04 聖女アメリアの伝説

「まずは話を聞かせてください。俺はなにをすれば?」


「では、こちらをご覧ください」


 ファルマン警部がテーブルに広げたのは、大きな羊皮紙ようひしだ。


 かなりの年代物で、煤汚すすよごれやインクのにじみはもちろん、素材自体もだいぶ劣化している。現代とは微妙に差異のある字体がつづられていることからも、古地図ふるちずであることは一目瞭然いちもくりょうぜんだ。


 それを覗き込んだユウリスが、自信なさげに眉をひそめる。


「これ、ブリギット中央区の地図かな。円の部分は、セント・アメリア広場。いや、でも、市庁舎のところは、なんだろう。古い文字だ、劇場、って書いてあるのか。えー、ら、り、ら?」


「エウラリア劇場よ」


 古い文字に苦心してユウリスに、長姉イライザの声が重なった。


 弟の無知を恥じいるように、母親譲りの涼しげな目元に険が宿る。すっと通った鼻筋、緩く波打つ金の髪と碧の瞳、二の句の告げられるほどに恵まれた容姿は、ブリギット社交界の花として持てはやされるほどだ。


 さらに来年、世界最高峰の学び舎であるヌアザ神立大学へ進学することも決まっており、才気煥発さいきかんぱつな令嬢であることを疑う声はない。


「ユウリス、あんたもう神学の入門講義は終えているでしょう。なにをしに学び舎へ足を運んでいるの。グレスミア朝時代の文字は、現代書体の基礎になっているのだから、教養として身につけておくべきことだわ」


「でも必修じゃない」


「お黙りなさい、私がそうしたほうがいいと言ったら、そうなのよ!」


 ぴしゃりと言い放つ彼女は自尊心が高く、また与えられる評価や期待にはことごとく応えてみせる器の持ち主だ。しかし家族――特に弟たちへは、傍若無人ぼうじゃくぶじんの限りを尽くす。


 態度は高飛車たかびしゃで、アルフレドの言葉を借りれば女王様気取り。


 ユウリスとアルフレドは、彼女の声を聞くだけで身をすくませてしまう。


「現代の読み方では、エーライリイエンラとなるでしょう。でもグレスミア朝の文字はここと、ここを発音しないの。文字の形が少し違うでしょう、よく見なさい!」


 舌打ちを交えながら身を乗り出した姉が、古典文字の講義をはじめた。ユウリスは嫌そうに眉をひそめ、助けを求めてウルカを見る。しかし彼女は素知らぬ顔で向かいのソファに腰を下ろし、侍女に紅茶の用意を頼む始末だ。


 そこに助け舟を出してくれたのは、意外にもファルマン警部だった。


「要はこれ、ブリギットの地図ということでございます」


「ちょっと警部、私が話している最中よ。ええ、まあ、その通り。これはざっと一五〇年前のブリギット中央区よ。市庁舎はこの頃、南街区にあったの。でもこのあとに起こった大洪水で、旧市庁舎は流されてしまうわ。被災後の都市再開発に伴い、老朽化していた劇場を改築して、いまの市庁舎が完成したってわけ」


 どうりで市庁舎のわりに、目を引く装飾や外観をしているわけだ。一度はそう得心したユウリスだが、すぐに首を傾げた。


 建物や道路図に重なり、街路の導線に依存しない筋が幾つもひかれている。まるで迷路のように入り組んだ線は、噴水の上や劇場を横断して突き抜けていた。


「この線……あ、わかった、これ水路だ。ていうことは、もしかして水路を通って市庁舎へ入り込もうっていうの?」


「ご名答でございます」


 ファルマン警部は肯定を、ユウリスは慎重に熟思じゅくしした。ゴーレムで市庁舎を占拠するような賊が、水路を見逃すだろうか。会議が深夜に及んだところを狙われたことにも、妙な違和感を覚える。


 自分がどこかに篭城ろうじょうするような計画を立てるのなら、穴がないかを入念に調べるだろう。


「悪い考えじゃないと思うけど、水路に見張りやゴーレムがいないって考えるのは……」


「もちろん既に水路には、犯人が放ったとおぼしき怪物の姿が複数確認されております。ご丁寧に、地下水路から進入を試みた場合、人質を殺すという声明も追加されました」


「だよね……あ、いや、そうですよね。あの、犯人の目星は?」


 ファルマン警部がちらりとウルカを見るが、黙って紅茶を飲んでいる彼女と視線が重なることはない。彼が言い淀んでいるうちに、イライザが、じれったいわね、と声を上げた。冷たい水を、と侍女に言いつけ、ついでのように答える。


「賊の素性はまったくわかっていないわ。ただ、ゴーレムを使役しているんだから魔術師なんでしょうね。犯人の要求は、ブリギットの剣と指環。それを寄越よこせば、人質は無事に解放するという話だけれど、どこまで信じられるか」


「剣と指環……ブリギットのって、つまり父上の?」


 セオドア・レイン公爵は、レイン家に代々伝わる剣を所有している。どこにあるのかと問われるなら、答えは目の前だ。


 暖炉の上に飾られたロングソード。つばや柄に宝石が散りばめられ、鞘の意匠には黄金が惜しみなく使用されている。レイン家の始祖から受け継がれているというから、美術品としても相当な値打ちがあるだろう。


 そして指環と聞いて思い浮かぶのは、義母の指にも嵌められた婚姻の証だ。どちらもレイン家にあるものだというユウリスの考えを、しかしイライザは即座に否定した。


「それがどうも、あの剣じゃないみたいなのよね。私、こんな馬鹿げた騒ぎが、飾りひとつで解決するなら安いものだと思って、そこの剣を持って市庁舎へ行ったのよ」


 なかなか豪胆なことをする姉だ、と苦笑する。


 同時に、義母ははのグレースがうなだれたまま大きな溜め息を吐き、唇を奮わせるのが見えた。夫である公爵は犯罪者の手に落ち、溺愛できあいする息子は領邦軍の先頭に立っているというのに、追い討ちをかけるように娘が単身で家宝を持ち出したあげく、事件の渦中へ飛び込んだというのだから、その心労ははかりしれない。


「セント・アメリア広場まで行って、剣を持ってきたと叫んでやったわ」


「指環はどうしたの?」


「なんのことだかわからないから無視したに決まってるじゃない。あんたは単純だから、結婚指輪が関係しているかもしれないなんて想像しているんでしょうけど、笑っちゃうわ。どこの世界に市庁舎を占拠してまで、他人の結婚指輪を欲しがる賊がいるのよ。それに私、お父様に聞いたことがあるわ。結婚指輪は、街の細工屋が作らせたそうよ。由緒正しいというには、ちょっと若すぎるわね」


 なにも言っていないのに馬鹿にされるのは腹立たしいが、実際に指摘の通りに考えを巡らせたので、反論はできない。得意げに片方の眉を上げて、イライザが淀みなく武勇伝を続ける。


「幸いゴーレムに襲われることはなかったけれど、伝言係りに出された議員からこう言われたわ――犯人が欲しがっているのはこれじゃない。本物を持ってこないと、人質を順に殺していくぞって」


「けっきょく、犯人が欲しがっている剣と指環が、何かはわかったの?」


 イライザが軽く肩をすくめ、運ばれてきた水で喉を潤す。そのまま何も語る様子はない。自分のわからないことは、究明できる他人に任せる――割り切った彼女らしい特徴だ。


 再び、ファルマン警部が引き継ぐ。


「ブリギットの剣と指環。ユウリス様にも、お心当たりはありませんか?」


「父上からは何も。はじめて聞いた名前です」


 ブリギットに伝わる何か、という意味だろうか。


 しかしユウリスと同じく、イライザとファルマン警部もお手上げだった。当然ながら余所者よそもののウルカにも心当たりはなく、沈黙を貫く。


「私が知らないことを、ユウリスやアルフレドが知っているわけないわよね。だとしたら、残るはひとりしかいないわ――そうね、お母様?」


 イライザの言葉で、視線は残るひとりに集中した。セオドア・レイン公爵の伴侶――グレース・レイン公爵夫人。俯いた彼女は答えを求められていることに気付いて、億劫おっくうそうに顔を上げた。


「私はヌアザから嫁いで来たのです。多くは知らされておりません」


「でも、心当たりはあるってことですか?」


 思わず口を出したユウリスを、グレースがれた目で睨み据えた。


 正妻と妾腹の子の仲は、本当に険悪だ。すれ違っても目を合わせることはないに等しく、気づけば季節が変わるまで言葉を交わさないこともある。


 グレースは、庶子という存在自体が許容できない。自身がイライザを妊娠してすぐに旅立った夫が、別の女に産ませた赤子を連れ帰ったのだ。溺愛する嫡男のアルフレドが、正統な血筋ではないユウリスに対抗心を燃やすのも面白くない。


 ユウリスとっては、理不尽の象徴しょうちょうこそ義母グレースだ。自分をレイン家の子とは認めてくれず、これみよがしにアルフレドを贔屓ひいきする。嫡男と庶子の違いは理解できるが、汚いものを見るような視線は耐え難い。


 漂う緊張を打ち破ったのはウルカだった。つまらなそうに鼻を鳴らし、視線を窓の外へ投げる。


「おい、レイン公爵を救出する気がないなら、私は寝るぞ。徹夜の怪物退治で疲れているんだ」


「ちょっと、≪スペクター≫を退治したのは俺だけど?」


「私の指導のもとで戦ったなら、それは私の労働だ。大人の社会を理解しろ」


 師弟の応酬が緩衝材かんしょうざいになり、少しだけ場の空気がなごんだ。グレースは金の前髪を掻きあげ、気だるげに一同を見回す。そしてごうを煮やしたイライザが、母の背を押すように言葉をかけた。


「お母様、時間が惜しいわ」


「ええ、わかっているわ、イライザ。そうね。知っていることを話しましょう。まずブリギットの剣と指環というのは、御伽噺おとぎばなしに登場する女神の至宝しほうです。ただそんなものが実在するとは、夫からも聞かされてはおりません」


 ブリギットの剣と指環。それはレイン家に伝わる、ブリギット誕生にまつわる伝承だった。




 気が遠くなるほど昔の出来事です。


 水と森に愛されたブリギットの地は、ある日を境に荒廃の一途を辿りました。


 北の山に邪悪な竜がみつき、ブリギットの恵みを奪い去ったのです。


 土は乾き、水源が凍てつき、粉塵が空を覆う闇の時代がはじまります。


 空と地の恩恵は去り、妖精や精霊も息を潜めて邪竜を恐れました。


 邪竜討伐を掲げた数多の勇者は、誰ひとりとして帰りません。


 飢えに苦しむ人や動物を見兼ねた心優しい娘は、女神ダヌに祈りを捧げました。


「昼夜ともわからぬ黒い空。

 空気は冷たく、土は乾くばかり。

 ああ、大いなる母、我らがダヌ神よ。

 どうか涙の一滴、温情を与えたまえ。

 再びこの地に川が流れ、日と雨が巡るなら、私は喜んでこの命を捧げましょう」


 すると彼女の夢枕に女神ダヌが現れ、至宝たる剣と指環を授けました。


 透明な刃を鞘に収めた短剣と、群青の石が嵌まった指輪。


 女神の至宝を得た娘は旅立ちます。


 渇きの荒れ地を越え、妖魔の巣食う森を抜け、霧深き湿地の向こうへと。


 雪と氷が支配する山の頂、邪悪な竜のもとへ。


 巨大な竜を前に、小さき人間の娘は勇気を振り絞り、短剣を放り投げました。


「恐ろしい竜よ。

 私はここに剣と指環を持ってきた。

 私は指環で、あなたは剣で戦いなさい。

 私が勝てば土地に潤いを戻すのです。

 あなたが勝てば、私はあなたに身を捧げましょう」


 娘の身体に宿る女神の加護は、竜にとってはまたとないご馳走です。


 牙と爪をちらつかせ、邪竜は嗤いました。


「愚かな娘だ。

 その勝負を受ける理由はない。

 いますぐに柔肌を爪で切り裂き、お前の血肉を牙で噛み喰ろうてやろう」


「あなたが応じぬなら、私は断崖より身を投げます。

 血肉は山河へ還ります。

 あなたはまたかすみを食べて過ごしなさい」


「小賢しい娘だ。

 だが指環で剣にどう勝つという?」


「竜よ、あなたは剣を握れまい。

 剣で私を殺せないのならば、私の指環があなたに勝利したも同然だ」


 剣は人間の手におさまる大きさでした。


 巨大な竜では、鉤爪に挟むことすら叶いません。


 しかし邪竜は空を震わせるほどの笑い声を響かせ、秘密の呪文を唱えました。


 すると邪竜は光に包まれ、瞬く間に人の大きさまで縮みました。


 人間の体に竜頭を乗せ、自らを竜人と名乗ります。


 人と同じ手を得た竜人は、足元に転がる短剣を拾い上げました。


 牙を剥いて、娘を威嚇します。


「さあ約束だ。

 お前の肉を裂き、臓物を貪り尽くしてやろう」


「では、その剣で私を刺しなさい」


 竜人が抜いた刃は、血潮のように赤く染まっていました。


 娘は無言で瞼を閉じ、迫り来る凶刃に身を委ねます。


 心臓を一突きにされた瞬間、娘が嵌めた指輪の石がまばゆく輝きました。


「ああ、母なるダヌよ。

 この地に営みが還ります」


 短剣は、指環に込められた聖なる力を扱うための鍵でした。


 正しき心で扱えば、大きな力が奇跡を起こします。


 しかし邪な者が扱えば、身を滅ぼしてしまうのです。


 悪意のままに剣を用いた竜人は、女神の至宝に魔力を奪い尽くされました。


 元の竜に戻る力すら残りません。


 短剣を娘の胸に残したまま、竜人は失意のうちに断崖から転落しました。


 死の淵で娘は祈り続けます。


「この地に水の絶えぬように。

 この地に作物の実り多きように」


 終わりゆく命のなかで、娘は自分の胸に刺さった短剣を引き抜きました。


 穢れない魂に触れた赤い刀身が、透明に塗り変わります。


 願いのまま、指環の力は解き放たれました。


 優しい雨が降り注ぎ、土地に潤いと緑が戻ります。


 山の雪と凍てついた水源は溶け、やがて運河となり大陸を繋ぎました。


「ああ、最後に、女神ダヌよ――どうか、どうかお聞き届けください」


 娘が最後になにを願ったのか、言い伝えには残っていません。


 しかしそれ以降、この地は水と実りで栄え続けました。


 北の山の裂け目では、いまも奈落に消えた竜の嘆きが木霊しています。


 これは遥か昔から伝わる、悪竜ブリギットと聖女アメリアの物語です。

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