18 サンドイッチと死の予言

 重い水に囚われたユウリスは、うつろな目を瞬かせた。


 これは夢だ――そう自覚するが、覚醒する術はない。


 暗黒の世界。肌を刺す冷たい泥水。濡れた服が肌にまとわりつき、喉から漏れた気泡が不安を煽る。やがて肺の酸素が途切れると、目と鼻の奥に鋭い痛みがはしった。もがくたびに苦しみは増して、胸が内側から握りつぶされるような死の恐怖に晒される。


 ――レイン……レイン……レイン……レインレインレインレイン!


 声がする。


 鼓膜ではなく、脳裏に響く怨嗟の音。


 暗闇の奥で、二つの紅い双眸そうぼうが瞬いた。髑髏の仮面を被った怪人が甲冑かっちゅうに包まれた手をかざす。その指先から放たれる赤紫の閃光が、ユウリスの腹を貫いた。


 脳髄のうずいが痺れ、ただ痛みだけが続く。


 ――殺してやるぞ、腕をもぎ取り肉をかじり、骨をしゃぶって喰ってやる!


 誰かが笑った。醜悪な声を震わせて、首なしの黒い騎士が頭上に現れる。振りかざされた禍々しい大剣が、ユウリスの身体を肩から深く斬り裂いた。


 身を刻まれる恐怖と責め苦に助けを求めようとしても、おぼれる水中では声など誰にも届かない。


 ――私は人形、生き人形。あなたは人形、私の人形。


 もう自分の身体がどうなっているのかもわからない。首にまとわりつく人形が、耳元でなにかを囁いている。それは邪悪な誘いで、魅惑的な甘言かんげんだ。


 ――覚悟もなく、戦場に立つな!


 もう片方からは、べつの厳しい声がする。振り向くと、剣で首を貫かれた暗殺者の女がいた。


 ――レイン!

 ――害虫風情が!

 ――ぜーんぶ、ぜーんぶ寄よこ越しゃんせ。

 ――覚悟もなく。


 もう楽になりたい。そう感じた少年の正面に、大きな影が覆い被さった。身なりの汚れた、大柄の中年男だ。彼の胸には、短剣が突き刺さっていた。刃の柄を握るのは、ユウリスの手だ。


「あ――」


 ユウリスが呻くと、水は消えた。暗闇の地平に佇んで、胸を刺された巨漢と向き合う。彼は大きく口を開いて、大量の黒い血液を吐き出した。粘ついた感触と、錆びた鉄にも似た生々しい臭気。


「あ、あああ、あああああああああああああああ!」


 叫ぶ。


 助けて。


 誰か助けて。


 そう口にしているつもりだが、意味のない単音しかあがらない。


 血の海が世界を満たし、少年を蝕む。もう巨漢の姿はない。あるのはただ、罪の意識と罰の願望――殺人を犯したユウリスの悪夢。鮮血の檻に、意識が溺れる。


 しかし突如として介入する知らない声が、罪人の咎に光をもたらした。


「面白い夢」


 透き通る、しとやかな少女の声だ。


「心が死に近づいて、破邪の守りが薄れているのね。おかげでようやく夢渡りができたわ。あなたとお話がしたかったのよ、ユウリス・レイン」


 不意に景色が一変する。赤い海が渦を巻いて宙に舞い上がり、指先ほどの水滴に凝縮すると、それは潰えた。


 続けて暗黒の世界に花の風が吹き、草原が広がる。闇に星が瞬き、空気は肌触りの良い清涼感で満たされた。見慣れた双子の月は空になく、代わりに大きな金色の天体がひとつだけ浮かんでいる。


「……ここは?」


 呆然と座りこむユウリスの正面に、赤い絨毯が敷かれていた。丸い木の卓に、果物を挟んだ軽食や焼き菓子を乗せたケーキスタンド。向かいあう二つの椅子。声の主は、その片方に腰を下ろしていた。


「ごきげんよう、ユウリス・レイン。さあ、お座りなさい。お茶会をしましょう。きっと楽しいわ。サンドイッチはお好きかしら?」


 青みがかった白銀の長い髪に、真紅のリボンを揺らす少女だ。手には柔らかそうな生地のパンを手にしており、レースとフリルが豊かな瑠璃色のドレスにかすがこぼれている。


 彼女は碧い瞳でユウリスを見据え、早く、と腰掛けの脚に行儀悪く青い靴のかかとをぶつけた。


「君は誰?」


「わたしはアリスレイユ」


 聞き覚えのある名前だ――ユウリスは息を呑んで、ひざを伸ばした。椅子に腰を下ろすと、アリスレイユからしきりにサンドイッチという料理を食べるように勧められる。どれのことかわからないと首を傾げる少年に、彼女はケーキスタンドの下段を指で示した。


「わたしが食べているのがサンドイッチよ。どうせ夢だから、味なんてすぐに忘れてしまうでしょうけど」


「ありがとう、アリスレイユ」


 女魔術師会ゴスペル・オブ・ウィッチ・クラフト、その盟主の名がアリスレイユ。魔女のお茶会で、そう聞いている。


 この状況は夢だと語る少女に顔をしかめながら、ユウリスはサンドイッチを手に取った。指にすいつくような柔らかい生地に、思わず目を見張る。思い切ってかじりつくと、とびっきり甘い生クリームと果物の味に舌がとろけそうになった。


「なにこれ、美味しい!」


「りんごの紅茶もどうぞ。とても美味しいの」


 促されるままに、手元のティーカップを手に取る。公爵家に届く贈答品ぞうとうひんにも見劣りしない、綺麗な陶器とうき製だ。すっきりとした甘さとりんごの香りが鼻から抜けて、気分が落ち着く。悪夢に犯された身体から、毒が薄れていくような感覚だ。


 少女は、くすりと囀った。


「わたしはイルミンズールに近すぎて、もうずっと夢のなかをさまよっているの。たまに目覚めては外の人たちに予言を聞かせてあげるけれど、またすぐに眠くなってしまうわ」


「予言……アリスレイユは、未来が見えるの?」


「ええ、わたしは預言者ですもの。時間という川を見ているの。時の流れには無数の糸が泳いでいるわ。その一つ一つが明日の可能性。輝く線は強い未来、色の薄い線は死んでいく未来。この瞬間にも、ほんの一秒先の状況に数え切れない選択肢が広がっている」


「未来がいくつもあるの?」


「そうよ、でも未来として確定する糸はひとつだけ。わたしの予言は、どの線が確定する明日になるかを見極めているにすぎないの。ちょっとした推理ゲームよ。ねえ、ユウリス・レイン。たまごのサンドイッチも美味しいの。あとひとつしかないから、半分こしましょう」


「いや、俺はもういいよ」


「嫌よ! 半分こするの!」


 アリスレイユは不満そうに口を尖らせた。さらにティースプーンでカップの淵を叩くと、思い通りにならない苛立ちに表情を歪めてしまう。


 溜息を飲み込んだユウリスは、仕方なく彼女の言葉に従った。少女の小さな手が半分に割ったサンドイッチを、口に運ぶ。仄かな酸味さんみと甘さ、辛さ、滑らかな卵の感触が味覚を刺激する。


「これ、どこの食べ物? 新年の祝いでも、こんなに美味しい料理は食べたことないよ!」


「夢のご馳走よ。お茶会は楽しいでしょう、ユウリス・レイン。でも残念、あまり長くはお話できないわ。お腹がいっぱいになったら、眠くなるでしょう。それは破邪の守りが元気になった証で、わたしは遠くへ弾かれてしまうの」


「それは闇祓いの作法のこと?」


「ディアン・ケヒトの奥義。女神ダヌの切り札。泉の乙女が生贄いけにえを選定するための符丁ふちょう。あなたはどうかしら、ユウリス・レイン。≪ゲイザー≫はなにを見つめているの?」


 ユウリスはなぜだか得体の知れない恐怖を感じて、気を紛らわすようにサンドイッチを口いっぱいに頬張った。


 紅茶を飲んだアリスレイユが、薄紅の唇を湿らせる。


 そして彼女は何気ない口調で、予言を告げた。


「レイン家の三人が死ぬ」


「……え?」


「三人の死は、もう避けられない。ひとりはダヌ神の御許へ魂を還すでしょう。もうひとりは死に溺れ、死を超越するでしょう。そして最後のひとりは、あなた――ユウリス・レイン。決戦の地はオリバー大森林。そこで運命は決する」


「待って、アリスレイユ!」


「覚えておきなさい、ユウリス・レイン。ふたりが死ねば、残るひとりはあなた。他は誰も、そのときには命を落とさない。だからふたりが死んだら、迷わずオリバー大森林へ向かうのよ。あなたが間に合わなければ、ブリギットは永遠に呪われてしまう」


 不意に、ユウリスの視界が揺れた。


 ぐにゃりと、景色が歪む。


 アリスレイユの声が遠のく。


 世界の色彩が失われ、意識が闇に引き戻される感覚。


 駄目だ、と少年は抗った。いまの話を、もっと正確に問い質さなければならない。


 しかし少女の声が、酷薄に鼓膜を揺らす。


「あなたは闇祓いの力で守られているから、弱っているいましか伝えられなかった。でも、これは早すぎる予言。だから目覚めたら一度、忘れてもらうわ。次にわたしの言葉を思い出すのは、燃えるブリギットを目にしたとき。その日、すべてが終わる。再びはじめられるかどうかは、あなた次第。次は真ん中のスコーンを食べましょう。ジャムをたっぷりと塗って、お洋服を汚してかじりつくの」


「アリスレイユ、まだ聞きたいことが!」


「いつか最後のケーキに辿り着けるといいわね。さようなら、ユウリス・レイン」


「アリスレイユ!」


 叫んで、ユウリスは勢いよく天井に手を伸ばした。見慣れた部屋の、変わりない景色。カーテンの隙間から差す日差しは弱く、まだ夜は明けて間もないのかもしれない。汗でぐっしょりと濡れた肌着を握り締め、少年は寝台からゆっくりと身体を起こした。


「いま、なにか……?」


 とても重大な、なにかを忘れてしまった気がする。額の汗が目にしみたユウリスは、ぎゅっと瞼を閉じた。次に視界を取り戻す頃には、懊悩おうのうの種すらも消えてなくなっている。


 覚醒した彼に、壁際の椅子に腰掛けていたイライザが声をかけた。


「ずいぶんとうなされていたわね。夢見の薬も効果がないなんて、相当な重症よ。効果を強くしてもらおうにも、キルケニー先生が逮捕されたから作り手がいないのよね」


「イライザ……?」


「なによ、私がお見舞いに来ているのが不満なわけ?」


「前に目が覚めたとき、最初に見たのはオスロットだった。それに比べれば、だいぶマシ」


「それはご愁傷様。でも、あのへっぽこと比べられても嬉しくないわ。オスロット警部補は召喚状を届けに来たのね?」


「歩けるようになったら、警察署に来いってさ」


「安心しなさい。警察の取調べは形式的なもので終わるわ。ガラードって円卓の騎士が、教会を通じて熱心に働きかけてくれたおかげよ。あんた、人脈だけは広いわね」


 膝に頬杖をついた彼女は、いつもと変わらぬ調子で大人びた笑みを浮かべた。実年齢はひとつしか違わないはずの義姉だが、経験値は遠く及ばないように思える。恩師が逃亡犯の隠匿いんとくと魔女の罪で逮捕されたというのに、焦燥の欠片もみせない。それはイライザだから、と普段は気にしないところだが、ユウリスは少しだけ心配になった。


「イライザは平気?」


「忙しくしているわよ。あと、お父様に魔女だって明かしたらひっぱたかれた。お母様は倒れるし、エドガーとドロシーはなんでか知っていたみたいね。キルケニー先生のことなら、あんたが気にする必要はないわよ。正直、自業自得だわ。理由はどうあれ、殺人犯を庇っていたんだから」


「オスロットから聞かされたよ。俺が殺した相手――ビル・ロークは、キルケニーさんの息子だったんだね」


 ビル・ローク。ファルマン警部が話していた、逃走中の連続強姦殺人犯だ。魔女は実の息子が犯罪者だと知りながら、家の地下に匿っていた。グィネヴァ王女が鼠にされたのは、ビルが母親に助けを求める一部始終を目撃してしまったせいらしい。


 弟から視線を外したイライザは、小さく首肯した。


「キルケニー先生は魔女の誓約を結んでいたのよ。なにがあっても息子を守るなんて、馬鹿みたいな契りだわ。だから悪人だとしても、ビル・ロークを見捨てられなかった。魔女の誓約で得られる大きな力は、破れば魔力の大半を失う諸刃の剣だと気付いていたはずなのに」


「魔女でいられなくなるから、キルケニーさんはビル・ロークを庇ったの?」


「警察の取調べでは、そう証言しているわ。でも先生は誰かに気付いてほしくて、偽物の死体を流していたみたい。いつか警察が捜査に来れば、息子を庇い切れないとわかっていたんでしょうね。どっちが本音なのかはわからないけれど、住処に人除けの魔術をかけていなかったんだから、そういうことなんでしょう。あの人は魔女と母親――どちらも選べずに、どちらでもなくなった」


 イライザの声に感情の色はない。ユウリスは慰めの言葉を探すが、なにも浮かばずに口ごもった。


 そんな弟の姿を、姉はくすりと笑う。


「あんたに気を遣われるほど、私は落ちこんでないわよ」


「でもキルケニーさんは、これからどうなるの?」


「ウィッカが裏から手をまわしているわ。魔女の掟に従い、裁定は司法ではなく私たち盟主がくだす。そもそもビル・ロークを取り逃がしたのは警察の不手際だしね。逃亡中に実害も出ていないから、難しい交渉にはならないわ。王女をねずみに変えた件も、いろいろと有耶無耶うやむやになりそう。詳しくはウルカにでも聞きなさい。先生の件は私がどうにかする。だから大丈夫よ」


 話はおしまい、と告げてイライザは椅子から腰を上げた。寝台に近づくと、彼女は弟の髪を乱暴に掻きまわした。腰に手をあてたレイン家の長姉が、ずいっとユウリスに顔を寄せる。


「夢見の秘薬は飲み続けなさい。先生の霊薬は効果抜群よ。それでも悪夢を見てしまうのは、あんたの心がどうしようもなく傷ついている証拠。私、そろそろ行くわね。ウィッカも慌ただしいし、しばらくは戻れないと思うわ。なにかあれば、カーミラといっしょに魔女横丁へ来なさい。あと、ヘイゼルを頼むわね」


「うん、そろそろ元気な姿を見せてあげないとね」


「馬鹿。心配をかけるのはいいの。むしろ、世話を焼かせてあげなさいってこと。あんたってほんと女心がわからない奴ね。私の弟なのに、どうしてこんな朴念仁なのかしら」


 最後はいつも通りの調子で悪態あくたいを吐いて、イライザは転位の魔術で瞬く間に姿を消した。


「ありがとう、イライザ」


 慌しい義姉あねの見舞いは、ユウリスに僅かながら活力を取り戻させた。二日も寝ていたので、背中が痛い。少し歩いてみようと、少年はブーツを履いて寝台を降りた。少しだけ身体がふらつく。


 部屋を出るが、人の気配はない。


 まだ誰も起きてはいないようで、冬の冷たい廊下には埃ひとつ舞っていなかった。


「お腹、空いたな」


 魔女の沼地から帰還して、すでに二日が過ぎていた。


 戻ってからほとんど寝たきりだったユウリスは、まともに栄養をとっていない。用意された料理を口にしては吐き、ずっと熱にうなされていた。


「人を殺しても、空腹にはなるのか」


 ユウリスは人を殺めた。


 その顛末は混乱して意識を失った挙句、気付けばレイン家に運び込まれていたというのは間抜けなものだ。義妹いもうとのヘイゼルが何度か見舞いに来てくれたのを覚えている。うろ覚えだが、イライザからはカーミラの無事も聞かされた。


「ウルカは、どうしたんだろう?」


 ほとんど寝て過ごしていたせいもあり、姿を見ていない。


 なんとはなしに一階へ下りると、義母ははのグレースと鉢合わせた。早朝にも関わらず、きちっとした身なりで広間のソファに腰かけている。


 編み物の手を止めた彼女は、じっとユウリスを見据えた。


「食事は?」


 一瞬、問われた意味がわからずにユウリスは固まった。まさか身体の心配をされているのだろうかと、折り合いの悪い義母の心中を邪推じゃすいする。そんな空気を察しても、グレースは視線を外さない。


 じっと答えを待つ姿勢に、ユウリスは折れた。


「果物があれば、食べたい」


「そう。なら座りなさい」


 感情の色もなく短く応えて、グレースは立ち上がった。彼女が通路に姿を消すと、入れ替わるように白狼はくろうが姿を見せる。


 相変わらず音もなく、白い毛並みの魔獣は軽い身のこなしでユウリスに身を寄せた。


「クラウ。ごめんね、心配かけて」


 屈みこんだユウリスは、白狼の首に手をまわした。二日も湯を浴びていないばかりか、沼地帰りだ。少し臭うかもしれないと心配になるが、鼻が利くはずの相棒は気にせずにじゃれてくる。たわむれて抱き合い、いっしょにソファへ身を沈めた。


 …………、……。


 同行しなかったことを悔やむような白狼の気配を感じて、ユウリスは首を左右に振った。相棒に腕をまわして、白い毛並みに顔をうずめる。そばにいてくれるだけでいい。このぬくもりだけで、救われる。


「ありがとう、クラウ」


 やがて戻ったグレースは、白狼の姿を見て嫌そうに顔をしかめた。公爵夫人は未だに、魔獣が邸内をうろついている状況を認めていない。しかし悪態をつくことはなく、彼女は切り分けた果物が乗った皿を卓に置いた。


「食べ終えたら、湯を浴びて汗を流しなさい。ジェシカがお風呂の準備をしているわ」


「ありがとう。ジェシカ・バーグも起きているんだね。その、義母上もこんなに早くどうして?」


「ただの手慰てなぐさみよ。お前には関係ないでしょう」


 放置していた編み物を拾い上げたグレースは、さっと背を向けた。青い毛糸はマフラーかストールのようだ。アルフレドに渡すのだろうな、とユウリスはなんとなく予想した。それが仲直りのきっかけになればいいと心底思う。こんな気分で、さらに家の空気まで悪いのは控えめにいっても最悪だ。


「ユウリス」


「はい、義母上」


「よく休みなさい。なにかあれば、ジェシカに言いつけるといいわ」


 そう言い残して、グレースは立ち去った。


 ユウリスと白狼は、ふたりで用意された果物をゆっくりと噛み締めた。不思議と、今度は胃が拒絶しない。食べ終わる頃を見計らうように侍女のジェシカが現れて、浴室まで付き添ってくれた。


「ユウリス様、なにかあれば私にお申し付けください。奥様からも、そのようにせよと仰せつかっております」


「さっき本人から聞いたけど、ほんとに義母上が言ったの?」


「ええ、そうですよ。さあ、ゆっくりとお湯につかってください。私はここで待機しておりますので、なにかあればお声がけを」


「え、いや、それはいいよ。逆に落ち着かないから、ひとりにさせてほしい。ああ、じゃあ、かわりにクラウを散歩に連れていってよ。俺が寝ているあいだ、たぶん屋敷から出ていないと思うんだ」


 ジェシカは少しだけ逡巡しゅんじゅんしたが、最後には頷いた。


「お任せください、ユウリス様」


「よろしく、ジェシカ」


 侍女と白狼に別れを告げたユウリスは、久方ぶりの湯を浴びた。血の臭いはすでに消えているが、何度も執拗しつように手を洗ってしまう。どれだけ身体を清めて湯船に身を沈めても、綺麗になった気はしなかった。


「…………くそ」


 真新しい黒の肌着に着替えたユウリスは、少しだけ外に出てみようかと玄関に足を運んだ。


「外の空気を吸えば――」


 少しは気分も変わるかもしれないと思ったが、扉の前に辿り着くと、急に胸が締めつけられた。その場にうずくまって、自分の身体を抱きしめる。


 温まったばかりのはずなのに、指の震えが止まらない。


 血が凍るような寒さを感じた刹那、視界が真っ赤に染まった――眼前に、死んだはずのビル・ロークがいる。胸には無数の刺し傷と、見慣れた短剣。彼が大きく口を開けて、倒れ掛かってくる!


「ユウリス!」


 幻覚が、カーミラの声に掻き消された。レイン家の扉が大きく開け放たれて、赤毛の少女がユウリスに飛びつく。きつく抱きしめられて、息が苦しい。


「カーミラ⁉︎ どうしたの、こんな朝早くに?」


「ユウリス様、ご説明は私がいたします」


 ユウリスの疑問に答えたのは、玄関先に佇むジェシカだった。散歩に出たはずだが、侍女の傍らで白狼も心配そうに目尻を下げている。


「白狼様と丘のふもとまで降りたところ、カーミラ様がじっと立っていらしたので声をおかけしました。ユウリス様のお見舞いに来られたそうです。ただ家人の支度が整うまで待つおつもりだったらしく、それでしたら私が玄関を開けてさしあげようと戻ってきた次第で」


 その続きを、ユウリスの首元に顔を埋めたカーミラが引き継いだ。


「そうしたら扉の向こうから、ユウリスの苦しそうな声が聞こえたの。ジェシカに鍵を開けてもらって、わたし……わたし!」


「俺、悲鳴でも上げてた?」


 まったく気付かなかった、とユウリスは努めて明るい表情で首を傾げた。相棒の魔獣にも同じように、大丈夫、と声をかける。


 ジェシカには、そのまま散歩に戻ってほしいと頼んだ。


「冬の天気は崩れやすいし、雨になったら散歩にいけないから。クラウも、少し歩いておいで。帰ってきたら、いっしょに過ごそう。大丈夫、どこにもいかないから。ジェシカ、いいかな?」


「かしこまりました。では張り切って、西区まで歩きましょう。ちょうど焼きたてのパンが並ぶ時間帯です。もちろんカーミラ様の分もご用意いたします。ああ、でも果物もいりますね。東地区の市場も見てまいります!」


「いや、そんなに回ったら鐘が二つも鳴ってしまうよ」


「いい運動になりますから、お気になさらないでください。さあ、白狼様。参りましょう。お好きな果物を選んであげますからね」


 赤毛の少女を一瞥した白狼は、白い息を吐いて踵を返した。


 ジェシカと魔獣が立ち去るのを見届けたカーミラが、先に膝をのばす。ユウリスの腕を引いて助け起こしながら、彼女がぺろっと舌を覗かせた。


「ごめんなさい、わたしがジェシカとクラウに頼んだの。少しふたりだけで話をさせてほしいって」


「ああ、そうなんだ。ほんと、ジェシカには世話になりっぱなしだ。この屋敷で、いつも俺によくしてくれている。なにかお礼ができるといいんだけれど。」


「春の感謝祭で、いっしょに贈り物を見繕みつくろいましょう。今年の市場にも、きっと珍しいものが並ぶわ」


 それは楽しい会話のはずなのに、ユウリスの心は少しも晴れやかにならない。こんな態度は彼女を心配させるだけだとわかっていても、心がいうことをきかなかった。階段を一つ上がるのにも苦労するが、カーミラが根気よく支えてくれる。


「ゆっくりで大丈夫よ。足を滑らせて、転ばないようにね」


「ごめん、せっかく来てくれたのに……こんな情けない姿、見られたくなかった」


「わたしは嬉しいわ。他の誰でもなく、あなたが辛いときに助けるのは自分の役目だと思っていたから」


 それが人を殺した男でも――喉まで出かかった問いかけを、ユウリスは呑み込んだ。カーミラもなにかを察して、それ以上は言葉を発しない。


 部屋に戻ると、ウルカがいた。胸当てと剣を装備しており、寝起きに少し部屋を覗きにきたという雰囲気ではない。彼女は壁に背中を預けたまま、渋面で肩を竦めた。


「ようやくお目覚めかと思えば、朝から働きに出る師匠を労いもせずに恋人を優先か。この仕打ちは覚えたぞ、次の訓練は覚悟しておけ」

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