14 母の面影

 一昔前の北区ハーレイ通りは、ならず者が集まる危険な地域として恐れられていた。違法薬物や盗品が集い、指が十本揃う者は立ち入ることすら許されない――六王戦争の後、北区浄化の標榜ひょうぼうを掲げた行政は闇市を取り締まり、条例で盛り場の夜間営業は禁止するという強硬策に出たのが、それは成功したといって言いのだろう。


「なんて言っても、子供の頃には遊びに来たし、危ない目には遭わなかったんだけどな」


 ユウリスの目に、現在のハーレイ通りは長閑のどかな住宅街としか映らない。すれ違う老人の指が欠損していたのは、見ないふりをするしてもだ。


「植木、植木……どこの家も、はちくらいは飾っているみたいだけど、ああ、アレかな」


 通りの東側で、軒先の植物がひときわ目立つ平屋がある。木材が歪み、屋根は傾いて、ずいぶんと古い造りだ。呼び鈴はなく、窓はカーテンで閉ざされている。昨晩は北風のおかげで快適に過ごせたが、日中は相変わらず汗ばむ陽気だ。


「留守かな。それとも暑さに気付かないまま、寝ていたら……」


 鼻腔に蘇る、スコット・ラグ邸の腐臭。


 嫌な想像を振り払い、ユウリスは戸を叩いた。


「ユウリス・レインです。ウルカの代理で薬を届けに来たよ。マライア、居るなら開けて!」


 呼びかけてすぐ、室内で物音。


 良かった、生きている、そう安堵して待つが、扉が開く気配はない。辛抱強さは保てず、ユウリスの手は自然と戸板を押していた。金具と木材が同時にきしみ、開かれた先に薄暗い室内が垣間見かいまみえる。


「鍵、かかってない……あの、マライア、入るよ?」


 室内の闇へ数歩、踏み込んだ刹那――戸板の裏側から伸びる手が、ユウリスを襲った。


「な――ッ!?」


 ユウリスは耳を強く引かれ、ぐらっと視界が揺れるのを自覚した。平衡感覚が狂う。反射的に突き出した拳は空を切り、逆に手首を掴まれてしまう。ふわりと身体が浮き上がり、次の瞬間には顔面から床に叩きつけられていた。


「くそっ!」


 とっさいに手をかけた短剣の柄も、先端を足で踏まれて引き抜けない。ぎょっとして顔を上げるユウリスに、マライアはにんまりと唇の端をつり上げた。


「こんなことは言いたくありませんが、彼女はあなたを甘やかしているのでは?」


「こんなことは言いたくないけど、貴女はウルカにそっくりだ」


「ああ、なんて失礼な子供でしょう。とても傷つきました。ですが、これでお相子ですね」


 質素なブラウスとハイスカートに身を包んだマライアの顔色は、弾む声ほど良好ではない。唇はひび割れ、肌は乾いた土のように荒れている。それでも瞳は生気に満ち溢れ、闇祓いの少年を負かしたことを心底喜んでいた。


 彼女に手を引かれて立ち上がったユウリスは、憮然と腕を組んだ。


「それで、なんで俺は襲われたの?」


「強盗かと思いまして」


「いや、声かけたよね⁉」


 悲痛な訴えも、マライアを笑わせる効果しかない。


 ユウリスは大きく嘆息して、まずはウルカの現状を掻い摘んで説明した。薬を手渡し、ブルックウェル医師の助言も忘れずに伝える。ウルカの窮状きゅうじょうを心配する素振りはなく、彼女は久方ぶりの客人を喜んだ。


「彼女は心配ありません。降りかかる火の粉をオスロットの顔に押し当てるでしょう」


「やりそう。それよりマライア、具合、あんまり良くないの?」


「そうですね、戦闘訓練を受けている闇祓いを倒すにも、不意打ちがやっとなくらいです。あら失礼、お客様を立たせたままで。お薬をありがとうございます、ユウリス・レイン」


 マライアは口許に手を添え、ほほほ、と上品な仕草でユウリスをからかった。


「さて、いつまでも暗いままでは目に悪いですね」


 彼女がカーテンが開くと、室内の闇が晴れた。


 家具はベッドと衣装箪笥いしょうたんす、食糧棚、円卓と椅子が二つ。そして外とは比較にならないほど、様々な植物が床や壁に飾られている。


「これ、見たことのない花とか葉が多いんだけど、もしかして外国の?」


「ああ、ユウリス・レイン。暑くて目がかすんでいるのですね、可哀相に。外国の植物なんて持ち込めるはずがありません。教会の動植物法には、輸入規制があるのをご存じない?」


「いや、知ってるから確認を……うわ、待って、嘘でしょう、これ全部、違法な植物なの⁉」


「落ち着いて。いま美味しい紅茶を淹れますからね。飲めば仲間です」


「それどういう意味⁉」


 マライアは応えず、台所で湯を沸かしはじめた。木の枝を重ねて、マッチで火を起こす。ブリギットでは固形燃料が一般的で、煙突に吸い込まれる黒煙すらユウリスには珍しい。植物の出所も気になるが、古風な火付けにも興味を惹かれた。


「いまは薪のほうが、固形燃料より高いんじゃない?」


「バルトロエル記念公園には、たくさん木が生えていますからね。枝は無料です」


「マライア、あそこは西区だよ。ここは北区だけど?」


「私はボケ老人じゃありません。ハーレイ通りは西寄りですから、歩いても一時間くらいですよ。ユウリス・レイン、朝の散歩をなさい。健康的で、気持ち良いですよ。ウールディルカ様も、日課にされているでしょう」


「え、なに、ウールディルカ様――って、まさかそれ、ウルカのこと?」


「あら、つい口が滑りました。彼女が高貴な生まれで、私が乳母うばだった秘密は誰にも明かさない約束でした。ああ、なんということでしょう!」


「あの、マライア。いろいろと頭の整理が追いつかない」


「いけませんよ、ユウリス・レイン。乙女の秘密を詮索するのは、紳士的ではありません」


 マライアは口元に手を添えるが、指から覗く表情は悪戯っぽさを隠しきれていない。ウルカの素性には当然、ユウリスも好奇心がそそられた。それでも無理に追求が躊躇ためらわれるのは、病院でトゥレドの悲劇を聞いたせいだ。


「続きが気になりますか? ですが残念無念です。私の口は水門のように堅いと評判で!」


「運河は船の往来が多いから、水門なんていつも開きっぱなしだよ。マライア、すっごく話したそう」


「では、秘密のお茶会を開くとしましょう」


 彼女は湯を沸かす網に、手のひらほどの平らな生地を並べはじめた。すぐに室内へ充満しはじめ、甘い香りに刺激されたユウリスの腹が空腹に喘ぐ。


「いい匂い……」


「まだまだ、これからですよ」


 続いて床下から登場したのは、一抱えほどのかめだった。その中身は、茶色の調味料で満たされる。


「これをこうして、ベタベタと塗ってしまいます」


 調味料を生地に塗ると、甘い香りに食欲をそそる塩気が加わる。興味津々のユウリスは、ふと自分の汗が乾いていることに気がついて目を瞬かせた。


 普通は夏場に火を焚くと、汗が目に沁みて仕方がない。


「この部屋、あんまり暑くない?」


「ネスミ草の恩恵ですよ。熱を溜め込んで成長するかわりに、冷気を吐き出す植物です。ただ蔦の伸びが早いので、半日も放置すると大惨事なのが玉に瑕ですね」


 彼女が示したのは、壁の台に置かれた鉢だ。産毛のような白いもやに覆われた緑の蔦が、呼吸するように揺れている。近づくと、確かに冷えた空気を発していた。


 茶と焼き菓子をテーブルに配膳したマライアが、どうぞ、と少年を呼び戻す。


「私の故郷、トゥレドの植物です。管理局に見つかると逮捕されるのが悩ましいですね。さあ、お茶をどうぞ、ユウリス・レイン。薬を飲む前に、食事をしなくてはいけません。あなたもお付き合いください」


「じゃあ、遠慮なくいただきます。もしかして、このお菓子もトゥレドの?」


「ええ、そうです。あの方も子供の頃から大好物でした」


 あの方――彼女がウールディルカと呼ぶ、ウルカ。過去を詮索するのは気が引ける半面、やはり興味がないといえば嘘になる。


 ユウリスの葛藤を楽しげに見透かしながら、マライアは焼き菓子を薦めた。


「マァラムを召し上がれ。生地にはギルムの実とレリンの果肉を練りこんでいますから、すっきりと甘いはずです。タレはしょっぱいので、あなたみたいな男の子向けですね」


「ウルカの好みは?」


「彼女は無地しか知りません。このタレは、私のたゆまぬ研究で考案された新作です。ミアハの伝統調味料を使用していますから、他にはない味ですよ。あなたの反応を見てから、あの方にご馳走するかどうかを決めましょう」


「それは責任重大。トゥレドにミアハか……知らない世界を食べ物で感じるなんて、ちょっと不思議かも。じゃあ、せっかくだからタレのほうから。いただきます!」


 手掴みで口に運ぶと、大きなビスケットのような見た目とは裏腹に、触感はパンに近い。舌の上で溶けるようなふんわりとした柔らかさに、主張の強いタレがねっとりと絡み合っている。味わって食べようと思っていたはずが、一枚目のマァラムは見送る間もなく胃へ旅立った。


「んん、んんんんんんん!?」


 これまで食べたことのない極上の茶菓子だ。


 ユウリスは目を白黒させながら、思わず指に残るタレを舐めてしまった。行儀が悪いと咎められるかと思いきや、マライアも同じ仕草をしている。


「これ、すっごく美味しい!」


「それは良かった。私には少し味が濃過ぎるのですが、やはり若い方にはこれくらいがちょうどいいようですね。ありがとうございます、これで自信をもって勧められそうです」


「無地のほうも、ほんのり甘くて病みつきになる。どっちもふわふわしてるから、つい食べ過ぎちゃいそう」


「ええ、ですから運動が大事です。日が昇る頃に目覚め、朝焼けを浴びながら身体を動かすと、一日を健やかに過ごせます。それでユウリス・レイン。大事なことですが、彼女は朝の散歩をしていないのですか?」


「ええと、ここで答えると告げ口みたいにならないかな」


「そんな心配はいりません。こうして同じ卓を運んで、私の手料理を食べている時点で共犯者です。仮に私がカマをかけて真実が明るみになったとしても、彼女はあなたの密告を疑うでしょうね」


「あ、ひどい――って、なんかこういうやりとりも、なんだかウルカとしているみたい」


「そう言いますが、私と彼女はだいぶ違いますよ。例えば私は料理の天才ですが、彼女は食い意地が張っている割に腕を磨こうはとしません。弟子のあなたはどうでしょうか?」


「え、料理ができるかってこと?」


 料理ができるかということです、とマライアの言葉が重なる。


 ユウリスは正直に不得手だと伝えたが、興味はあるとも付け加えた。遠くない末来、ブリギットから旅立つと決めている。自炊の経験もないようでは、先の苦労が目に浮かぶようだ。


「ではよければ、マァラムの作り方を伝授しましょう。少しコツはいりますが、覚えれば簡単ですよ。さあ、いらっしゃい、ユウリス・レイン。上手に覚えることができたら、秘伝のタレの調合法も授けて差し上げます」


 マライアの勢いに押されたユウリスは、気がつくと台所に立たされていた。水道は引かれておらず、大甕おおがめから水をすくい、手を清める。


「柄杓なんて久々に見たな」


「あら、いけない、悪戯用に作った穴の開いた柄杓を渡すんでした」


「マライアってさあ……はあ、ほんとうに料理なんか覚えられるかな」


 緊張するユウリスの頬を、マライアの指が悪戯に突いた。


「大丈夫です。ウールディルカ様のように大雑把でなければ、美味しくできますよ」


 ユウリスは曖昧に頷いたが、気が張る理由は他にもある。


 幼馴染のカーミラから聞かされた、とある話を思い出していた。富豪である彼女の家には料理人も雇われているが、それでも母と台所に立ち、家の味を学ぶ機会があるという。


 マライアの柔らかな雰囲気に、ユウリスは不覚にも母親を重ねていた。

 それは母の不在を嘆く幼子のようで、気恥ずかしい。


「ユウリス・レイン、やはり気が進みませんか?」


「あ、大丈夫、教えて、マライア。俺がマァラムを作れたら、ウルカもびっくりするね」


「ええ、そうでしょうとも。では早速、生地作りからはじめましょう」


 気を取り直して、二人は調理の準備に取りかかった。材料は小麦、糖粉、ミルク、卵、そして大陸北部の伝統的な根菜ヤームだ。


 混ぜる順番を教わりながら、ユウリスは要領よく手順をこなしはじめた。


「空気を入れながら混ぜるって、難しい」


「剣で斬るようにするのです。そう、上手ですよ、ユウリス・レイン。いつだったかこんな教え方をしたとき、あの方は本当にひどい有様で……」


「ウルカにもマァラムの作り方を教えたの?」


「ええ、ですが残念ながら一度も成功したことがありません。私は子宝に恵まれず、彼女の母君は台所に立つ方ではありませんでした。奥様に代わり、我が家のマァラムを伝授しようとウールディルカ様を指南しましたが、上手くはいかないものですね」


 マライアの細いため息を、ユウリスは聞き逃さなかった。ほんとうはいまからでも、マァラムの作り方をウルカに継がせたいのでないだろうか。そんなユウリスの無夢想を、マライアは非常に突き放した。


「ですが、ウールディルカ様に期待するのはもうすっぱりと諦めました。あの方は分量を守らない、珍妙な工夫を凝らす、辛抱が足りない、味見ばかりする、そもそも料理に向いていないのです。遠い異邦の地で、真の後継者と縁を結んで下さいました神に心から感謝します。母なる大地に口づけを」


 憤りを沈めるように、マライアは両手の指を複雑に絡めて唱えた。聞き慣れない聖言は、トゥレドの土地神に捧げる祈りなのだろう。彼女はそのままユウリスの手を取り、軽やかに踊りはじめた。


「え、え、なに?」


 舞踏ぶとうの経験がないユウリスは、されるがまま振りまわされてしまう。


「ちょっとマライア、危ない、卓にぶつかるから!」


「安心なさい、ユウリス・レイン。転んでも足を踏んでも、笑う者はいませんよ」


 マライアの先導は慣れたもので、ユウリスは基本の足運びをすぐに会得した。だが彼女が舞台女優のように歌いだすのは、さすがに真似できない。


「老い先短~い私の心のこ~り、それ~は我が家のマァラムを~、次の世代に引き継げな~いこと~だけ~――ほら、ユウリス・レイン、歌って!」


「え、えええ!? ああ、ええと、そ、それは、ど~すればいいの~?」


「よくぞ聞~てくれま~した~、あなた~が私~の後継者~、美味しいマァラムをつくりましょう。あと~は一晩、寝かせ~るの~」


 そういうわけで出来上がった生地は一晩、寝かせる必要がある。


「今日は食べられないなんて、ちょっと残念だな」


「明日の楽しみができたと思いましょう。代わりに、昨日作っておいた分があります」


 ユウリスが作った生地は布に包まれて床下に収められ、代わりに取り出されたのは、昨晩から寝かされていた別の生地だ。さきほどの奇怪な即興舞台は幻だったのだろうか。


 何事もなく調理を再開するマライアを、ユウリスは恐ろしげに眺めた。


「まあ、ユウリス・レイン、なんて顔でしょう!」


「きっと言葉にならない感情がつい顔に出ているんだと思う」


「その言い方、ウールディルカ様みたいですよ」


「え、それはひどい!」


 憮然とするユウリスに、マライアが肩を揺らして身体を丸めた。二人して楽しげな声を響かせるばかりで、なかなか生地に手が伸びない。


「ウルカをダシに笑える日がくるなんて思わなかった」


 ユウリスは滲んだ涙を拭おうとするが、手は粉だらけだ。そんな少年の指にこびりついた粉を、マライアは湿らせた布で優しく拭った。


「ヤームは目に沁みますから、粉のついた手で擦ってはいけませんよ」


 そう優しく諭す老婆の声が、ユウリスの胸に心地よくしみわたる。


「ありがとう、マライア」


「礼は私こそ伝えなければ。トゥレドでウールディルカ様と過ごした日々を思い出します。あの方は昔から悪戯好きで、あなたのように素直で可愛らしくはなかった。今日、長年の苦労が報われた気分です」


「おおげさ――って言いたいけど、マライアも悪戯をされたの?」


「ええ、それはもう!」


 ウルカの破天荒な子供時代に苦笑しながら、ユウリスは生地の形を整え、丸く伸ばしていく。


「こうかな?」


「いいえ、もう少しなめらかな表面になるように」


 上手く円を作れない少年の指先に、マライアが優しく手を重ねる。背中から漂うヴェルヴェーヌの香りに、ユウリスの胸は安らぎを覚えていた。


 いつの間にか、彼女の匂いが好きになっている。


「マライアの故郷はきっと、花の香りでいっぱいだったんだろうな」


「ええ、緑が豊かでしたよ。ただ旅行には不向きですね、とても排他的な国でした。ユウリス・レイン、あなたは魔獣を友にしていますね。いまや白狼様は、ブリギットの人気者です。そんなあなたに、私たちの国は軽蔑されるかもしれません」


 彼女の声に懐かしむ色はなく、望郷の想いは懺悔のようだ。


 ユウリスはトゥレドの興亡について学んだことを明かし、気にしていないと首を左右に振った。飼い慣らした怪物の反逆で滅びた国――自業自得だと思う反面、悲劇で傷ついた人々を責めることもできない。


「ウルカが怪物を憎むのは、故郷を滅ぼされたからなんだね」


「労働力として酷使した怪物を非難するのは、逆恨みでしかありません。彼女も理解はしているはずです。ただ他に、怒りのやり場がないのも事実です。ウールディルカ様が名を変えた経緯は存じ上げませんが、怪物を憎んで≪ゲイザー≫となったのであれば――」


「……あれば?」


「上手く、言葉にできません。心配で、不安で、叱りたくなります。戦渦でウールディルカ様とはぐれ、もう生きて会うことはないと諦めていました。それがようやく再会できたかと思えば、女だてらに闇祓いです。主に感謝と恨み、どちらを伝えればいいのか」


 マァラムの生地がぐにゃりと歪む。力を与えているのは、ユウリスの手に添えられたマライアの指だ。胸の内から込みあげる悲しみを、彼女は堪え切れずに吐き出した。


「怪物の咆哮が、いまも耳にこびりついています。トゥレドの民に牙を剥いた、あのおぞましい光景も忘れることができません。私の友人も、夫も、妹も、弟も、姪も、奥様も旦那様も、血の贖いによって命を散らしました。このうえ、ウールディルカ様まで失ったら!」


「ウルカは、強い。大丈夫、どんな怪物だって彼女には敵わない」


 マライアの指にはしわと共に、いくつもの古い傷や火傷痕が刻まれている。ユウリスには想像もできない経験だ。かける言葉が見つからない。


 歯痒はがゆさを噛み締める少年の髪に、老婆はそっと鼻先を寄せた。


「すみません、驚かせてしまいましね。歳を重ねると、感傷的になっていけません」


「話して楽になるなら、いつだって聞くよ。その代わり、俺のことも助けてほしい」


「おや、枯れ木のような老婆になにができましょうか」


「ウルカと喧嘩したら、ここに逃げてきてもいい?」


 忌み子のユウリスには、レインの屋敷以外に行く宛がない。師と諍いを起こしても、家のなかでは顔を合わせるたびに嫌味を言われる。駆け込める隠れ家が欲しかった。


「ええ、それはもちろん、大歓迎です。では慰めてくれたお礼と同盟の記念に、ひとつ秘密を教えましょう。ウールディルカ様のご両親は、トゥレドの盟主でした。あなたの師匠は姫君だったのですよ」


 ユウリスは一瞬固まり、純白のドレスに身を包むウルカを想像した。剣とベルトは妄想からも外せず、ひどく無骨ぶこつな姫君が誕生する。


「いや……いくらなんでも」


 苦虫を潰したような顔で、ユウリスは改めて確認した。


「ウルカがお姫様って、本当に?」


「ええ、お姫様です。ユウリス・レイン、名状しがたい、ひどい顔をしていますよ」


「いや、驚き過ぎて。なんか、動きやすさ重視でドレスを破いて、ティアラを武器にしそう」


「嘆かわしいですが、否定できないのが辛いところです」


 マライアはふっと息を吐いて、表情を和らげた。それでも故郷の記憶は、身体にさわるようだ。彼女の指先は震え、呼吸は乱れている。顔色は、先程よりも青白い。


「マライア、少し休んだほうがいい」


 いいえ、と首を横に振り、彼女は目を細めた。


「マァラムを伝授する機会を棒に振る気はありませんよ。さあ、続きを!」


 張り切る姿が、かえって痛々しい。


 ユウリスは心配そうに眉尻を下げるが、ウルカに似て彼女も頑固者だ。断裂しかけた生地を整え、再び綺麗な円を形作れるように導く。出来上がったマァラムを皿に並べたところで、マライアは不意に動きを止めた。


「マライア?」


「私としたことが、果肉を練りこむのを忘れていました。ああ、でも生憎とギルムは切らしています。レリンを多めにいれましょう。少しお待ちなさい、すぐに取ってきます」


「このまま焼いても美味しそうだけどな」


 生地に鼻を近づけると、ほんのりとミルクの香りが漂う。その直後、マライアが足を向けた戸棚から、びんの割れる音が響いた。


「――え?」


 振り返るユウリスの目に、床に倒れ伏したマライアの姿が映る。割れた瓶の破片はへんと散乱したレリンに埋もれて、床に横たわる老婆。彼女に、動く気配はない。


「マライア!」


 ユウリスは駆け寄り、身体を揺すって呼びかけた。


 細い吐息は返るが、まぶたを開く気配はない。


「嘘だろ、いままで普通に話していたのに――くそっ!」


 急いで薬を口に含ませ、柄杓の水で流し込む。幸い、飲み込む力は健在だ。しかしマライアの意識は混濁こんだくとして、唇は青白く変色している。


 ユウリスは選択を強いられ、思考を巡らせた。

 焦る気持ちを抑え、自分に何ができるかを必至に模索する。


「医者に、てもらわないと……」


 下手に動かせば、病状が悪化する危険性もある。医者を呼びに行くべきだろうか。いや、往路おうろの時間が命取りになりかねない。命の危機が、目の前で刻一刻と迫る。


 けっきょくユウリスは、医者に連れて行く決断を下した。


 マライアを両腕で抱き上げ、家を飛びだす。


「誰か、馬車を――!」


 脇目も振らずに叫び、大通りを目指して駆けた。


 ほどなく大粒の雫が頬を打ち、暗い空から荒い飛沫が降りはじめる。行きずりの馬車を引き留めてくれたのは、騒ぎを聞きつけた近所の住人だ。ドナ仮設病院に向かう車中、ユウリスは老婆の手を強く握り続けた。


「お願いだ、目を開けて。マァラムの焼き方、まだ最後まで教わってない。ウルカのことも、二人でからかわないと。ダヌ神でも、トゥレドの神でもいい、マライアを助けて」


 強い雨が窓を打ち、懇願こんがんを掻き消すように稲光が鳴り響く。


 ただ彼女の快復を祈り、心を揺らすユウリスは気づくことができない――ドナ仮設病院は、凍れる世界の産声を間近に控えていた。


 死を冒涜する腐臭ふしゅうのなかで、唄が聞こえる。


 生きてる人形、生き人形

 あなたは人形、私の人形。

 血肉を削いでくりゃしゃんせ。

 目玉をき髪抜いて、ぜーんぶ、ぜーんぶよこ越しゃんせ。

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