09 ナダの決意

闇祓やみばらいの作法に従い――」


 暗がりを裂いて、破邪の光をまとった鉄のくさりが伸びる。蒼白の軌跡が宙でしなり、ナダを拘束しているハサンの首を鞭のように打った。骨の折れる歪な音が漏れて、絶命する暗殺者。


 残る二人の刺客は臨戦態勢を取るが、鉄鎖てっさの勢いは止まらない。


 一人は脳天をかち割られ、もう一人は白狼の爪に喉笛を切り裂かれた。三人の手勢が瞬く間に倒され、ダニーが後じさる。ナダを背に庇いながら、ユウリスは通路の奥へ呼びかけた。


「誰? ≪ゲイザー≫なの?」


「以前は名乗らなかったから、答えてもわかるまいよ。俺はテムジンという者だ。すでに世捨て人となった身だが、地下の諸君にはよくしてもらった。借りは返そう。まずは、その糸目君をどうにかすればいいのかねえ?」


 片脚を引きずり、杖をついた壮年の男が近寄ってくる。鳥打帽とりうちぼうから伸びる、白髪の交じった紫の長髪。伸ばし放題の無精髭ぶしょうひげ襤褸ぼろ外套がいとうを纏った長身は、確かに破邪の蒼炎を帯びていた。彼――テムジンを、ユウリスは知っている。


「貴方は、占い師の……テムジン、さん?」


「テムジンで構わんよ。チェルフェの一件以来だね、見習い君。さてダニー・マクフィー、ナダちゃんを怖がらせた罪は重いよ」


 テムジンが破邪の光を宿した鎖をジャラジャラと音を立ててまわし、白狼も低い姿勢で身構える。ユウリスはナダの様子を気遣うが、彼女に怪我はないようだ。すっかり形勢が逆転したダニーだが、しかし余裕の表情は崩さない。彼はズボンのポケットから、赤黒い液体が揺れる小瓶を取り出した。


「下水道の占い師、貴方のことは調べましたよ。エーディンによって故郷を奪われた放牧民の生き残り。ただの棄民きみんと捨て置いていましたが、まさか闇祓いだったとは……世捨て人とは、よく言ったものです」


「そりゃどうも。ほんじゃまあ、ディアン・ケヒトの≪ゲイザー≫テムジンが、悪人に引導を渡してやるよ」


 テムジンは腕を引き、破邪の光を宿した鎖を虚空に薙いだ。その動きは、まるで野生の蛇であるかのように生々しい。蒼白の軌跡が迫るのを見据えながら、ダニーが小瓶の中身を一息に呷る。鉄の螺旋が身体に巻きつく寸前――彼は鋭い犬歯を剥いて、邪悪に唇を歪めた。


「私の父親は、大洪水の数年後に亡くなりました」


 ダニーが片腕を振るい、拳で破邪の鉄鎖を弾き飛ばした。尋常じんじょうならざる筋力にぎょっとしたテムジンが、武器を手元に引き戻す。


 ユウリスはナダを後方に下がらせると、闇祓いの力を発現した。


「ダニー、いま飲んだのはなに?」


「大洪水の爪痕つめあとは、オリバーの奇蹟以降も数年に渡りえなかったのです。私の父は、異教徒狩りなんて大層なものじゃありません。たった数個のパンを家族に持ち帰ろうとしたばかりに、見知らぬ暴漢に撲殺ぼくさつされたのです。母は体を売って私を育ててくれましたが、そのうちにどこかへ消えてしまいました」


 もはやユウリスの問いかけは届いていない。


 過去を吐き出し続ける彼の声はくぐもって、低く、苦しげだ。白狼は壁際に展開し、テムジンも腰を落として鉄鎖を頭上で回しはじめる。ダニーは自らを抱くように両肩を抱きしめ、歯の隙間から大量のよだれを垂らした。足元に水溜りができるほどのつばを、彼は自らの靴底で踏みつける。


「私にとって、人間はそういうものでした。奪う者、奪われる者、裏切る者、消える者、信じる価値のない者、み、みんなみんな、む、む、虫唾がはしる……い、いい、いえ、下水道の皆さんだけは、好きでした。孤児となった私を招き、育ててくださったのですから。で、でも、でも、でも、でも、こ、この街は嫌いなんですよ。ブリギ、ぶり、ぶりぎっトはキラい、ナンですヨ』


 ユウリスは迷わず、白狼と共に左右から挟撃した。正面のテムジンも長い鉄鎖をむちのように躍らせ、機宜きせんを合わせて仕掛ける。ダニーが雄叫びを上げた。その咆哮はすでに人の声帯になく、獣の領域に踏み込んでいる。


『だカラ、呪イを……ぶりぎっとに、呪いイイイイイイイイイイイイイ!』


 そして彼は変質した。


 姿が、膨張する。筋肉が皮膚の内側で増殖し、筋骨隆々として生まれ変わる肉体。着衣は千切れ飛び、全身に覆うのは灰色の体毛。尖る耳、突き出る口元、並ぶ牙――人の姿を捨てた異形が尖った爪を振るい、闇祓いの剣と鎖、白狼の攻撃をはね返した。


 壁際に弾かれたユウリスが、かすれた声でダニーの新たな名を呼ぶ。


「≪ライカンスロープ≫。人狼病の研究は、完成していたのか……!」


 しかしダニーに、もはやユウリスの声は届いていない。理性は失われ、生温かい吐息に混じるのは血を求める野獣の衝動だ。人間の大人より一回り大きな異形が、全身のばねを総動員して跳ねた。


 ≪ライカンスロープ≫と化した彼が、狂気を注いだ先に佇むのはテムジン。


 しかし見初められた熟練の闇祓いは、臆することなく片手を掲げた。その腕に、いにしえより受け継がれる紋章の羅列が浮かび、青い光を帯びる。


はばめ」


 突進した≪ライカンスロープ≫は、不可視の壁に衝突して悶絶した。その片脚に宙を泳ぐ鉄鎖が絡みつき、余裕の笑みを浮かべたテムジンが挑発する。


「悪いね。俺には誰もさわれんのよ」


 ぎょっとした≪ライカンスロープ≫は距離を取ろうとするが、鉄鎖の拘束が脚を引っ張る。闇祓いの加護を得た筋力は巨漢の怪物を容易に引きずりまわし、壁に叩きつけた。


「見習い君!」


「クラウ!」


 ――――!


 間髪入れず、ユウリスと白狼が肉薄。異形の両肩に短剣と牙を突きたてる。さらに不自由な脚でゆっくりと近づいたテムジンが、敵の腹部に片手を添えた。


「阻め」


『アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ、アッ、アアッ!?』


 至近距離で発生した見えざる抵抗力が、≪ライカンスロープ≫の身体を壁にのめりこませた。重く鈍い音が響き渡り、煉瓦が大きく陥没し、破片が飛び散る。テムジンは空いた隙間すきまの分だけ踏み込み、さらに淡々と唱え続けた。


「阻め、阻め、阻め、阻め、阻め、阻め、阻め、阻め、阻め、阻め、阻め、阻め、阻め、阻め、阻め、阻め、阻め、阻め、阻め、阻め、阻め、阻め、阻め、阻め、阻め、阻め、阻め、阻め、阻め、阻め、阻め、阻め、阻め」


 覇気もない声が、容赦なく≪ライカンスロープ≫を追い詰める。本来は防御に使われる力だが、その特性を活かした応用は効果抜群だ。怪物の身体が、ただ壁に沈み続ける。


「阻め、阻め、阻め、阻め、阻め、阻め、阻め、阻め、阻め、阻め、阻め」


『ギャアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!?』


 煉瓦の崩壊と怪物の絶叫が重なる分だけ、闇祓いの秘儀は存在感を示し続けた。ユウリスは油断なく剣を構え、白狼と共に新たなハサンの出現を警戒する。そこに、上擦ったテムジンの警句が届いた。


「こいつしぶといね。見習い君、そろそろ壁が向こう側に貫通しそうだ。トドメは任せるよ。よいせ、阻め、阻め、阻め、阻めっと!」


 ひときわ大きな倒壊の調べを奏で、下水道の壁が反対側の通路に貫通する。尋常ではない厚さの煉瓦と固い土に背を叩きつけられながら、それでも≪ライカンスロープ≫は耐え切った。しかし反撃に移ろうと体勢を立て直す異形の前に、空洞を抜けて迫る蒼と白の閃光。


 ユウリスが短剣を構え、クラウは牙を剥く。


「クラウ、援護を!」


 ――――!


 ≪ライカンスロープ≫は咄嗟に大口を開け、相手の神経をかく乱する咆哮を放った。同時に白狼も邪な力を封じる遠吠えを放ち、二つの波動が激突して打ち消しあう。ユウリスの宿す群青の瞳が、怪物の心臓部を捉えた。魔力の源である核の位置は、下腹部。


 少年と人狼の眼差しが、一瞬だけ重なり合う。


『ゆうウウウウりす・れい、んんんんんんんンンンンンンンンンンンンンン!』

「さようなら、ダニー」


 ユウリスが跳ぶ。両膝を折り曲げ、≪ライカンスロープ≫の太腿に着地すると、勢いのままに下腹部へ短剣を振り下ろした。破邪の輝きに満ちた刃が灰色の体毛を貫き、核を粉砕する。いまわの際、人狼の爪が少年の首を狙う――が、その狂気を宿した腕は、テムジンの鎖によって弾かれた。


「ディアン・ケヒトは万年、人手不足なんでね。そう易々と見習い君はやらせんよ」


 今度こそ断末魔の悲鳴も上げず、≪ライカンスロープ≫は仰向けに倒れた。何度も身体を痙攣させ、金色の瞳でユウリスを見据える。その眼差しに憎しみや悲しみの感情はなく、ただ虚しさだけをたたえて、やがて光を失った。


「なにかを壊された悲しみのわかる人が、どうして街をこんな風にできるんだ」


 ユウリスはやるせない気持ちを大きな溜息に変えて吐き出すと、灰色の体毛から短剣を引き抜いた。刃を濡らす血の色は赤黒く、人と怪物の境界を曖昧にする。白狼が心配そうに鼻先を手にこすりつけてくるが、以前のように心を苛む痛みはなかった。


「大丈夫だよ、クラウ。ありがとう。テムジンも、助かりました。ナダは無事?」


 刃の血痕を布でぬぐいながら、ユウリスは穴の向こう側へ引き返した。その出口で、横から飛び出してきたナダに抱きしめられる。彼女の肩は震えて、体温は熱い。赤く晴れた瞼に残るのは涙の痕で、それでも新たな悲しみは絶え間なく目を滲ませる。


「ユウリス君、サヤが……サヤが……みんなが……どうして、こんな……」


 ユウリスはなにも応えられず、ただナダの背をあやすように撫で続けた。ボイドの言葉は、ある意味で正しい。黒幕はキーリィ・ガブリフだとしても、根幹となる怨嗟を生んだのはレイン家なのかもしれない。そう思い悩んでしまうほどの深い傷と後悔が、胸の内で渦巻く。


 注意を引くように、テムジンがジャラっと鎖を鳴らした。


「慰め合うのはダメとは言わんがね。見習い君には時間がないんじゃあないかい? 俺は上の事情なんて知らんが、糸目君の話を盗み聞いた限り、騒ぎの黒幕はキーリィ・ガブリフってことだろう。奴がオリバー大森林で待っているとなれば、お前さんは行かなきゃならんのでは?」


「でも、まずはボイドたちを追わないと。爆発の場所と規模次第じゃ、大勢の人に被害が出てしまう」


 地上に戻って協力を仰いだとしても、警察や領邦軍が迷路のような旧下水道の地理に明るいとは思えない。ならば白狼の鼻に頼りながら自分が行くしかないと、ユウリスが厳しい表情で返す。そこでナダが顔を上げ、いいえ、と首を左右に振った。


 彼女は嗚咽を噛み殺して目元を拭い、大きく息を吸い込んだ。


「ユウリス君、それは任せて。黒焔石が仕掛けられた場所は、全部で五箇所。場所は全部、把握しているわ。ボイドたちの説得は、私がする」


 ナダは鼻息荒々しく、自らの頬を両手で打ち据えた。ぱちん、と景気の良い音が空洞に木霊し、彼女の決意に満ちた宣言が続く。


「私が、絶対にボイドたちを止める。サヤちゃんが、あんなお父さんを残したまま安らかに眠れるはずないもの。いまここでなにもしなかったら、きっと一生後悔する。お願い、ユウリス君。あの人たちのことは、私に任せて。声は届く、届けてみせる。あのとき、君が私たちを変えてくれたように。その気持ちは、きっとみんなも完全に失くしたわけじゃないと思うから」


 サヤ、と口にした一瞬だけ、ナダの声は震えた。それでも毅然とした態度の彼女に、ユウリスは反射的に頷きかけるが、寸でのところで思い留まる。ボイドたちの激情は、常軌じょうきいっしていた。彼らの復讐心が暴走すれば、同胞といえどもナダに危害を加える可能性がある。多くは地上に出たとはいえ、怪物の存在も懸念の一つだ。


 そんな少年の心配を見抜いたかのように、テムジンが顎髭あごひげをさすって片目を瞑った。


「なあに、そういうことなら俺がナダちゃんの護衛を引き受けよう。闇祓いの作法を使えば、片脚でも移動に不便はない。さっきも言った通り、上の事情には興味がないんでね。だが地下の連中には、これまで衣食住の世話になった恩がある。それを返す絶好の機会だ、こっちは俺に任せなよ」


 なっ、とテムジンは白狼に笑いかけるが、あっさりとそっぽを向かれてがっくりと肩を落とす。ユウリスとナダは顔を見合わせて頷きあい、表情を綻ばせた。


「俺とクラウは地上に戻って、オリバー大森林に向かいます。テムジン、ナダを頼みます」


「任せな。地上に戻るなら近道がある、途中まではいっしょに行こう。先頭は俺と見習い君。白狼ちゃん――いや、いまはクラウちゃんだったか。クラウちゃんは、ナダちゃんの護衛ってことでよろしく」


 そうと決まれば、あとは進むのみだ。闇祓いの二人が先行し、一行は下水道の暗い通路を駆けた。新たな襲撃者を警戒しながら走るユウリスの肩を、併走するテムジンが軽い調子で叩く。


「見習い君、ちょっといいかい。さっき俺が倒した三人組は、まあ間違いなくハサンの一味だと思う。噂によると、収穫祭でも暗殺騒ぎがあったらしいじゃないの。ぜんぶ、彼らの仕業しわざなのかい?」


「え、ああ、たぶん、そうだと思います。俺もぜんぶ確認したわけじゃないけれど、此処に着く前にも十人近いハサンの一味と遭遇しました。なにか気になるんですか?」


「まあね。ハサンの一味ってさ、ゴヴニュ砂漠にある蜃気楼の砦って集落を拠点にした暗殺者集団なのよ。んで、実はそんなにめちゃくちゃ数が多いわけじゃない。雇うのも高額だ。かといって数の水増しはありえない。彼らは自分たちの名前をかたられることを嫌うからね、例え雇い主の提案でも偽者を混じらせるなんて真似はしないだろう」


「つまり、どういうことです?」


「だが実際に君が遭遇しただけでも十人以上、収穫祭の頃から考えれば数十名のハサンが投入されている可能性が高い。これを雇用するのに必要な費用ね、不老不死の≪ゲイザー≫が気の遠くなるような時間を働いて、ようやく稼げるような金額なのよ。キーリィ・ガブリフも王様じゃあるまいし、いくらなんでもそんな大金を用意はできないと思うわけだ」


 ユウリスの放つ斬撃の波動が、正面に現れた≪オーク≫の首を鮮やかに斬り落とした。ヒュゥ、と口笛を鳴らすテムジンも、天井から滲み出た≪スペクター≫を鎖の一薙ぎで打ち払う。わあ、と感嘆するナダの拍手は、沈みがちな空気を少しだけ軽くしてくれた。


「ユウリス君も、占い師さんもすごい。≪オーク≫って、豚さんに似てるのね」


 ナダの明るい声は、空元気だとわかる。それでもユウリスは救われた。サヤの死がもたらす痛みから目を背けて、冷静に他の怪物の気配を探る。テムジンは構わず、ハサンの一味に対する違和感について言及を続けた。


「俺も≪ゲイザー≫が長いもんで、ハサンの一味とは何度かやりあったことがあってね。敵とはいえ、あの徹底てっていした気高さには一目置いてたってわけ。それがどうして、こんな大規模な破壊行為に手を貸すのかって腑に落ちんのよ。奴らの性分は暗殺。いくら金を積まれたって、傭兵ようへいまがいの仕事を引き受けるなんて信じられないんだよね」


「キーリィには使途不明金の疑惑がありました。でも、お金じゃないとしたら……その誇りすらも、捨てなければいけないようなことがあったとか」


 ユウリスはふと、父と最期に交わした短い会話を思い出した。暗殺は防ぎ難いが、故にこそ抑止力として滅多に扱われない。ハサンの一味をけしかけた者は、次は自分が狙われる番になる――そこまでのやりとりを脳裏に浮かべて、ハッと目を見開いた。


「もしかしたら、仕事がなかったんじゃないでしょうか」


「は?」


「いえ、なんとなく、そう思ったんです。いまは表立った戦争も起きなくて、暗殺なんて吟遊詩人の歌でしか聞きません。傭兵の仕事はしない、暗殺という仕事に矜持がある、そんな人たちが、この平和な世界でどうやって食べていくんだろうって」


 あるいは聖王国ダグザと新聖帝国エーディンの衝突が現実のものとなっていれば、話は違ったかもしれない。戦争を回避するための生贄に選ばれたグィネヴァ王女は、老齢の王と婚姻を結ぶことに嫌気が差して逃げだした。その手助けをしたのも、ハサンの一味だ。


 テムジンは、なるほど、と頷いた。


「ハサンの一味は戦争を起こしたいわけね。考えかたとしては、死の商人と同じってことか。いや、けっこう当たりかもよ、その推理。ブリギットは大陸の要だからね。首都が落ちれば、ダグザやエーディンばかりでなく、隣国のオグマ、下手したらヌアザすら欲しがるかもしれない。土地を奪い合いは、戦争のはじまりだ。暗殺合戦が本格化すれば、ハサンの一味は以前の栄華を取り戻す。はあ、こりゃ世知辛い。落ちるとこまで落ちたね、初代ハサンが泣くよ」


「俺からも聞いていいですか?」


「構わんよ。ちなみに怪物が結託している理由なら、ある程度は予想がついている」


 まさに尋ねようとしたことを言い当てられて、ユウリスは驚いた。テムジンが髭を撫でて得意げに鼻を鳴らす。


 二人の背後では、クラウが無音の遠吠えで湧きあがる≪スペクター≫を掻き消していた。ナダは、白狼ちゃんはすごいのね、と賞賛しながら、自分も真似をしようとするが、そもそも無音なので難しい。そんな微笑ましいやり取りを肩越しに一瞥して、年長の闇祓いは後輩の疑問に答えた。


「ヤバい大量死があった場合、邪念の吹き溜まりみたいなものが発生する。ただ普通の土地なら、それも自然に発散できるものなのさ。≪スペクター≫や≪ブロッケン≫、≪スピリット≫が大量に発生して、まあ他にもいろんな悪いものを呼び寄せた挙句、天変地異なんかも起こって、いつか俺たちに退治されたり、時間が経って有耶無耶になったりするんだが、此処は違う。ブリギットは、未だに怨念の吹き溜まりだ」


「どうしてブリギットには、他の土地と同じ自浄作用が働かないんですか?」


「三十四年前の大洪水以降、イルミンズールに妙な癖がついたせいじゃないかと踏んでいる。生まれる邪悪な感情を、オリバー大森林が次々と吸収しては封じ込めはじめたのさ。おかげでブリギットは天災もなければ怪物も湧き難いなんていう、大陸屈指の霊場になったわけだ」


 オリバーだ、とユウリスは胸中で呟いた。


 創生の大樹イルミンズールと同化した聖者オリバーの意思が、ブリギットを守るために悪意を呑み込んでいるに違いない。しかし心優しい少年の意思は、一年前の事件で挫かれることになる。《ジェイド》と呼ばれる悪魔の騎士が召喚され、清廉な霊場の加護は破られた。


 それを肯定するように、テムジンの言葉が朗々と続く。


「イルミンズールが少しずつ浄化していた人の怨念が、今回の騒動に悪用されている。憎しみや殺意、恨みなんてのは怪物の大好物だからね。その辺に漂わせておくだけで、奴らは勝手に喰らいつく。で、口にしたが最期、その美味を求めて異形の者共は人間を襲いはじめるってわけさ」


「それに今夜は、紅い満月の夜……」


「ご名答。人間の滅亡を望む、二柱の片割れたる魔神バロール。その意思が作用しているのも間違いだろう。残念ながら、これを止める術はない。地上に出た怪物は、なんとか皆殺しにするしかないね」


 やがて行く先が二つに割れた。テムジンとナダは右へ、ユウリスとクラウは左に曲がる。それぞれが短い別れを告げ、遠ざかる互いの足音。少年と白狼は、通路の先に水の流れる音を聞いた。正面に、古びた木の扉がある。


 ――――!


 一足飛びで距離を詰めた白狼が、後ろ蹴りで木材の板を粉砕した。外の冷たい空気が吹き込んで、雪色の毛並みがそよぐ。


 旧下水道を脱出した先は、どこかの水路だった。その流れに嫌な臭みはなく、生活排水とは違うようだが、どのような用途かは判然としない。


 夜光石の外灯に照らされた街は炎と煙に包まれ、ほとんどの家屋が崩れていた。石畳を埋め尽くす泥の海は、≪ゴーレム≫の残骸かもしれない。他に怪物の姿や人の気配もなく、ユウリスは坂道を登り、再び市街地へ舞い戻った。


「ここ、どの辺りだろう……人の声が聞こえないから、さっきの病院とはだいぶ離れていると思うけど。大聖堂が左に見えるってことは、まだ東地区か?」


「ユウリス様」


 不意に、名を呼ばれた。


 振り向いたユウリスの背後に、一人の女性が佇んでいる。銀色の髪、青白い肌、エプロンを纏った、妙齢の使用人――彼女は両手を前で重ね、恭しくお辞儀をした。そしてもう一度、呼びかけてくる。


「ユウリス様」


「ジェシカ・バーグ……!」

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