12 時の満ちるまで

「かはっ!」


 乾いたせきが漏れて、腹部から大量の血液が零れ落ちる。赤黒い内臓の血。呼吸ができない。身体が、熱い。焼けるような痛み。目が抉られたように視界が揺れる。気持ち悪い、頭が真っ白だ。


 少年の体を貫いた閃光は、開け放たれた扉の向こうへと筋を伸ばし、窓硝子を割って赤い空へと抜けていく。ユウリスは短剣を落として、膝から崩れ落ちた。身体からこぼれる血だまりへと両手をつくが、震える腕の力は徐々におとろえていく。


『レイン公爵。実に勇敢ゆうかんなご子息だ。心から賛辞を送りたい』


 ≪リッチ≫の腕が、ユウリスへと伸びた。銀色の金属に覆われた指が少年の髪を掴み、乱暴に顔を上向かせる。さきほどのまでの勇姿は見る影もなく、肌は血の気を失い、唇は青くなっていた。呼吸も細く、すでに闇祓いの光も消えている。


『だがこの小さな勇者は、残念ながらここで命を散らすことになる。本当にもう、すぐのことだ!』


「その子を放せといっても、貴様は素直には聞かぬのだろうな」


 キーリィによって自由を得たセオドア・レイン公爵が、手首に残る縄のあとを撫でながら立ち上がる。厳しい目つきで≪リッチ≫と対峙するセオドアのかたわらでは、同じように開放された市長が、青い顔で公爵と怪物を見比べていた。


 キーリィがユウリスの出血量に息を呑み、額に汗を浮かべてセオドアの腕を掴む。


「レイン公爵、どうか慈悲じひを。ユウリスは子供です。あなたを助けるために此処ここまでやってきた。ひどい出血です、このままでは取り返しがつかなくなる!」


「市長を連れて逃げるのだ、キーリィ・ガブリフ議員。奴の狙いは、元より私ひとり。ユウリスという取引材料を手に入れたいま、君や市長に用はないはずだ」


「貴方を置いて逃げることなどできません。日暮れと共に、警官隊と領邦軍が突入してきます。犯人の要求にどんな価値があるかは知りませんが、いまは従うべきだ。貴方の命と、なによりユウリスのために!」


「駄目だ、それにあの出血ではもう――」


 これまで公爵として振る舞ってきたセオドア・レインが、息子の危急に父としての憤りと嘆きを浮かべる。


 ≪リッチ≫は、たまらず嘲笑あざわらった。


『我は魔導の王≪リッチ≫。この傷、戻すことも叶わぬ夢ではない。だがそれも、生きていればのことだ。この少年に、もはや猶予はない。しかばねとしてよみがえった死霊しりょうを、息子として可愛がりたいか?』


いやせるというのか、その傷を……信じられんな、ならば今すぐにやってみせよ」


『愚かな要求だ、レイン公爵。貴方に選択権はない。息子の命を繋ぎとめたければ、ブリギットの剣と指環を差しだすのだ』


「此処にはない。だが、り処を伝えることはできる。ただし、指環については、その所在をユウリスしか知らない」


『……どういう意味だ?』


「私がそうとは伝えず、ブリギットの指環をユウリスに隠させたのだ。その子が死ねば、指環の在り処は永遠にわからなくなるぞ」


 鉄仮面の下で、赤い眼光が思慮深く細まる。


 息子の命惜しさに、この場しのぎの虚言を口にしているのか。それとも本当にユウリス・レインがブリギットの指環を隠したというのか。


「まずはユウリスを癒せ。貴様にそれが本当に出来るのなら、私はまず剣の在り処を教えよう。そしてここにいる全員の安全が担保されたとき、ユウリスから指環の隠し場所を聞きだして教えると約束する」


『それは呑めぬ。剣と指環の在り処をここではっきりとさせるのだ。その後でならば、危害を加えずに開放すると誓おうではないか』


「レイン公爵、ユウリスが!」


 キーリィがユウリスの限界を訴える。


 少年の心臓は鼓動が弱まり、血流は身体を巡っていない。血を失い、冷え切った肌の青白さは、まるで幽鬼ゆうきのようだ。


「わかった、その条件を呑もう。ユウリスを助けてくれ。ブリギットの剣と指環は、お前のものだ。ただし剣も指環も、その子の傷がえてからの話だ。私はまだ、その致命傷にほどこせるすべがあるとは信じられない。ユウリスが助かれば、この場で全てを明かそうではないか」


『よかろう。この傷の復元は確かに容易でない。なればこそ魔導王の秘儀によってしか叶わぬことよ』


 セオドア・レインは力なく項垂うなだれ、椅子に深く腰を落とした。


 ≪リッチ≫が満足げに嗤う。髪を手離されたユウリスは、仰向けに転がった。赤い血の海に沈む少年にかざされる、銀の手。再び三つの言語が唱和し、魔術が発動する。先ほどユウリスを撃ったときよりも、その詠唱は遥かに長い。宙に幾何学模様きかがくもようの魔方陣が、幾つも浮かんでは明滅を繰り返す。


 魔術に明るくない面々でも息を呑むほどの、大規模な秘術。


「レイン公爵、ブリギットの剣と指環――本当にユウリスがその在り処を?」


 椅子に腰掛けたまま項垂れる公爵に、キーリィが寄り添いながらそっと問いかけた。足元にじっと視線を落としたセオドアの眼光は、まだ絶望に沈んではいない。憤怒にぎらつく瞳は、若輩の議員が思わず身を引くほどだ。


「レイン公爵」


「妙だ――」


「なんと?」


「なぜあの怪物は、ユウリスが私の息子だと知っていた。忌み子のユウリス・レイン。なるほど、≪リッチ≫というのはちまたの噂話にも耳を傾けるのか」


「いまはそんなことよりも、剣と指環のことを話して、この場を切り抜けなくては」


「……ユウリスが来ているということは、ウルカ殿も同行しているはずだ。そして、もうすぐ日が暮れる。先ほど君が言ったのだ、キーリィ・ガブリフ。領邦軍が来るのであろう」


「まさか、ここから反撃を考えていらっしゃるのか。相手はあの化け物ですよ、ゴーレムもいるというのに!」


「誰であろうと、私はセオドア・レインだ。この身がくっするということは、ブリギットが化け物の足元にかしずくことに他ならない――そのような真似まね、例え我が身の肉が裂け、魂朽たましいくち果てようとも、承服しょうふくできるものではない。とはいえ、我が子の可愛さに無謀むぼうな賭けに出てしまった。始末はつけねばなるまいな」


 両手を握り、揺るぎない覚悟を宿したセオドア・レイン公爵の横顔に、キーリィは戦慄せんりつして息を呑んだ。瀕死ひんしのユウリスは、いまだ≪リッチ≫の足元で横たわったまま、微塵みじんも生還の気配を見せない。


「すべて話してしまえば、ご子息の無事が保障されるとしても、ですか?」


「ユウリスはレイン家の子だ。他の者がなんと言おうとも、ユウリス・レインなのだ。己の命惜しさにブリギットを売るようないやしい男ではない。此処へ来たことにも、あの子なりの覚悟があったはずだ。大切な息子だが、その誇りは親である私にも汚せはしない」


「でも貴方は彼を見殺しにしなかった」


矛盾むじゅんしているかな。だが、親とはそういうものだ。あの子には特別な想いがある。例えこの命と引き換えにしようとも――ああ、まったく、本当に父とは馬鹿なものだ。舌の根も乾かぬうちに、私はブリギットよりもあの子を選ぼうしている」


「レイン公爵……」


「すまない、いまの話は忘れてくれ」


 二人の密談にも気付かぬほど、≪リッチ≫の魔術は佳境かきょうを迎えていた。いくつもの魔方陣がユウリスの身体に吸い込まれ、呪文の唱和が激しさを増す。


 やがてユウリスの身体を中心にして、ひときわ大きな陣形が床に浮かび上がった。そして陣を描く線が赤々あかあかとした輝きを放つと、床に広がる血溜まりが少年の身体へと吸い込まれはじめる。


 まるで時間が巻き戻るように、傷が消えていく。


「――――っ、は!」


 ユウリスは息を吹き返した。


 セオドアが思わず椅子から立ち上がり、息子の無事に万感の思いを込めて息を吐く。市長は床に倒れていた議長を避難させており、老体を庇うように部屋の隅に佇んでいた。


 キーリィがユウリスの無事に確認し、そっと窓の外を見る。


「日が――」


 赤い太陽が地平の彼方へ消える。


 立ち上がろうとしたユウリスを、銀の甲冑に包まれた≪リッチ≫の足が踏みつけた。少年の顔面に指先を向け、今度こそ頭を吹き飛ばすとレイン公爵におどしをかける。


 そこで不意に外から、市庁舎を囲む群衆のどよめきが響き渡った。


 全員の視線が、一斉に窓の外へ向かう。一番近くにいた市長が覗き込むと、すぐに仰天ぎょうてんして尻餅しりもちをついた。


「ば、化け物がくるぞ!」


 市庁舎を囲むゴーレムが、警戒範囲へ踏み込んだ侵入者を相手に大立ち回りを演じていた。野次馬は歓声や悲鳴を上げ、あるいは驚嘆するのは、ゴーレムを翻弄ほんろうする白い毛並みの獣。


 土の巨人が繰りだす拳を悠々と避け、その体躯をよじ登り、ゴーレムからゴーレムへと飛び移っていく――その白い獣は煉瓦の壁に張りつき、勢いのまま市庁舎を垂直に走りはじめた。


 ――――!


 跳ぶように駆け上がりながら、白狼が声無き咆哮ほうこうを上げる。

 死の恐怖に縮こまっていたユウリスは、ハッと目を見開いた。


 痛かった、苦しかった、怖かった、そんな子供のような単語しか思い浮かばないほどの、言葉にならない絶望と恐怖。ユウリスをがんじがらめにする、死の影。


 その冷え切った魂を、白狼の音無き叫びが鼓舞した。心は共に在ったとでも言うように。寄り添いながらも猛々しい叱咤激励に、ユウリスの心臓が熱くたぎる。


「白狼――ありがとう。そうだよな、よくわからないけど、俺はまだ生きている。できることがあるんだ。それに、ひとりじゃない」


 階下からも、大きな衝突音。次いで建物全体を揺らすような、強い衝撃がはしった。屋内でゴーレムが暴れている。別の侵入者が怪物と対峙しているのだろう。それが何者なのか、確認のすべはなくとも、ユウリスには手に取るようにわかる。


「ウルカ――」


 呟いて、ユウリスは全身から力を抜いた。視界を閉ざし、心を精神の深淵しんえんへと溶かしていく。力の片鱗へんりんを見せようものなら、今度こそ≪リッチ≫は容赦なく頭を打ち抜いてくるだろう。


 だから、これは準備だ。

 その時が来たとき、必要な力を万全の形で発揮できるように。


『答えろ、レイン公爵! ブリギットの剣と指環は!』


「その前に教えてもらおう。あの剣と指環をなにに使うつもりだ、怪物に扱える代物ではないぞ!」


『時間稼ぎか。もうよい、救えたはずの息子が、頭蓋ずがいが砕かれる様を目に焼き付けるがいい。指環の在り処は、死霊に変えた骸から聞きだしてくれるわ!』


 いましがた復活させたばかりのユウリスを、再び殺害すると脅す≪リッチ≫に、しかしレイン公爵は不敵な笑みを浮かべた。そしてこの場にいる誰でもない、冷ややかで凛々しい声が、開かれた扉の向こうから朗々と響き渡る。


「残念だな、時はもう十分だ!」

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