう。だからコニーを生かすためには、別の死を用意する必要があった」
ロベルタ伯爵夫人は、息を呑んだ。
「ユウリス殿、なにをおっしゃりたいのです?」
「バンシーは――」
そこでユウリスは言葉を切った。これはほんとうに、なんの根拠もない推論だ。言葉にしたところで、誰が救われるわけでもない。躊躇うように唇を閉ざすが、ロベルタ伯爵夫人の強い眼差しが沈黙を許さなかった。
「お約束します、ユウリス殿。それがどのような真実であっても、わたくしが誰かを恨み、憎むことはありません。だからどうか、お話ください」
ユウリスは、細い息を吐きだした。そして「バンシーは」と繰り返し、呑み込みかけた言葉を紡ぐ。
「コニーの死を、ペーターの死で上書きしたのかもしれない」
死の予兆を司るバンシーだからこそ、なしえた所業だ。
「だが死の兆しを嘆く妖精が、その運命を自らの意思で
この運命を変えた代償こそが、執行者である≪デュラハン≫の大鎌だったのではないだろうか。自らの咎を受け入れたからこそ、バンシーは進んで首を
「バンシーの嘆きがなければ、ペーターの企みが明るみになることもなく、コニーは毒を盛られて死んでいただろう。加えてルッカ・マギニスの件が、少しだけ引っかかっていた。いくら伯爵の子を産んだとはいえ、彼女をウィットフォード家の人間として数えるには無理がある」
「つまりバンシーはコニーを助けるために、あえて必要のないルッカ・マギニスの死を嘆いたと言いたいのですか?」
「ああ。ルッカの死によって、貴女は一連の出来事に違和感をもった。そして俺たちが呼ばれ、ペーターの野望は未然に防がれた――結果として、コニーは生き長らえている」
「しかし、なぜバンシーは自分の命を賭けてまで、コンスタンスを救おうと?」
「バンシーは家憑き妖精だ。良くも悪くも、自分が認めた血筋のために尽くす。もしかしたらペーターが爵位を継ぐより、コニーのほうがマシだと思ったのかもしれない」
「本気でおっしゃっているのですか?」
「あるいはバンシーの伝承が関係しているのかもしれない。子供を失くした母親の想念が、嘆きの妖精を生みだしたという逸話がある」
「その話でしたら、聞いた覚えがありますが……バンシーが、コンスタンスに同情したと?」
釈然としない様子の伯爵夫人に、ユウリスは首を横に振った。
「あまり鵜呑みにしないでくれ。ただの思いつきだ」
これまでの話は、すべて推測の域をでない。
ロベルタ伯爵夫人は顔を窓のほうに向けると、悲しげに瞳を揺らした。
「もしユウリス殿のおっしゃる通り、それが当家のためになると考えてバンシーが行動したのだとしたら……」
家憑きに妖精にすら見放されたペーター。
そんな息子を手にかけた母親。
病床に臥し、先の長くない当代の伯爵。
血筋を存続させるために選ばれたコンスタンス。
ウィットフォード家に連なる多くの顔を思い浮かべて、ロベルタ伯爵夫人は憂鬱そうにため息を吐いた。口に運んだティーカップに湯気はなく、唇を濡らす紅茶は冷たい。
「この家に、バンシーの献身に見合う未来はあるのでしょうか?」
「さっきも言った通り、妖精の
「闇祓いの言葉を、気にするなというほうが無理ではありませんか?」
「その考えは改めたほうがいい。最近、怪しい呪い師が捕まったばかりだろう」
「黒髪だったという話は聞きません」
「それは幸運だ。竜に踏みつぶされなくて済む」
そろそろ辞する頃合いかと、ユウリスは立ち上がった。
今日の訪問は、お互いの疑問点を解消するための事後処理でしかない。
しかし同時にロベルタ伯爵夫人も膝を伸ばし、彼を引き留めた。
「実は折り入って、もう一つ頼みがあります」
「今回の件に関連して?」
「そうなるでしょう。ペーターには一人、義理の妹がいます。名前はライラ。今年、十五になりました」
「待て、義理の妹? どういうことだ?」
「夫の親友、ライネック
「聞かない家名だ」
「ダグザの貴族です。グィネヴァ
どこかで聞いた話だ、とユウリスは胸中で嘆息した。
七王国の中でも最も栄えている聖王国ダグザ――その統治者であるアクトルス王は以前から
「グィネヴァのことは、まあいい。まさかペーターは、義理の妹にも刺客を送ったのか?」
「いえ、それは心配いらないでしょう。引き取った事情が特殊なので、ライラには家督継承権がありません。彼女は自立心も強く、当家の養子になることも
「ヌアザの南西にある都市だな。それで、なにが問題なんだ?」
「あの子はシスターとしての昇級試験を受けるため、ノドンスに向かっている途中のはずでした。宿場町に着くたびに手紙を書くように言っておいたのですが、それがシーズ市からの便りを最後に
「シーズ市から手紙が届いたのは?」
「七日ほど前になります」
「ノドンスへの道順を考えると、次はヘグニ市か。多く見積もっても徒歩で丸一日。ワタリガラスがサボったとしても、便りが届くのに三日はかからないだろう。なるほど、なにかあった可能性があるな」
「ライラには不思議な力がありました。失せ物の場所を言い当てたり、天気を予知するようなこともできたのです」
「魔力持ちは別に珍しくもないが、なかなか強力な術者のようだ」
「それがよくないものを引き寄せていないか、心配なのです。ユウリス殿、ライラを探していただけないでしょうか。あの子を見つけて、無事にノドンスまで送り届けてほしいのです」
「なぜ俺に頼る? 伯爵家ともなれば、契約している傭兵団がいるはずだ。そいつらを使えばいい」
「もし手に負えない怪物に襲われていたら、改めて貴方を呼び出せと?」
最近、怪物絡みの事件が多い――そう口にしたのは、他ならぬユウリス自身だ。さらに言えば、次の仕事が決まっているわけでもない。
どうやらディアン・ケヒトに帰るのは、少しだけ遅くなりそうだ。
「わかった、引き受けよう。念のために聞くが、裏の事情はないだろうな?」
「ライネック男爵には、わたくしも恩があります。その忘れ形見を守りたいという気持ちに
「なら早速、シーズとヘグニの中間に向かう。あの辺りは、
「金額は聞かないのですか?」
「交渉は苦手だと言ったはずだ。こういう依頼の報酬は、相手の誠意に委ねるさ」
「それは……ユウリス殿、当家のお抱えになるつもりはありませんか?」
「≪ゲイザー≫は権力に属さない。もう行く」
そう言い残して、ユウリスは妖精が嘆く家を後にした。
日が暮れるまで、まだ鐘二つ分は
「ノドンスを経由するよりは、ルアド・ロエサ方面の街道を進んだほうが近いか。こんなことなら、途中までウルカに同行してもよかったな」
逆巻き峠は西のヌアザ領だが、地理的には南のダグザ方面を経由したほうが早い。そう判断したユウリスは、バレスから南に向かって歩きだし――すぐに、人気の多い街道を逸れた。
風にそよぐ雑草の野を踏み、フードを外す。
「……いい風だ」
すると、どこからともなく霧が立ち込めはじめた。大きくうねり、波のように迫る大量の白い
やがて白煙を切って歩く彼の
「クラウ」
ユウリスは短く、その名を呼んだ。
北から吹く息吹によって霧が晴れると、白い毛並みの狼が姿を見せる。その体躯は人間の大人と
長く連れ添っている相棒だが、クラウは魔獣であるが故に市街地へ連れていくことはできない。外で合流するのは、いつものことだ。
「次は南だ。逆巻き峠に行く」
…………。
無音の狩人が、小さく首肯した。
自然と足並みを揃えて、ふたりが行く。
「どこへでも行くさ。
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