02 煤と灰を抜けて
「よし、俺たちも行こう。家に帰るんだ!」
先ほどまで大勢の人がひしめきあって往来は、いつの間にか静けさに包まれていた。火の燻りと、瓦礫の崩れる音に蹄と車輪の調べが混じる。
走り出した馬車の御者台で、ウルカが不思議そうに首を傾げた。
「ブリギットの人口を考えれば、まだまだ逃げ遅れた人間は多いだろう。他は怪物に喰われたか?」
「たぶん大半は警察署か
「道場……あの変態どもか。だが小娘の家はなんの役に立つ?」
「ブレイク商会のベアトリス奥様はやり手だよ。助けを求めればなんとかしてもらえる。あと師範代に負けたからって、みんなを変態呼ばわりするのはやめて」
ユウリスの脳裏を、カーミラの顔が掠める。しかしドロシーとエドガーを擁している状況で、どこにいるかもわからない恋人の安否確認に時間は割けない。断腸の思いで手綱をしならせた矢先、大通りに面した商店が裏側から崩れた。
「ウルカ、前!」
豪腕を振るう
頭上からは、翼を広げた≪アフール≫の群れが飛来する。
ウルカが舌打ちしながら剣を構えた。
「クソ、≪ゴーレム≫の相手をしている暇はない。突っ切れ、ユウリス!」
「駄目だ、ウルカ!」
さらに正面から、三体目の≪ゴーレム≫。
しかしウルカは、素早く攻撃をしかけてきた≪アフール≫を撃退するのに気を割かれ、土塊の異形を相手取る余裕はない。ユウリスも
「エドガー、手綱をお願い!」
「え、ええ、えええ、僕!?」
「エドガーしかいないだろう!」
「ねえ、あれ!」
その表情は晴れやかに澄み渡り、目を輝かせて救世主の名を呼ぶ。
「あたしの初恋、クラウちゃんかも!」
え、とユウリスとエドガーが声を重ねた瞬間、夜の闇を銀色の閃光が裂いた。
艶やかな白い毛並みが宙を舞い、鋭い爪が奔る。
鮮烈な一撃が削り取るのは、≪ゴーレム≫の額に描かれた『E』の文字。それは魔力を動力源とする怪物の供給回路であり、紋章を失った土塊の異形は泥に還るしかない。
ドロシーが両手を掲げて喉を震わせた。
「やっちゃえー!」
銀の閃光は止まらない。
一体目の≪ゴーレム≫から生まれた泥の海を気配もなく蹴り、次の異形に飛び掛る――白い狼が、怪物の群れを
「クラウ!」
その名をユウリスが呼ぶ前に、≪ゴーレム≫は一体も残らずに消えた。
泥の海を越えて、馬車は進む。
ドロシーとエドガーが歓声を上げ、≪アフール≫の駆除を終えたウルカも
「もはや≪ゴーレム≫程度では、あいつの相手にもならないな。そろそろ岐路だ、私は此処で降りる。エドガー、いまのうちに手綱を替わっておけ。ユウリスを自由にさせておかなければ、いざというときに惨事を招くぞ」
「わ、わかりました!」
エドガーが慌てて手綱を握ると、ユウリスは入れ替わりに荷台へ下りた。すでに天幕は破れており、空から降る紅と蒼の月光を阻むものはない。
馬車に追随して疾駆する白狼は、油断なく周囲の悪意に神経を尖らせている。
ウルカは
「
「ありがとう、ウルカも気をつけて」
闇祓いの師弟が、額を合わせて瞼を閉じる。
別れは短く、ウルカは走行中の馬車から飛び降りた。その姿は振り返ることなく、瓦礫を踏み越えて瞬くに遠ざかる。
ユウリスは霊薬の小瓶を腰のベルトに差し込むと、併走する白狼に呼びかけた。
「クラウ、助かった。ほんとにありがとう。早速だけど、屋敷に戻りたい。怪物の少ない道、わかる?」
白狼は軽く首肯すると、速度を上げて前に躍り出た。銀の閃光と呼ぶに相応しい驚異的な加速で馬車を先導し、行く道を示す。
変わり果てた街を見回すドロシーの表情は、一時の興奮も冷めて再び不安と絶望に彩られていた。未だ避難を続ける人々の声や、怪物の咆哮は絶えない。どこからともなく建物の崩れる音が響き渡るたびに、エドガーも身を震わせる。
「ユウリス、ブリギットはなくなったりしないよね?」
「大丈夫だよ、エドガー。ほら、あれ」
ユウリスが示したのは、セント・アメリア広場の方角だ。多くの家屋が倒壊しているため、普段は見えない位置からでも街の中心地が見通せる。
伝説の聖女アメリアを頂く噴水の前で、警官隊と≪オーク≫の群れが熾烈な戦いを繰り広げていた。見間違いでなければ、陣頭指揮を執っているのは煤に汚れたキャロット市長だ。人々が市庁舎に避難する時間を稼ぎながら、異形の軍勢と対峙する人間の戦士たち。その姿に、ドロシーが鼻水をすすって声を震わせた。
「ヤバい、あたしの初恋がキャロット市長になりそう……」
ユウリスとエドガーが、堪えきれずに吹きだす。一度は不満そうに唇を尖らせたドロシーも、最後は同じように肩を揺らした。冥府のような惨状も、家族の絆がもたらす光までは消すことができない。
「ドロシー、エドガー、もう少しがんばって。家に帰れば、父上や義母上がいる。丘の麓には領邦軍の基地もあるし、きっと安全だ」
そして馬車は、中央区の旧家大通りに入った。この道を真っ直ぐに抜ければ、レイン公爵の建つタラの丘へ辿り着ける。しかし行く手には、新たな怪物の群れが待ち構えていた。
双子が同時に悲鳴を上げる。
「うわ、なにあれ、あたし無理、蜘蛛女じゃん!」
「ああ、あれ、僕も、ちょっと本気で無理。ユウリス、引き返していい!?」
「≪アラクネ≫か。いや、こっちに気づいていない。エドガー、そのまま突っ込んで!」
ユウリスは御者台の縁に片足をかけ、短剣を構えた。
「ドロシー、頭を下げて隅に身を寄せて。エドガー、なにがあっても馬車を止めちゃ駄目だ。クラウ、頼む!」
相棒の呼びかけに応え、クラウガ一足飛びで距離を詰める。≪アラクネ≫の背後から強襲する、稲妻のような爪の一閃。最後尾の≪アラクネ≫は断末魔の暇も与えられず、頭部を潰された。ようやく
さらに領邦軍の雄叫び。
ユウリスが刃に破邪の輝きを込める。
「闇祓いの作法に従い――!」
大通りの左右に建ち並ぶ建物は、≪ゴーレム≫の被害を受けていない。≪アラクネ≫が先の尖った三対の脚を巧みに操り、家屋を壁伝いに駆ける。女の顔に見開かれた六つの赤い複眼が、突然の乱入者である少年少女を捉えた。
しかし場を縦横無尽に動くのは怪物ばかりではない。
馬車の真上から跳びかかろうとした半人半蜘蛛の異形が、唐突に倒れた。背後から貫いたのは、やはりクラウの爪だ。哀れな怪物は、最期の瞬間まで心臓を抉られたことに気づかず絶命した。戦場を、白い毛並みの
――、…………、――ッ!
音も気配もなく疾駆するクラウが、一騎当千の活躍で敵の命を刈り取る。
遥か遠方の雪原で恐れられる狩人は、敵に一縷の希望すらも与えはしない。
爪で心臓を貫き、あるいは牙で頭部を噛み砕く。
殺意を察知する間もなく死を刻まれ、≪アラクネ≫は対峙すら許されず
あまりにも圧倒的な力の差に領邦軍の兵士はおろか、ユウリスですら言葉を失う。
表情を歪めたドロシーが、ぼそりと呟いた。
「ユウリスって、いる意味ある?」
返す言葉もない。
たまには討ち漏らしが発生するかと最期まで身構えてはいたが、けっきょくユウリスは一度も力を使うことなく蒼白の光を消し去った。
およそ百近い数だった≪アラクネ≫が、仲間の半数を失って撤退に転じる。
領邦軍の旗が大きく揺れ、歓声と足踏みが大地を揺らした。
しかし次の瞬間、石畳が黒く染まる。
『ア』
地面から浮かぶのは、紅い外套を纏う幽鬼。
火のないカンテラを掲げた亡霊――≪スペクター≫が、兵士たちの足元から続々と這い上がる。その異形に実体はなく、剣や槍は通用しない。精神を汚染する邪気が蔓延し、戦士たちの意思を挫く。
白狼が跳躍し、母屋の壁に四肢を広げて踏ん張った。
そして大きく口を開き、放たれるのは無音の咆哮。
――――ッ!
魔力を掻き消す清廉な波動が、数体の≪スペクター≫を一息に消し去る。しかし倒すよりも現れるほうが早い。石畳の隙間から溢れる幽鬼は、瞬く間に数百人の兵士を覆いつくした。
そこに響くのは、雄々しくも豪快な男の声。
「目を覚ませ、野郎どもッ! 旗に捧げた忠義を忘れるな! 盾の陣形アイアス! 魔術師部隊の守りを固めろ! いいか、テメェら! ここで
領邦軍の中心に、片目に深い傷跡を刻んだ赤毛の男がいる。すでに壮年だが、身に溢れる活力は誰よりも若々しい。彼こそが、ブリギット最強を自負する武人。ブリギット領邦軍の長ウィリアム・アーデン将軍は獰猛な笑みを浮かべ、豪快に言い放った。
「亡霊上等! 武の神スカーアハの加護は我が槍にこそ在り! 真なる
激励と共に、アーデン将軍は頭上で槍を旋回させた。それは何の特別な効果もない、ただの見せ技だが――天下無双の男が発した鼓舞が、奪われかけた兵士たちの闘士を繋ぎとめる。目に光を取り戻した戦士たちが、一気呵成に怪物たちの
さらに
「領邦軍、進軍! 気高く勇猛たれ、我が戦士たちよ!」
戦時下にあっても金色と髪と口髭に乱れはなく、彼は雄々しく赤い
「大いなる火の女神ブリギットが名の元に! 聖女アメリアの
その戦場に蹄と車輪の音を響かせて、ユウリスたちが突入した。
規律を取り戻した兵士たちもレイン家の子供たちを冷静に見極め、馬車の進路を阻みはしない。行きがけの駄賃とばかりにクラウが≪スペクター≫を切り裂くと、白狼様の加護を得た、と領邦軍の面々が色めき立つ。
ドロシーとエドガーは歓喜を隠そうともせず、父であるセオドアに呼びかけた。
「お父様! やっほー!」
「父さん、無事でよかった!」
「ドロシー、エドガー、ユウリスも! よく戻った!」
セオドアの傍らに停車した馬車から、双子が腕を伸ばした。再会の喜びを分かち合う親子とは裏腹に、ユウリスが向ける眼差しは冷たく暗い。聞きたいことが山ほどあった。忌み子の真実、血縁の秘密――こんな場所で問い質せる内容でないのは百も承知で、それでも胸には黒い感情が渦巻く。
そんな少年の手に、クラウが心配そうに鼻先を寄せた。
「ごめん、クラウ。大丈夫、なんでもな――」
刹那、ユウリスは不意の悪寒に襲われて反射的に背後を振り向いた。
白狼も同じく、鋭い目つきで同じ方角を見据える。
全身をすっぽりと覆う
その存在にセオドアも遅れて気がつき、憤怒の形相でレイピアを薙ぎ払った。
「貴様ら、私の息子になにをしているかッ!」
白装束の誰かから、笑う気配がする。存在感の薄い、個を捨てた無情の刺客。この独特な雰囲気を、ユウリスは一度味わっている。
「ハサンの一味か!」
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