121 海岸線の町へ

 毎度のことながら、この毒薬もとい万能薬の効果には驚かされる。

 目覚めた時はたいして疲れも感じていなかったのに、ものの数分で自分がちょっと痩せたんじゃないかと思えるほどに体が軽く感じられた。


 頭痛も消えて全身の爽快感に両手をグルグル振っていると、ヒルドが「隊長からだよ」と俺に茶色の紙袋を差し出した。


「ユースケから渡してくれ、ってね」

「メルはこっちに来てないのか」

「クラウの側に居たいんだって。記憶はちゃんと戻ってないけど、それが自分にできることのような気がするって」


 それを聞いた俺は、クラウにちょっと嫉妬した。俺が美緒の話をするのを嫌がっていたころのメルを懐かしく感じながら、袋を開く。

 中には、向こうの世界でメルが京也からもらった焼き菓子が入っている。


 ――「これは、大切な友達といただくわ」


 メルはチェリーと食べたいと言っていたが、もうそんな時間は取れないと感じてしまったのかもしれない。


「これ、京也さんからです。メルが貰ったんだけど、アイツ、チェリーと食べたいって言ってて」

「メルが? 京也から?」


 不思議そうに顔を上げて、チェリーは袋を覗き込む。

 向こうの世界でチェリーは京也とあのカフェを始めた。京也はチェリーの保管者で、ずっと帰りを待っているのだ。


 フィナンシェに、パウンドケーキに、マフィン。チェリーはそれを一つずつテーブルに並べていく。

 泣いてしまうかもしれない――俺はそんな予想をしたが、チェリーはしかめ面でクッキーを見つめた顔を急にほころばせて、「アイツらしいわ」と微笑んだ。


「こんなことされると、少しだけアイツの顔を見たくなっちゃうわね」

「だったら、俺たちと一緒に……」

「それもいいかもしれない」


 「ええっ」と再び膨れっ面になるヒルド。

 それから俺たちは一階のリビングに下りて、『カフェ桜』の焼き菓子で、男三人のティータイムを過ごした。


 その後、外の空気が吸いたくて二階のバルコニーへ出る。

 緋色の魔女に殺されかけた後、俺はこの家でメルと再会した。その夜にこの場所で話をしたのが懐かしい。

 あの時は夜で気付かなかったが、ここからは新しい色に変わった城も、遠くの海も小さくだが見渡すことができた。


 建国祭まであと二日。

 美緒の事も忘れて、時間だけが過ぎればいいと思った。けれど忘れることなどできず、願えば願う程にそれは長く感じられた。


 本当に今日は長い一日だった。

 俺は何をしようにも手に付かず、太陽が空を渡って山の稜線りょうせんに向かって傾いていくのを、ただぼんやりと眺めていた。


 もうクタクタになってしまった本がずっと俺のジャケットに入っているが、これを開いたらきっと俺は泣いてしまう。城へ向けて走り出してしまいそうな予感さえして、ポケットの中で紙に触れた指をそっと離した。


 部屋とバルコニーを何往復かした俺は、再び外に出たところでさっきまでと周囲の様子が違うことに気付く。

 少し冷たくなった風に紛れて漂うのは、夕げの匂いだ。買い物に出ていたチェリーとヒルドが、少し前にカーボを背中に担いで帰ってきたのを見ている。


 辺りが騒々しく感じるのは、周りの家の二階から次々に住人の顔が飛び出てきたからだ。まるで花火でも見学するかのように、みんな一方向を向いている。


 城の方角だった。


 廊下からバタバタと足音がして振り向くと、慌て顔のヒルドとチェリーがバルコニーへ飛び込んできた。


「庭を再生させるって言ってたの、忘れてたよ」


 ヒルドはガシリと掴んだ鉄柵を強く引いて、身を乗り出した。カーボの返り血らしき赤いシミの付いたエプロンが風にひらりと舞い上がる。


「昨日、再生の儀でマーテルが城を直したでしょう? 今度は治癒師の力で庭を戻すんですって」


 修復師は物理的なものを直す人で、治癒師は生命を扱う。


「生命の再生は、治癒師にしかできない仕事だから。リトさん、頑張って」


 ヒルドが城に向けて、そっとエールを呟いた。


「リトと、彼のお父様はずっと働き詰めよ。祭までにあの荒れた庭を元のようにしなければならないんですって」

 

 チェリーは髪をかき上げるように額に手をかざし、城を見据えた。

 まさに今のタイミングだったらしい。小さな城がぼんやりと白く光った気がした。

 城があまりにも遠すぎて、何が起きているのかはさっぱり分からなかったが、周囲の家から喝采が上がった。


 何度かの発光ごとに歓声が上がり、やがて光が止んだ。

 「うまくいったのかな」とヒルド。

 ここからは、その変化を欠片も見ることはできないが、みんな満足そうに家の中へと戻っていく。


 これが今日の俺にとっての一大イベントになったようだ。

 けれどまだ空は青い。建国祭は二日後。明日もこの苦痛を味わわねばならないのか。


 俺は二人の間に滑り込んで、静けさの戻った風景を眺めた。

 緑色の山に、丘に、草原に町並み。

 そして、海――。


「なぁ、ヒルド。ヒルドはあの町に住んでたんだっけ」


 俺が遠くに光る青い海を指差すと、ヒルドは「そうだよ」と答えて強く吹いた風に髪を押さえた。


「チルチルは、港のある大都市なんだ」


 自慢気に胸を張るヒルド。

 こんな時だけど、こんな時だからこそ行ってみたいと思ってしまう。


「なぁ、明日そこへ行ってみないか?」


 それは唐突な俺の提案だったけれど。

 ヒルドは一瞬だけ目を丸くして、「行こうよ」と声を弾ませたのだ。

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