17 愛にすべてを

 転位の魔術は、離れた距離を一瞬で移動する奥義だ。しかし現実の空間を飛んでいるわけではなく、実際には妖精の道と呼ばれる異次元の隙間を通り抜けているにすぎない。入口と出口の場所を設定して、人間の身体にかかる負荷を抑えるのが魔術の役割だ。


 空間跳躍は一瞬だが、体感としては水の上を歩くような不安定で心許こころもとない経験を強いられる。


「――――っ!」


 いちばん魔術に耐性のないユウリスは、魔女の小屋の床を踏んで立ちくらみを起こした。視界もぶれており、すぐには室内の状況を把握できない。だからカーミラとイライザが同時に魔術を展開する動きに一瞬、出遅れた。


「カーミラ、イライザ、なにを⁉︎」


 二人の行動に目を見張ったユウリスは、すぐに事態を把握した。


 ランプの明かりが揺れる広間に、出立前にはなかった姿が増えている。魔女キルケニーを壁際に追い込み、喉元に剣を突きつける騎士――ユウリスに気付いた彼も、怪訝そうに眉をひそめる。


「ユウリス・レイン?」

「ガラード卿!」


 よく観察すれば、部屋の所々に戦闘の痕跡が見受けられる。玄関の扉は破壊され、荒ぶる雪が吹き込んでいた。床に散乱する割れたびんは、ひとつやふたつでない。


 鼠のグィネヴァ王女は、奥の部屋で身を潜めていた。変わり果てた姿でガラードに名乗り出る勇気はないらしい。


 イライザとカーミラは師を助けようと、魔術を放つ寸前だ。


 慌てたユウリスが、両者の間に割って入る。


「みんな、落ち着いて。彼は円卓の騎士ガラード。俺たちの敵じゃない。ガラード卿も、剣を引いて。グィネヴァ王女は無事だ。けれど、そのおばあさんを殺したら永遠に戻らないかもしれない」


 しかしユウリスが説得しても、状況は変わらない。


 特にガラードは、三人の魔術師に狙われる立場だ。イライザとカーミラも、師に剣を向けられたままでは臨戦態勢を解けない。


 額に脂汗を浮かべたキルケニーは、何度も杖を握り直している。


 ユウリスは再度、声を張り上げた。


「わかった。じゃあ、全員そのまま動かないで。絶対に、剣も魔術も禁止だ。まずは話し合おう。ガラード卿、どうしてここに?」


「警察と情報共有をして、捜索の手が及んでいない範囲を独自に調べていた。沼地を選んだのは偶然だ。だが私は運が良い。近くで馬車の残骸と人の死体を発見して、この小屋に辿り着いた。しかし呼びかけても返事がない。仕方なく戸を破って踏み入ったところ、地下から急に現れた魔女に攻撃を受けた。それで、この状況だ」


 侵入者に攻撃を仕掛けたキルケニーは、円卓の騎士であるガラードの返り討ちにあった――そういう状況らしい。地下と聞いてユウリスは、視線を部屋の隅に寄せた。


 家畜を飼育しているという階段の先に、外からの風が流れている。前回は空気の流れを感じなかったので、扉を開けっぱなしにしているのかもしれない。


「キルケニーさんは、どうしてガラード卿を攻撃したんです?」


「扉を壊して、勝手に入ってきたからさ。強盗を追っ払うのは、当然だろう!」


「私は何度も呼びかけた。それでも応じぬから、こじ開けたまで。だが魔女殿は地下に行かれていた様子。私の声が聞こえなかったというのなら、軽率だったと認めよう。しかし、ここにグィネヴァ王女がいるというのなら話はべつだ。まさか地下に監禁しているのか!?」


 キルケニーが目の色を変えて杖を握り締めると、ガラードも見逃さずに柄に力を込めた。当然、弟子である二人の魔女にも緊張が走る。


 そんな一触即発の流れを断ち切ったのは、意を決して部屋の奥から姿を見せたねずみの姫だ。


「ガラード!」


「鼠の怪物! ……いや、まさか、その声は!」


 先ほどユウリスから、グィネヴァ王女について言及されていなければ到底信じられなかったであろう――しかしガラードは、鼠が敬愛する姫であると本能で理解する。


 そしてキルケニーの喉元から切っ先をひいた円卓の騎士は、鼠の王女と熱い抱擁ほうようをかわした。


「まさか、ほんとうに、我が姫なのですか!?」


「ああ、ガラード、ガラード、ガラード。わたくしです、グィネヴァです。こんな姿で、信じてはもらえないかもしれないけれど、わたくしなのです!」


「はい、我が姫。どのようなお姿になろうと、魂の高潔さまでは変えられない。貴女を感じます、グィネヴァ王女。なにを疑うことがありましょうか!」


 熱烈に抱き合う二人に、三人の魔女も毒気を抜かれて矛を収めた。イライザが座り込んだキルケニーを助け起こし、カーミラがユウリスの傍らで目を瞬かせる。


「あの王女様、これからアクトルス王の妃になるんでしょう。ぜったい、あのガラードって人が好きな感じよね」


 やっぱりそうなのかな、と思いながらもユウリスは口を噤んだ。


 今回の婚姻には、大国同士の戦争を未然に防ぐという大きな意味がある。それでもグィネヴァ王女は仲間を殺すという暴挙に訴えてまで、逃亡を選択した。簡単には割り切れない問題だ。


 複雑そうな表情を見せる少年の手に、キルケニーは緑色の液体が揺れる瓶を握らせた。


「小僧、あの騎士と顔見知りみたいだね。この薬を渡してやりな。変身魔術の解呪薬さ。ただし、飲むだけじゃあ人間には戻れない。そのあと自分を真に愛する者からのキスを受ければ、効果を発揮するよ。ひゃひゃひゃひゃひゃ!」


 キルケニーの意地の悪い笑みに、カーミラとイライザが同時に肩を竦める。


 頬を引きつらせたユウリスは、性格悪いな、と呟きながらガラードに歩み寄った。


「ガラード卿、これを」


 ユウリスが差しだした小瓶を、騎士よりも早くグィネヴァ王女が奪い取る。栓を爪で弾き飛ばした鼠の姫は、その中身を躊躇ためらいなく一気に飲み干した。


「わたくしのガラード。永遠の騎士よ。魔女は言いました。この身を呪いから解き放つには、わたくしを真に愛する者の口付けが必要です。貴方に問いたい。ガラード、わたくしを愛していますか?」


「姫、それは!」


 そこでガラードがはじめて、グィネヴァから一歩退いた。


 これから大国の妃となる相手に、軽々しく接吻せっぷんなど許されるはずがない。しかし鼠となったグィネヴァ王女は真摯にガラードを見つめ続けた。瞳にたたえる色は、期待と不安が半々だ。


 そこに、キルケニーの声が割って入る。


「鼠の王女。人間に戻る前に確認だ。あたしとの約束、忘れていないだろうね?」


いやしい魔女め!」


 約束――それはキルケニーとグィネヴァの二人にだけ通じる符号のようで、他の面々は首を傾げた。明確な答えを得られなかった魔女が苛立ち、杖を振りかざそうとする。しかし師の挙動を、カーミラが制した。


「キルケニー先生、いまは止めましょう」


「なんだい、弟子が師匠に意見するってのかい!」


「お叱りなら、あとで受けます。でもここは、あの王女様にとって生涯を左右する場面なんじゃないかしら」


 切なそうに瞳を揺らすカーミラを横目に、イライザがユウリスの頭を叩いた。


「あんた、私の妹弟子に王女様みたいな目をさせちゃ駄目よ?」


「どういう意味だよ」


「大人の男になれってことよ」


 やがてガラードが動いた。剣を腰の鞘に納め、両手を姫の頬に添える。互いの瞼が落とされて、交わされるのは淡い口づけ。そして鼠の身体から緑の煙が立ち昇り、全員の視界を塞ぐ。


 色づいた空気は通常の気体とは性質が違うのか、地下へと流れていき、広間はすぐに晴れた。


 ひとりの女性が佇んでいる。よく手入れのされた、渦をまく金髪。大きな紅い瞳。厚ぼったい唇。ガラードは目を見開いて、彼女を抱きしめた。


「グィネヴァ王女!」


「ガラード、ああ、ガラード!」


 刹那、煙が逃げ込んだ地下から大きく咳き込む声が木霊する。野太い男の響きだ。多くの注意が階段に向くなかで、グィネヴァ王女とキルケニーの視線が交錯する。


 そして鼠にされていた姫は、鬱憤うっぷんを晴らすように唇を歪めた。


「ガラード、地下に犯罪者がいるわ。ディオメデス砦で見た人相書きの男よ。この魔女は、連続殺人犯を庇っているわ!」


 王女の言葉を肯定するように、地下から雄叫びと足音が響く。


 そうして姿を見せたのは、戸口よりも大柄な中年の男だ。みすぼらしい囚人服を着て、ひどい悪臭を放っている。口からよだれを垂らした彼は、意味不明な奇声を発して周囲を威嚇した。


 ガラードがグィネヴァを背に庇い、剣を引き抜く。


「悪党ならば成敗する!」


 武器を構えた円卓の騎士に、キルケニーが杖を向けた。


「――悲しみよ――

 ――Confession――

 ――     ――!」


 キルケニーが放つ雷撃を、ガラードの刃が一振りで斬り伏せた。円卓の騎士が漲らせる凄絶せいぜつな殺気に、イライザがとっさに防御の魔術を展開する。


 その脇を抜けて囚人服の男が小屋の出口に走りだした。だが行く手にはカーミラが佇んでいる。驚いて硬直している幼馴染に、ユウリスが反射的に身体をのばした。


「カーミラ!」


 カーミラを突き飛ばし、巨漢の正面に躍りでる――次の瞬間、野太い手に首を締め上げられた。えた口臭が鼻にかかり、思わず嗚咽おえつが漏れる。


 囚人服の男は、少年を人質にして外へ飛び出した。雪の荒ぶ闇に、いくつもの声が木霊する。


 ユウリスは叫んだ。


「あ、あ、ああああああああああああああああああ!」


 息が苦しい。


 首が折られる。痛い、熱い!


 そんな恐怖のなかで、がむしゃらに生を訴える。腰の短剣を引き抜き、ユウリスは無我夢中で突きだした。厚い肉の弾力を、刃が押し通す感触。何度も、何度も、何度も、腕を動かす。やがて、巨漢の手から力が抜けた――瞬間、男は喀血した。生臭い、どろっした赤黒い液体が、少年の頭から降り注ぐ。


「ユウリス、ユウリス――ユウリスっ!?」


 カーミラの声がする。


 しかしユウリスの視界は、目を見開いた見知らぬ中年男の相貌そうぼうしか映さない。目線を下げて、手元を見る。巨漢の胸に刻まれた、いくつもの深い刺し傷。それは紛れもなく、自分自身の握り締めている短剣が貫いた痕だった。


「…………あ、ああ」


 言葉にならない痛みが、胸を襲う。


 ユウリスの首に手をかけたまま、巨漢はうつ伏せに倒れた。不衛生な体臭と、むせ返るような血の臭い――その両方にむしばまれて、少年の意識は赤い闇に奪われた。

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