10 人狼の病巣

人狼じんろうについて、お前たちはどの程度の知識がある?」


 ウルカに問いかけに対して、部屋に集められた一同の反応は様々だ。


 寝台で上半身だけを起こしているユウリスの膝の上では、サヤが何度も頭を振って疑問符を浮かべている。


 床に座り込んだエドガーは窓を叩く雨粒をぼーっと眺めていた。


 壁際に佇むオスロットは渋面で黙り込んでいる。


 寝坊して朝食を食べ損ねたドロシーが、パンをかじりながら片手を掲げた。


「はい、あたし、わかる! 狼の姿をした化け物! 昼間は普通の人間なのに、満月の夜になると牙が生えて、目が血走った狼になっちゃうの!」


 膝立ちになったドロシーが、獣の仕草を真似るように両手を広げてうなり声を上げる。サヤが怯えたように短い悲鳴を漏らすと、女優を志す彼女は満足そうに笑みを浮かべた。


 寝台の隣で椅子いすに座るウルカは、嘆息して肩を竦める。


「一般の認識では、そんなところだろう。いま小うるさいほうの双子が口にした通り、人狼は人間が狼の怪物と成り果てた姿だ。ちなみに満月でなくとも、夜になると変身はできる。戦った感触からすると、今回の人狼は≪ライカンスロープ≫と呼ばれる種族だ」


 淡々と紡がれるウルカの解説を、待て、とオスロットが制止した。感情に敏感なサヤを気にして声を荒げこそしないが、その表情は十分に不機嫌そうだ。


 彼は大きく鼻息を吐いて口髭くちひげを揺らすと、ブーツで苛立たしげに床を踏み鳴らした。


「畜舎で怪物と対峙してから三日が経った。ウッドロウ閣下から依頼された人狼退治は、お前が断ったのだろう。なぜいまさら、こんな話を聞かせる?」


「ユウリスの回復が想像よりも早い。お前に詳細を明かす気はないが、首尾よくいけば今晩にも霊薬による治療が可能になる。それで馬鹿弟子が、調子にのりだしたというわけだ」


「なにを言っとるのか、ぜんぜんわからん!」


「大怪我までしておいて余計なことに首を突っ込むのは、調子にのっているからとしか考えられないだろう。馬鹿の所業だ、呆れてものも言えない」


「馬鹿はお前だ、この能無しゲーザーめ。わかる言葉でしゃべらんか!」


 顔を真っ赤にして憤激ふんげきするオスロットに、サヤが不安そうに表情を曇らせる。そしてウルカに馬鹿と連呼されるばかりのユウリスは膝の上に座る少女の髪をそっと撫でると、自ら名乗りでた。


「俺が言い出したんだよ、オスロット。人が殺されているし、このまま放ってはおけない。きちんと報酬も出るなら、まずは調査をしてみようってウルカに提案した。闇祓いの力を取り戻す訓練になるかもしれないし、人狼の秘密も気になる」


「怪物の秘密に興味があるのは、ゲーザーだけだ! 私はこれっぽっちも関わりたくないわい! お前も、大人しく養生しておれ!」


 そこでドロシーが手を叩いて注意を引いた。心ここにあらずといった様子のエドガーも、双子の姉を不思議そうに見上げる。ウルカが心の底から鬱陶しそうに眉をひそめるのを気にもせず、少女は快活に推理を披露した。


「あたし、わかった。うそ、天才かも。人狼は、人間が怪物に変身するんでしょ。ってことは、つまり村人の誰かが人狼なんじゃない⁉︎ ユウリス、当たり⁉︎」


「確証はないけど、その可能性が高いと思う。ただ、ちょっと気になることがあって……ウルカ、続きをお願い」


「ヌアザは人狼を怪物の一種に分類しているが、ディアン・ケヒト――私たち闇祓いの間では意見が分かれている。彼らが元は人間だから、というだけではない。ここにいる全員、ただの人間が≪ライカンスロープ≫に変わる仕組みを理解してはいないだろう。だが、それこそが問題だ」


 遺伝的なものかな、と漏らしたのはエドガーだ。ドロシーは魔術の力だと口にして指を鳴らし、オスロットは無言で唇を歪めている。


 ウルカは思慮深く目を細めると、重々しく人狼の正体を明かした。


「≪ライカンスロープ≫は、病だ」


 ユウリス以外の全員が意外そうに目を丸くした。


 病と聞けば、サヤですら風邪を想像する。ドロシーとエドガーは顔を見合わせて、オスロットも呆けたように口を開いた。


 強い風が窓硝子を叩き、雨脚が強まる。


 視線を外に移したウルカは、黒い雲の彼方を探した。そう遠くはなく、東の空は晴れている。


「通称、人狼病。ヌアザは感染症の一種として、医学的に研究を続けている。それは自然に発生したものではなく、魔神バロールが生み出したとされる細胞の姿をした怪物だ。一度でも人間の体内に巣食えば、本人の意思とは関係なく狼の異形に変えられてしまう」


 細胞という単語が理解できないドロシーとオスロットは首を傾げたが、エドガーは理解した。


 つまり目に見えないほどの小さな怪物が人間の体内にみつき、強制的に人狼化を促すという恐ろしい病――そこまで噛み砕いて、聡明な双子の弟は奇妙な違和感を覚えた。


「でもウルカさん、僕は人狼病なんて初耳です。そんなに恐ろしい病気があるなら、もっと有名なんじゃないですか?」


「昨晩、ユウリスも同じ質問をしてきた。伝承によると、人狼化の病は罪と罰の時代に大きな破滅をもたらしたと伝えられている。だが当事の魔術師たちは研鑽けんさんを重ね、悪性細胞を排除する免疫を作り出した。数百年が経った現在、ほとんどの人間は生まれつき人狼病に感染しない身体となっている」


 つまり人狼病は大昔の病気だ。伝承として広く知れ渡っている人狼は、感染症ではなく怪物としての側面が強く語られているに過ぎない――そう説明するウルカに、エドガーは相槌を打った。同時に、そんな人狼が現代に姿を見せた意味に言及する。


「でも、例外があるんですね?」


「数万人にひとりの割合で、抗体不全の人間が生まれるらしい。そんな奴が運悪く人狼病に感染した場合、≪ライカンスロープ≫となってしまう。変身は決まって夜間。自我を失い、血と肉を求めてさまよう怪物だ。基本的に昼夜の記憶は共有されず、自分が人狼であると気付かない者も多い。親から子へ引き継がれるようなものでないのが、せめてもの救いだ」


 フォースラヴィルに伝わる人狼の逸話を夜通し語り明かしたレイン家の子供たちは、不安そうに視線を交わしあった。


 特に怯えたのはドロシーだ。彼女は顔面を蒼白にして、自分が人狼になってしまう可能性に身を震わせた。


「それって、この村にいたら誰だって人狼になっちゃうかもしれないってことじゃない⁉︎ そんなの嫌! ねえ、エドガー。あたし、歯がとがっていたり、急に獣臭くなっていたりしてない⁉︎」


「人狼は夜に出歩くんだよね。ならドロシーは平気だよ。いつもいびきがすごいから、あれが聞こえなくなったら誰でも気付く」


「ちょっと、あたしはいびきなんかかかないわよ。ユウリス、そういう魔物がいるんじゃないの?」


「調べておくよ、図鑑にドロシーの名前が載っているかどうかはわからないけどね」


 軽口を叩き合う子供たちを尻目に、未だ納得のいかないオスロットは不満げに眉をひそめている。警察官としての勘が、きな臭いなにかを感じ取っていた。思案気に口髭を撫でた彼は、不承不承ながらウルカの解説を前提に話を進めた。


「そこにいるゲーザーの話を信じるなら、人狼病とやらは滅多に感染しないのだろう。だが不自然じゃないか。フォースラヴィルには人狼の伝承があり、なぞらえるように同じ化け物が姿を現した。そもそも何万人に一人の割合でしかならん病に、土地に根づくほどの伝説が残るものか?」


 確かに、と双子が頷く。


 オスロットを二流の警官だとばかり思っていたユウリスも、少しだけ感心したように目を瞬かせた。


 退屈そうにしているサヤが船を漕ぎはじめたのを横目に、ウルカが不遜に鼻を鳴らす。


「人狼の伝承自体は珍しくもない。人狼は≪ライカンスロープ≫の他に、魔術で後天的に獣の特性を得た≪ルー・ガルー≫と呼ばれる種族もいる。他にも南のドルイドは毛皮を被って狼を身体に憑依ひょういさせるというし、山や森に近しい地域なら、狼の怪物にまつわる逸話なんて枚挙にいとまがないほどだ」


 でも、とユウリスは疑問の声を被せた。


 師の言葉通りだとしたら、人狼の伝承が根づくフォースラヴィルに≪ライカンスロープ≫が現れたのは偶然ということになる。それはなんだか釈然としないと言いたげな弟子に、ウルカは首を左右に振った。


「私は、その考え方が逆だと思っている。ユウリス、ブレグ村の様子を覚えているか?」


「働き手の男性はフォースラヴィルへ働きに出ているから、女性と子供、老人しかいなかった。村はあんまり大きくなくて、高い木の板に囲まれて――あっ!」


 そこでユウリスは伝染病の話を思い出し、表情を強張らせた。


 ウルカ曰く、必要以上に高い塀や溝で囲まれた集落は、伝染病の隔離場所として使われていた可能性がある。怪訝そうに眉を寄せたのは双子だけで、オスロットは得心してハッと目を見開いた。


「ブレグ村は伝染病の封印地か! そういうことだな、ゲーザー?」


「腐っても警察官だな。正解だ、あとでユウリスが頭を撫でてくれるだろう。だが先に話した通り、人狼病は抗体不全の人間にしか作用せず、爆発的な感染の恐れはない。つまりブレグ村が隔離場所だったとしても、原因は他の感染病だろう」


 大人二人の会話に耳を傾けながら、事情を呑みこめていない双子は義兄に助けを求める。静かな寝息を立てはじめたサヤをそっと傍らに横たえて、ユウリスは簡単に事情を説明した。


 ドロシーは頬の片方を膨らませて天井を睨み、エドガーは人差し指でこめかみを叩く。


「なによそれ、ぜんぜん話が進んでないじゃん。けっきょく人狼の伝説と≪ライカンスロープ≫は関係あるの、ないの?」


「ドロシー、ウルカさんは≪ライカンスロープ≫と人狼の言い伝えの繋がりを逆だと言ったんだ。つまり≪ライカンスロープ≫に縁のある土地だから人狼の言い伝えがあるんじゃない。≪ライカンスロープ≫が現れたから、人狼の言い伝えが生まれた。そういうことじゃないかな?」


「いや、それいっしょじゃん。昔、≪ライカンスロープ≫が出たから伝承が生まれたんでしょ。ラポリが知っていたくらいなんだから、昨日今日の伝説じゃないだろうし。あー、もう、頭がこんがらがりそう。ユウリス、答え!」


 義妹いもうとからさじを投げられたユウリスだが、事前にウルカと打ち合わせていたわけでもない。しかし師は答えを引き継いでくれる気配もなく、オスロットも渋面で唸るばかりだ。


 仕方なしに頭を働かせた少年は、これまでに得た情報を脳裏に浮かばせた。


「まず、ブレグ村が感染症の隔離地だったのは間違いない」


 伝染病の隔離場所だった可能性のあるブレグ村。


 六王戦役の頃に生まれた近隣の避暑地フォースラヴィル。


 部外者を遠ざけようとする住民。


 人狼の伝承と、それを利用した観光産業。


 実在する≪ライカンスロープ≫の襲撃と、戸惑う人々。


 家畜の被害。


 検死すら許されなかった遺体。


 袖を捲ろうとして叱られたサイモン・ウォロウィッツの娘。


「でも、その原因が人狼の病じゃないとしたら……」


 すでに脅威ではなくなった過去の伝染病。


 黒い血を吐いて死に到る黒血病。


 人間が怪物に変わるウンディゴ病。


 人間が≪ライカンスロープ≫に変わる人狼病。


 鼠を媒介した感染で高熱を発症する鼠熱。


 身体が石化するバジリスク症候群とコカトリス疾患。


 それらは偏見や差別を助長する。


 ――ユウリスは思考の海で、記憶の欠片同士を何度もぶつけあった。ほとんどが破綻して推理とも呼べないような思いつきでも、ときには予想外に噛み合う瞬間が訪れる。


「ウルカ。根治した伝染病のなかに、その痕跡が子孫にまで引き継がれるようなものってあるかな? 例えば親が人狼病になったら子供のお尻に尻尾が生えるとか」


 あるいは、とユウリスが言葉を切る。脳裏に思い浮かぶのは、ブレグ村で出会ったサイモンの娘だ。意を決して、続きを紡ぐ。


「痣ができるとか」


「人狼病は親から子に遺伝はしない。以前に話した伝染病のうち、感染者の影響が子孫にまで及ぶのはウンディゴ病だ。二、三代後まで皮膚の一部が石の鱗のように乾燥して硬くなる。よく辿り着いたな、おそらく私の回答と同じだ」


 闇祓いの師弟は互いを認めるように頷き合うが、外野はちんぷんかんぷんだ。再び思いつきを口にしようとするエドガーを、話が余計にややこしくなると危惧したドロシーが目線で牽制する。


 オスロットは未だに自力で謎を解こうと頭を悩ませているが、ユウリスは構わずに推理を披露した。


「ブレグ村は昔、ウンディゴ病の隔離地だったんじゃないかな。ウルカの話だと、皮膚の痕跡が続くのは二、三代限り。フォースラヴィルが生まれた時期を考えると、発症の時期は六王戦役のあたりだ。たぶん村の人たちは、それを隠したかったんだと思う」


 伝染病が流行った地域は、根治の後も忌諱される。故にブレグ村の住民たちは、フォースラヴィルという新たな地を開拓してウンディゴ病の記憶を遠ざけようとしたのかもしれない。


 オスロットは、ぽん、と手を叩いて畜舎の出来事を回想した。


「だからモームの小屋で殺された男の遺体を、私に触らせなかったのか。部外者に皮膚の石化を見られてしまえば、ウンディゴ病の封印地だったことが露見してしまう。あるいはサイモンの娘も、村での振る舞いから察するに腕に痕跡があるのかもしれんな。あいつはブリギットの出身だから、奥方の系譜けいふに間違いあるまい。だが、ユウリス・レイン。そこに人狼の伝承やらは、どう繋がる?」


「ウルカが言った通り、人狼の伝承はどこにでもある。そしてフォースラヴィルは人狼を怖がるどころか、商売に利用していた。ぜんぶ作られた話だと思う。元からあった妖精の泉の伝説になぞらえて、ブレグ村の人たちは人狼の伝承をでっちあげたんだ」


「商売のために、そんな回りくどい真似をしたというのか?」


「いや、違うと思う。予想でしかないけど、それもウンディゴ病が流行った事実を隠すためじゃないかな。ウルカ、たしか人が怪物に変わる病気って言ったよね?」


 ああ、とウルカは頷いて、サヤの様子をうかがった。純真無垢な少女はユウリスの脚にしがみついて、幸せそうに昼寝の時間を享受きょうじゅしている。続いてレイン家の双子とオスロットを交互に見据え、他言無用の話だと厳しい口調で釘を刺した。


「ウンディゴ病は、人を怪物に変える。初期症状としては体毛が抜け落ち、肌が血の気を失うのが特徴だ。やがて異様な筋力を得て、ひどい飢餓きが状態に陥り人を襲う。ウンディゴは、人を喰らう怪物だ。そして幸か不幸か、この疫病は薬で完治する。怪物になった者が人間の姿を取り戻す、この意味がわかるか?」


 エドガーとドロシーは産毛うぶげをぞわっと逆立たせて震え上がり、オスロットも絶句して髭を上下に動かすばかりだ。


 ウルカの眼差しが、自然と弟子に注がれる。


 重い溜息を吐いたユウリスは、瞳を揺らした。


「ウンディゴになった者が、人間に戻る――つまりブレグ村には、怪物の姿のときに人間を食べてしまった人がいて、その子供や孫が暮らしているってこと?」


「そうだ、これは非常に繊細せんさいな問題だ。ウンディゴと化した人間に理性は残らない。だが周囲の人間は、誰が怪物になって誰を食べたかを知っているだろう。伝染病の流行った地域が嫌忌きいされるのは珍しくないが、ウンディゴ病の差別は特にひどい。食人村なんて呼ばれて、滅んだ集落は一つや二つじゃ足りないくらいだ」


 その記憶をブレグ村の人々は、人狼の伝承とフォースラヴィルという新しい土地で封印した。


 あまりの衝撃に息苦しさを覚えたオスロットは、閉ざされていた窓を開いた。多少の雨が吹き込んで床を濡らしても、文句を口にする者はいない。


 眉根を下げたドロシーは、声を震わせた。


「だからあんなに、あたしたち余所者を警戒していたんだ。でもユウリス、実際に家畜を襲って農家の人を殺したのは≪ライカンスロープ≫だったんでしょう?」


「そこなんだけど、村の人にとっても本物の人狼が現れたのは予想外だったんだじゃないかと思うんだ。オスロット、≪ライカンスロープ≫を見たみんなの反応を覚えてる?」


「ああ、たしかに言われてみればおかしな感じだったな……そう、人狼が現れたことに驚いていた。待て、じゃあ彼らはなにを捕まえるために集まっていたというのだ?」


「その答えはひとつしかない」


 ウンディゴ、と掠れた声で呟いたのはエドガーだ。遅れてドロシーが胸元で手を叩き、ウルカは目を細めて首肯した。


 考えすぎて知恵熱を起こしそうなオスロットに、ユウリスが噛み砕いて説明を続ける。


「チャドェンさんは、家畜が襲われはじめたのは半月くらい前からだと言っていた。人に被害がなくても、ブレグ村の人が疑ったのはウンディゴ病の再発だったんじゃないかと思うんだ。だから村の中だけで処理しようとした。そういうことだよね、ウルカ?」


「おそらく、ユウリスの推理が正しい。ただ夜間のみ怪物に変身する人狼病と違い、ウンディゴ病は罹患りかんすると特効薬を飲むまでは人間に戻れない。ウッドロウ・レインは、そういう観点からウンディゴ以外の原因を想定していた節がある。その証拠に三日前の≪ライカンスロープ≫出現直後、すぐに退治を依頼してきた。村から追い出されなかったのも、闇祓いの私が帯同していたからかももしれない。ただ現状は確固たる証拠もなく、村の連中を問い詰めてもシラを切られたら終わりだ」


「それなら村の実権を握っているおじいさまに、ぜんぶ話してもらおう」


「あの性格の悪そうな老人が、素直に協力するとは思えないがな」


「部外者にあれこれ好き勝手に詮索されるより、自分の口から真実を明かしたほうが村のためになる。そういう判断ができる人だと思うよ――そうですよね、おじいさま?」


 ユウリスは部屋の扉に向け、静かに声を通した。廊下で聞き耳を立てる気配にはウルカすら気がついてはおらず、訝しそうに弟子へ視線を送る。


 やがて金具の軋んだ音を立て、外側から扉が開かれた。姿を現したウッドロウが驚嘆を隠そうともせずに、黒髪の孫を見やる。


「驚いたのう。狩人かりうどとして気配を消すのだけは、誰にも負けなんだが……どうしてわしがいるとわかった、ユウリス?」


「母方の遺伝で、他人の気配に敏感なんです。ミアハの感覚、戻ってきたみたい」


 後半の台詞はウルカに向けたものだが、ユウリスは祖父から視線を外さない。ドロシー、エドガー、オスロットの視線も自然とウッドロウに集まり、部屋に不穏な空気が漂う。


 立ち聞きをしていたことを悪びれる様子もなく、ブリギットの元領主は佇んだまま鼻を鳴らした。


「どうやら潮時じゃな。とはいえ、わしから語ることは多くない。すべてユウリスと、そこにいる闇祓いの言葉通りじゃ。改めて依頼をする。≪ライカンスロープ≫だかなんだか知らんが、人狼を退治しろ。この村は、もう十分に苦しんだ。わしも平穏に余生を過ごしたい」


 この場でウルカは、ウッドロウの依頼を承諾した。しかし報酬については交渉するつもりらしく、オスロットを含めた大人の三人は早々に別の部屋へ消えてしまう。


 腕を伸ばしたドロシーは、大きく欠伸をした。


「なんか疲れたー。小屋に戻って昼寝しよう、昼寝。エドガーはどうする?」


「僕は……そうだね、付き合うよ。ユウリス、サヤちゃんをよろしくね」


「もちろん。起こすのも可哀想だし、このまま預かるよ。それよりエドガー、ちょっと話があるんだ。二人で話したいんだけど、いいかな?」


 気を利かせたドロシーは、すぐに退室してくれた。


 呼び止められたエドガーが、ウルカが座っていた丸椅子に腰を下ろす。ブリギットにいる間は二人きりで話す機会などめったになかったが、フォースラヴィルまでの旅でずいぶんと打ち解けた。いま家族のなかで、いちばん仲が良いのは彼かもしれない。


 表情を緩ませたユウリスは、何気ない調子で要件を切り出した。


「余計なお世話だったら謝るけど、なにかあったのかなと思って。俺に聞ける話、ある?」


「なにそれ、なにかあったのはユウリスじゃないか」


 エドガーの言葉はもっともで、ユウリスは思わず吹き出した。その拍子にサヤが身じろぎをするものだから、レイン家の義兄弟きょうだいは慌てて口を手で塞いだ。


 声を抑えた二人が、静かに語り合う。


「さっきエドガー、ぼーっとしていただろ。こういうときの話は、いつも注意深く聞いているのに。それに、ドロシーに突っ込まれるくらいトンチンカンなこと言ってた。話したくないなら無理にとは言わないけどさ」


「ユウリスに比べたら大した悩みじゃないよ。でも心配させちゃったみたいだし、ちょっと相談してみようかな。絵だよ、絵。才能に悩んでる。僕、もしかしたら絵描きの才能がないのかもしれない」


 いつもの飄々とした雰囲気を纏うエドガーの表情から、余裕が消えた。代わりに浮かぶのは、諦めにも似た色だ。無言で聞き役に徹してくれる義兄から視線を外して、絵描きを志す少年は片脚を持ち上げて膝を抱えた。


「ビッグ一座のテリーさん、本当に絵が上手なんだ。僕も勉強していたつもりだったけど、お遊戯みたいなものだって思い知らされた。同じ色を使っても深みが違うし、同じ線を引いても立体感が別物だ。どう練習すればそんなに上手くなれるのかって聞いたら、彼女はなんて答えたと思う?」


「なんだろう、ひたすら練習かな」


「いいや、テリーさんはこう言った――描きたい世界を自分のなかに作るだけ、あとは技術を磨けばなんとかなる」


 これまでエドガーは師を見つけて技巧を学び、昼夜を問わずに筆を執り続ければ絵は上達する、そう本気で信じ込んでいた。しかしテリーの教えは違う。技術の修練などは当たり前の努力で、感性こそ養うべきだと主張したのだ。


「感性ってなにって聞いたらさ、困った顔をされちゃって……」


 それは純粋に画家を夢見るばかりだった駆け出しの少年に、深い衝撃と絶望を与えた。感性という単語を理解できないというわけではない。しかし技術は当たり前だと言われた時点で、エドガーの積み重ねてきた時間は一息で崩された。


「正直、なにそれって最初は思った。教えるのが面倒で、適当にあしらわれたのかなって。でも違ったよ、テリーさんは本当に想像力豊かな女性だった。目の前にあるものでも見たことのない景色でも関係なく、臨場感たっぷり描きだす。僕には意味がわからなかった。つまり才能がないってことさ」


「才能がなかったら、絵描きにはなれないの?」


「嫌なこと言うな。んー、どうだろう。でもユウリスだって、才能があったから≪ゲイザー≫になれたんだよね。闇祓いの作法とかって力に目覚めなかったら、そもそもウルカさんの弟子にもなれなかったんじゃない?」


「破邪の力自体は珍しくないってウルカは言うけれど、それはあるかもしれない。でも俺、未だに道場じゃ四天王止まりだ。剣の腕はないけど、努力はしてる」


「比較対象がブリギット道場じゃ説得力ないよ。あの三高弟さんこうていに勝とうなんて、ドロシーがおしとやかになるよりありえない」


「それ永遠に敵わないって言われているみたいなんだけど……」


 眉間にしわを寄せるユウリスの肩を叩いて、エドガーは椅子から腰を上げた。


 窓の外では雨が上がり、弱々しくも日の光が差しはじめている。湿っぽい空気は、北の山脈から流れる冷たい風がすぐに洗い流してしまいそうだ。


「ドロシーは天才なんだ。ラポリさんとダイアナさんにも、演技をすごく褒められている。双子だから、僕も同じようにできると思ったのかな。母さんの言う通り、世間知らずだったのかもしれない」


「エドガー、諦めるには早すぎるよ。俺は十二歳の頃、闇祓いになる自分なんて想像もしていなかった」


 立ち去ろうとするエドガーの手首を掴んで、ユウリスはじっと見上げた。かつて下水道で、ウルカから受けた教えが脳裏に蘇る。増長した自分を諌め、道を示してくれた薫陶くんとう。それがほんの少しでも悩める義弟おとうとに響けばいいと、真摯に想いを伝える。


「人生なんて、本当に一瞬で変わる。そんな運命の転機が訪れたとき、手を伸ばすのに必要なのは才能じゃない。絵を描きたいって思う、エドガーの強い意思のはずだ」


 紡いだ言葉は、ユウリス自身の胸も震わせた。心を覆い隠していた深い霧が晴れ、よどんだ闇の向こうに絶対零度の焔と、その鼓動――闇祓いの作法が、呼応するように息衝くのを感じた。


「誰にでも原点がある。それを忘れなければ、なんどだって歩きだせるさ」


「原点……僕の原点か。ああ、そうだね、少し考えてみるよ。それにしてもユウリス、知らない間に大人になったんだね。ちょっと羨ましいというか、なんかずるいよ」


「十五になったから……って言いたいところだけど、ぜんぶウルカの受け売り。それにこうして話せたおかげで、俺も自信を取り戻せた。いつでも聞くから、相談して」


「ありがとう、ユウリス。いまの話、ドロシーには内緒だよ」


「きっと気づいていると思うよ」


「なにも言わなかった」


「ドロシーはどんなときも、いつも通りさ。二人が俺に、そうしてくれているように」


 エドガーは柔和な笑顔を浮かべると、無言で部屋を後にした。


 残されたユウリスが、うんと大きく伸びをする。それからサヤを起こさないように姿勢を正すと、瞼を落として胸の内に問いかけた。


 もう一度、自分を見つめなおそう。


「ウルカは学べと言った」


 ≪ゲイザー≫の剣を握る、そう初めて決めた瞬間に想いを馳せる。


 あれから短いようで、もうすぐ一年――多くの経験によって鍛えられたのは、技術や能力だけではない。心の在り方、矜持、価値観、これまで繰り返してきた出会いと別れが、この身に血肉となって宿っている。


「ブレグ村と人狼の戦いで力が戻ったのは、そういうことなんだよな。怒りや憎しみじゃない。自分が後悔ないように、誰かを悲しませないために、それがはじまりだった」


 しかし、その想いとは裏腹に自分はビル・ロークを殺した。彼を殺傷せしめたことに、それほどの罪悪感はない。ただ心を蝕んだのは、殺人という行為だ。命を守るために握った剣が、それを奪う矛盾。


「誰かを守るために戦ったはずが、誰かの守りたいものを奪ってしまった」


 人生を賭けて、息子を守ろうとした女性。魔女キルケニーの嘆きを、その罪と罰を受け入れなくてはならない。同時に、ようやく自覚する。他人の死を利用して自分を責めることを、贖罪とは呼ばないのだと。


「それを理由に、逃げちゃ駄目だ」


 オリバー大森林の戦いで感じた心の葛藤は、いまも胸に秘めている。理由なんか、どうでもいい。ただ心のあるがままに、自分のしたいようにする。こんなわがままにも応えてくれる力だったからこそ、今日まで共に歩めたのだと思う。


「俺が守りたいものは、俺にしか守れない。罪を犯した。罰があるなら、受け入れる。けれど、絶望はしない。贖いは、進んだ道の先で見つける。それができるはずだ。俺になら、きっと」


 そのすべてを信じて、ユウリスは唱えた。


「闇祓いの作法に従い――」


 そしてサヤの眠りは、清廉せいれんな青い輝きによって終わりを迎えた。

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