第52話 side駿 本当に大切なもの

 僕は昔から数学が得意だった。高校でも、数学だけはいつもいい成績が取れて、それだけが自慢だった。そんなわけで、当然のごとく理系に進み、そこそこ名門といわれる大学に進学することもできた。


 高校から一緒のやつも大学に何人かはいたが、どいつも学部が違ったため、孤立しないか不安だった。そんな中、初めてできた大学の友達が義治だ。彼とはすぐに意気投合して、それからというもの、大学での大半の時間を彼と過ごした。


 そして、大学三年の時、僕の運命の相手、花恋かれんさんと出会った。同じころに、義治も亜紀さんという女性と交際を始め、俺たちは四人でよく遊びに行った。


 そして、大学卒業を機に、僕も義治も結婚した。それからはお互いそれぞれの道に進むため、しばらく疎遠になってしまった。そして五年後、僕たちの間に子供が生まれた。僕たちはその子に「謙人」と名付けた。


 でも……僕たちはその子を愛さなかった。僕たちは子供よりも仕事を優先してしまった。


 きっと、謙人にとってはつらい毎日だったと思う。今は、自分でも本当に馬鹿だったと思っている。親が本当に大事にしなければいけないのは、お金や地位や仕事ではなく、自分たちの間に生まれた子供だっていうのに……。


 そして、謙人が高校に進学するという頃になって、会社から海外にある本社への移転の話がきた。正直、謙人に高校の話をされたかどうかも覚えていない。それくらい、自分の子供だというのに無関心だった。そして、僕たちは謙人を新しく契約したアパートに住まわせて、海外へと行ってしまった。去り際に見た謙人の顔は、思い出したくもないほどにひどく歪み、辛そうであった。


 海外での生活はとても充実していた。日本とは価値観が違う国で、一から生活していくというのはとても新鮮で、毎日が楽しくて仕方なかった。


 そんな生活が一年ほど続いたある日、僕の携帯に電話がかかってきた。画面を見ると、姫野義治と書いてあった。彼と電話するのなんて何年ぶりだろう。たまにメールでやり取りをすることはあったが、電話で話などもうずっとしていない。日本を出るときに彼にもメールをしていたから、きっと彼も僕が海外にいることが分かっていて連絡してきたんだろう。


 僕は久しぶりに義治と会話ができることに期待を膨らませながら、電話に出た。ところが、彼から発せられた一言目は、驚くべきものだった。


「駿、今すぐ日本に帰ってこい!」


 こいつは何を言っているんだ?言っている意味が全く分からなかった。もしかしたら軽いジョークなのかとも思ったが、それにしては口調が真剣すぎる。


「久しぶりだな、義治。どうしたんだ、いきなり?」


「僕は君が、そんな人間になるとは思ってもみなかった!お前、自分の子供を置き去りにして海外まで行くとは、どういう神経をしている!」


 感情を表に出したがらない義治が、ここまで声を荒げるのを聞いたのは初めてだった。それにしても、なぜそのことをこいつが知っているんだろう?


「なぜそのことを?」


「お前の子供と知り合いだからだ。謙人くんとな」


 謙人……。それは紛れもなく我が子の名前だ。どうして義治と知り合いなんだ?


「謙人と……いったいどういうことだ?」


「それは自分の目で確かめろ。とにかく!お前は子供と仕事、どっちが大切だと思っているんだ!仕事など、探せばいくらでも見つかる!お前は優秀なんだから、そんなものは造作もないだろう。でも!子供はいなくなってしまったらもう二度と戻ってはこないんだぞ!謙人くんは今、相当傷ついている。無理もないだろう。お前たちは、自分たちがした行動が、どれほど彼を傷つけているのか考えたことがあるのか?」


 脳裏に、謙人の顔が映った。去り際に、本当に苦しそうな顔をしていた謙人。僕たちは、子どもにあんな顔をさせてまで仕事を優先するのか?子供を傷つけてまで今の地位を守りたいのか?違う!考えてみれば当たり前の話だ。仕事と子供のどちらが大切かなんて、そんなもの決まっている!そんな簡単なことを、俺たちは……、


「花恋。日本に帰ろう。帰って、謙人に謝ろう。僕たちは、親として本当にひどいことをしてしまっている。分かってもらえるか?」


 花恋は、静かに涙を流した。


「あなたもなのね……。あなたも義治さんから……」


「あぁ、そうだ。他人に言われないと気付けないなんて、僕たちは馬鹿だな……」


「謙人に、会いに帰りましょう。これからは何があっても、あの子のそばにいると誓います……」


「あぁ、そうだな……」




 それから、本社に日本に帰ることを伝えた。


「本当に大事なものに気づかされました。それを守るために、日本に帰ります」


 本社の人からの手厚い対応のおかげで、なんとか元居た日本支社の方には戻れることになった。


 そして、次の日。僕たちは日本に向かって飛び立った。名残惜しいなどという感情は一切なかった。




 謙人のアパートを訪ねると、そこには誰もいなかった。思えば、こっちは今、日曜日の昼間。きっとどこかに出かけているんだろう。


「まだいないようだから、カフェにでも入って、帰ってくるまで待つか」


 僕たちは駅の近くの落ち着いた雰囲気の洋食屋に入った。ご飯も食べずに飛び出してきたんだ、流石に空腹には勝てそうにない。


 あ、そうだ。義治にも帰ってきたという報告と感謝のメールを送らないとな……


 そんなことを考えながら、洋食屋のドアを開けた。


「いらっしゃいませ~」


 店の中は一人もお客さんがいなかった。一人の店員さんがこちらに近づいてきた。


「まだ入れますか?」


「はい、大丈夫です……えっ?」


 なにかあったのか?そう思って顔を上げて、僕も同じように固まってしまった。


 そこには……一年前よりもずっと大きく、たくましく成長した、我が子の姿があった。

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