140 匂い
俺たちの下りたゴンドラが斜面を数十メートル下ったところで、ゴウンという大きな音を立てて全ての明かりが消えた。制止したゴンドラがギィギィと揺れている。
電気のないこの世界で、その動力源が何なのかはさっぱり分からないが、今はそんなことを考えている場合じゃない。
辿り着いたのは、ここエルドラの地にあるグラニカ自然公園。
下から見た時と印象は変わらず、あまりにも静かな空気に俺は恐怖を募らせた。
「それにしても暑いわね」
この国の夜は昼との温度差が大きいが、山の上だというのにねっとりと貼りつく空気が体中にまとわりついてくる。
「たまにこういう日があるんだよね」
ヒルドは月明かりで薄暗い闇の中から太い棒を拾って、どこからか取り出した布らしきものを器用に先端へ巻き付けた。シュッとマッチを擦る音がして、彼お手製の松明に灯がともる。
「もう終わっちまったのか? クラウや親衛隊は……」
「この近くには居なそうだよね」
腕を伸ばして松明の先端を闇にかざすヒルド。明かりの届く範囲に変化は見えない。
とりあえずコテージを目指そうと決めて、俺たちはゆっくりと丘を登った。
モンスターは火が苦手だというのは、俺たちの世界の常識だ。
この世界のモンスターは火を好む。
焚火に突進したカーボを思い出すと、美緒とつないだ手に力が入ってしまう。
「ちょっと、痛いよ」
「あぁ、悪い」
慌てて手を離すと、今度は美緒が俺の掌を拾った。
「情けねぇ」
俺は息を吐くように音なく呟いて、闇に目を凝らした。
目と耳に集中するが、ドラゴンどころかモンスターさえ捉えることができない。
緩い丘の道が途切れて、銀色のモニュメントが左手の方角に見える。かつてのクーデターの犠牲者を弔う慰霊碑だ。
コテージはその反対側。背の高い木々が空の色も隠してしまう程にうっそうと連なる。
「あれ」と呟いたヒルドに続いて、俺とチェリーも足を止める。
「どうしたの?」と首を傾げる美緒に「静かに」と人差し指で合図し、俺は辺りに漂う空気を
ほんのりと甘い香りが鼻をくすぐる。
どこかで嗅いだことのある匂い。懐かしいような気さえするのに、俺はすぐに答えを出すことができない。
闇の奥を
「チャーチ香だ」
ヒルドの言葉でようやく記憶が蘇る。
俺とチェリーが初めてヒルドに会った、女主人・アイルの店で嗅いだ匂いだ。
店にモンスターのシーモスを呼び寄せて、その場で捕獲したものを振舞うという大胆な演出の為に、モンスターが好むというチャーチ香を焚いていた。
松明をかざして辺りを警戒するヒルド。
「この匂いに、モンスターが集まって来るってことか?」
「そういうことよね? 誰が何の目的のためにそんなことするのかしら」
チェリーの右手が腰の剣に触れる。戦闘が始まろうというのか。
「何かいるの?」と声を震わせる美緒が、俺の腕をそっと握った。俺は彼女を庇うように、チェリーに習って剣を抜く。
戦うためにこれを握るのは初めてだ。ぬるりと汗ばむ感触からグリップを何度も確かめる。
「ユースケ、ここからコテージまでどれくらいかかる?」
「たいした距離じゃねぇよ。走ればすぐだ」
「じゃあ、走り抜けた方がいいかな」
オーナーの話では、渡された鍵のコテージは手前から二番目の建物という事だ。
「100メートルはないと思う」
メートル法などこの世界では通じないが、チェリーと美緒が声を合わせて「分かったわ」と返事をくれる。
「じゃあ--」というヒルドの声を合図に、走る体制に入った時だ。
静寂を切り裂くように、ガサガサっと頭上の葉が音を立てた。
「きゃあ」と美緒の悲鳴。
「シーモスだ!」
ヒルドは松明を左手に持ち替えて、
俺はその姿を視界に捉えることができず、羽音を追うのが精いっぱいだった。
アイルの店で戦ったのはコイツじゃなくて、シーモスに擬態したジーマだった。だから、それよりも敵のレベルは低いはずだ。
俺は二人に続いて、何の覚悟もできないまま剣を闇へ向けた。羽音は一匹分。
「ジーマに変身するんじゃないぞ」
あの日俺たちの力では、ジーマを倒すことができなかった。あれから自分が大した成長をしたとも思えない。
カラスのようなシーモスなら俺でも倒せるかもしれない――そうであることを祈りながら剣を闇雲に振ると、「いた」とチェリーの声がした。
松明がその影を捉える。
「俺も見えた」
明かりを黒い影が横切る。けれども、それは一瞬だ。
次の瞬間、チェリーが俺の前に飛び出て、俺は慌てて自分の剣を後ろに引いた。
チェリーの剣が弧を描く。切っ先が側にいたヒルドの顔面すれすれを走って、「うわぁ」という悲鳴に合わせて松明の炎が横に大きく振れた。
「悪いわね」
チェリーの声と同時に肉を断つ鈍い音が響いて、足元に黒い影が打ち付けられる。
羽音が止んだ。
チェリーの勝利を確信してヒルドが「やったぁ」と暗闇に声を弾ませるが、俺は「すごい」という称賛よりも鼻を突いた血液の匂いに吐き気を覚える。
「走るよ」
ヒルドの声で、俺は再び美緒と手を繋いだ。
チャーチ香の匂いが漂う中、一匹で良かったと安堵する暇はない。
「了解」と叫んで、俺たちは無我夢中にコテージを目指した。
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