Call My Name
里田慕
第1話
畜生、馬鹿にしやがって。
俺は、また煙草に火を付けた。もう、何本目かなんて記憶にない。
ただ、この胸のムカツキはどうやっても収まりそうになかった。
『慎二、今日でもう、わたしたち別れましょ』
何がだ。わたしたち、じゃなくて、お前がだろうが。
『理由? だって、倫子、もう飽きちゃったんだもん。もう半年も付き合ったし。だいたい、慎二、エッチもワンパだから』
そう言って、新しい「カレ」の写真まで見せてくれた。
体育会系の俺とは正反対の、ドレッドに耳のピアスが目立つHIPHOP系のミュージシャンかって感じのやさ男――。
まったく、どういう神経のオンナだ。
つい一週間前まで、初エッチ6ヶ月記念のデートだからね、とか念を押してたのを忘れたとは言わせねえ。
公園のベンチの横に、また吸いかけの煙草を放り投げる。
今日のために、無け無しの給料をはたいて買ったセーターとズボン。
いっつもおんなじ格好だと揶揄されないように、わざわざ慣れないショップ巡りまでして選んだ新品だ。
ベンチの背もたれをドン、と叩くと、足元をうろうろしていた数匹のハトが驚いて飛び立っていく。
あ~あ、スロットでもやりに行くかなあ。
また煙草に火を点けて青い空を仰ぎ見る。
なんでこういう時に限ってこう天気がいいのか。こんな風に公園のベンチに腰掛けてる俺が馬鹿みたいだろうが。
繁華街の外れの小さな公園には、俺の他には誰もいない。
時折建物一つ隔てた大通りを行き交う車のエンジン音が聞こえるくらいだ。
お?
その時、セーラー服の女生徒が、ゆっくりと公園に歩いて入ってきた。
もうそんな時間か。
腕時計を見ると、針はもう3時を回る所だった。
せっかく取った有休だってのに、こんな風に終わっちまうのか……。
また行き場のない怒りが込み上げてくる。
煙草、煙草、と。あ、もう切れちまったのか。
気が付けば、座っているベンチのまわりは吸い殻だらけだった。
……あれ?
白いソックスと革靴の細い足が、地面を見下ろした視野の端に入った。
視線を上げると、5mくらい前方にあるもう一つのベンチに、襟に紺の2本線が入ったオーソドックスなセーラー服の女生徒が座っている。
さっきの子か。にしても、こんな所で読書とはいまどき珍しい子だな。
清潔な感じのショートヘアーに、白いカチューシャを止めただけの少女は、大きな手提げ袋を横に、膝の上に置いた大きな本に熱心に見入っている。
清楚だなあ。倫子の奴にもあんな時期があったのか?
いや、絶対にアイツは中学や高校の頃からああいうオンナだったに決まって
る。
にしても、ちょっと膝の辺りが無防備過ぎないか?
本を置いた両膝がハの字気味に開いて、紺色のスカートが、少し上に持ち上がっていた。もちろん、今日びのめちゃくちゃ短い制服のスカートとは違って、太股の奥まで見えるわけじゃなかったが、清楚さとのアンバランスに少し動悸を感じた。
と、本を読んでいた少女の視線が上がり、一瞬、こちらを見た。
なんとはなし、という感じだった。
でも、少し下がった眉の下の、大きくはないが丸い瞳の奥が、微かに笑いかけたように思ったのは錯覚だったのか?
再び少女の視線は膝に置かれた本に戻ったが、その左手が、明らかに妖しげな動きを示す。
ま、マジか……?
そろそろとスカートがたくし上げられると、みるみる内に白い太股が露わになる。細い指が膝の辺りでゆっくりと円を描くように肌をなぞり、まだ目に触れない奥へと潜り込んでいく。
焦りに近い感覚がして、辺りをそれとなく覗うが、ベンチで向かい合う二人の他に人の気配はなかった。
少女の目は本に向けられたままだったが、手の動きは大胆さをさらに増していく。
足は既に大きく開かれ、動いている手が外れれば、その合わせ目まで完全に晒されてしまうだろう。
いつの間にか、右手もセーラー服の中に潜り込み、胸の辺りで動いているのが服の上からでもわかった。
頭がクラクラして、股間が徐々に充血していくのを感じる。
弱いはずの秋の日差しの中で、手の平に汗が滲む。
……その奥を見たいんだ。
少女がこちらを意識しているのは明らかだった。ならば、積極的に見て何が悪い。
再び瞳がこちらを真っ直ぐに射た。
左手がゆっくりと太股の間から離れ、完全にスカートを捲り上げる。
その瞬間、黒い
し、下着も付けてないのか……!
服の下で胸を弄んでいた右手が下に降りると、翳りの中に一瞬潜り込み、見せつけるように上下に動く。
そして、そのまま人差し指と中指を立てると、唇に持って行ってねっとりとしゃぶった。
ズボンの中のモノは、もう、完全に
少女は、スッと立ち上がると、膝の上に乗せていた本を手提げ袋に入れた。目を逸らさずにそのまま歩み寄ってくる。
心臓が高鳴る。どうなるのかまったく考えられなかった。
目の前にやってきたその体躯は華奢で、身長は150cmそこそこだろうか。
ただ、結ばれた小さな口、高くはないが筋の通った鼻、そして少し茶の入った瞳が何処となく無機質な印象を伝えてくる。
「おじさん、わたしと寝ない? 」
開かれた口があまり感情の伴わない言葉を発した。
どう答えたものか。
理性は危険を告げていた。誰ともわからない男の前で自慰行為紛いのことをする女なんて、当然ろくなもんじゃない。
まさか今時、
「ふん。ひでぇな。これでも俺、まだ26だぜ」
『彼女』は、微かに口の端だけで笑った。
「立派なオジサンじゃん。クリスマス超えてれば。
それで、どうするの」
理性に反して俺の口は勝手に動く。
「いいさ。寝るだけならな」
「お金なんて取らないよ。だって、いかにも持ってなさそうじゃない」
**************************************
まだ少し戸惑っていた。
行きずりでヤッっちまったことがないわけじゃない。
でも、今日のシュチュエーションは尋常とは思えなかった。
スモーク入ったガラスの向こうには、シャワーを浴びる裸体の影が揺れている。
俺は、下半身にバスタオルを巻いただけの姿で、ベッドに腰掛けていた。
ふられてヤケになってるのか、俺は。いや、そういうわけでもない。
誘った時の瞳の色が忘れられなかった。
清楚な姿と、行為のアンバランスさ以上に、何処か無機質な光を放つ茶色がかった瞳が。
シャワーの音が止まると、静かに身体を拭く音。それだけで、タオルの下の
バスルームのドアが開くと、彼女は姿を現した。
きれいな、身体だ。
少し感嘆する。
何も身につけず立った白い裸身は、思ったよりずっと張りがあった。
ピンク色に尖りだした乳首に、大きくはないが形のいい乳房。
腰はまだ幼さを残した平板な感じだったが、なだらかに曲線を描くお尻は、十分に女を意識させるものだった。
「電気、消すか?」
「ううん、いい」
相変わらずあまり感情のこもらない声で言うと、キングサイズのベッドの端に腰掛ける俺の足元に跪く。
「ね、舐めてもいいでしょ?」
突然の言葉に、少したじろいだ。今まで付き合ったオンナにはなかったいきなりの態度。
「いいのか?」
膝を割り、身体を寄せながらショートカットのつむじが肯く。
腰に巻かれたバスタオルが外されると、しなやかな指が戸惑うことなく立ち上がった剛直を捉えた。
「あぁ、おっきい……」
それまでと一変した甘い声で彼女は囁いた。
右手でゆっくりとしごき上げると、左手を袋の下にあてがってゆっくりと揉み解す。頬を張り出した雁に擦り付けると、上目でこちらを伺い、言う。
「舐めるね」
またしても、先だってまでの無機質な感じとは一変した妖艶なイメージ。
舌先がちろちろと先をくすぐる。
そのまま唇を剛棒の脇に這わせると、包み込むように舌全体が巻き込む。さらに下がると、緊張しはじめた陰嚢を、口全体が包み込んでやわやわと刺激を与えた。
その間も、もう一方の手はつるつるとした亀頭の裏側を親指でなぞり、刺激を送り続けている。
青っぽい光の中で、何もかもを見せつけたまま逸物に一心に舌を這わせる姿を見ていると、官能が昂まって止まらなくなる。
まだ、咥えられてもいないのに、何かが尿道を上がっていくのが分かった。
「あ、出てきた。気持ちいいんだね。ねえ、」
再び上目遣いで囁く。
「咥えて欲しい? わたしのお口で」
何処かで違和感を感じながら、誘う声にうなずく。もう、快楽に全てが飲み込まれそうだった。
軽く笑うと、彼女は既に限界近くまで膨らんだ剛直の先に唇を触れた。そのまま、ねっとりと押し付けるように圧力を加えながら飲み込んでいく。
……う、うまい。この子。
思わず頭の上に手をかけると、一気に固い壁に先が当たった。
ゆっくりと頭が前後に動きはじめる。
浅く、軽く動かした後で、グッと喉の奥まで吸い上げる。その動きを何回か繰り返すと、もう俺の物は暴発寸前だった。
薄く目を開けて逸物が少女の唇を捲り上げながら出入りする様を見た。
「出ひて……」
口に入れたまま射精を促す声を聴いた時、不意に思った。
まるで、AVみたいだな。
こっちはなんの前戯もなしで、こんな調子で咥えてもらえるなんて。
考えた瞬間、突然妖艶になった彼女の態度や、上目遣いの表情がパズルのピースのように収まって、官能の波が少し引いていく。
「どうしたの。ほら、もっと気持ちよくならなきゃ」
更に甘い声で続ける彼女。唇を離すと、再び柔らかく手でしごきながら表情を伺う。
その姿と声が最初に見た姿との落差を思い出させて、さらに昂まりが遠のいていく。
「もう、どうして」
焦れたように彼女は呟いたが、一度冷め始めれば、そう簡単に火はつかない。しばらくなんとかしようと努力を続けたが、反応は乏しかった。
「悪い。なんか、調子出なくなっちゃってさ」
「……これでイかなかった人なんて、いなかったんだけどな」
呟くと、また無機質な調子に戻って言う。
「もしかして、遅漏なの?」
「馬鹿にするな。さっきまでの勢い、見ただろ」
まったく、何を考えてんだ。でも、まあ、こうなった俺が悪いのは確かだ。
「代わりに、俺がしてやるよ。なんか、がんばってもらったしな」
「いいよ」
無感情に言うと、ベッドの中に潜り込んだ。
「どうして」
「だって、先に気持ち良くなってもらわないと」
「はあ?」
ぼんやりと天井を見つめたまま彼女は言った。
「多分さ、してれば俺の方も……」
「いいの」
再び拒否すると、その後は口をつぐんで一言も言わなくなった。
なんだかな……。隣でベッドに横になっている少女が何を考えているのかまったくわからず、所在無く立ち上がった。
どう考えても相当に場数をこなしてきている感じのテクニックと、最初に公園に入ってきた時の感じ、無謀とも思える誘い方、そして愛撫の拒否。それらを一つにつなぐ鎖がない。
ホテル備え付けのグレーのガウンを羽織った俺に、小さい声で彼女が言う。
「帰る? どうせ、できそうにもないし」
そうだな、言いかけて、思い止まった。
その声が……そう、まるで泣いているように聞こえたからだ。
はっとして見下ろしたが、特に表情に変化はなく、無表情にこちらを見つめている。
「一杯飲んでからにするかな。少しくらいなら、付き合えるだろ?」
「ラブホで飲むなんて、お金かかるよ。わたし、全然持ってないからね」
「……金なら、持ってるさ。デート予定費がね」
こちらを見つめていた茶色の瞳に、初めておかしそうな光が宿った。
「だっさー。フラれて公園でモク吹かしてたんだ~」
「うるせえ」
このガキ、と思いながらベッドに埋もれた小さな頭をこずいた。
**************************************
ベッドの上に身体を起こして、シーツを身体に巻き付けた少女は、自分の名前を『カオリ』だと言った。言葉の響きで、偽名だろうことはわかった。そして、俺も、『タダシ』だと名乗った。
名前なんてどうでもよかった。それが、記号みたいなものであることはわかっている。
ただ、そのハンドルを使って、たわいもない話しができる。
そして程なく、この少女が16~17才くらいの高校生であることがわかった。
「この格好で、引っかからないおじさんってほとんどいないよ」
カオリは少し意地悪そうに眉を寄せる。
あのセーラー服は、何処かで買ってきた「他の」学校の制服だと言った。
「ど~せ、オトコにとってオンナなんて、モノみたいなもんでしょう。わたしなんて、特にそうだし」
「そりゃ、違うだろ。好きな女と、そうじゃないのは全然違うと思うぞ」
「そう?」
両手をシーツを巻いた胸の前で組んだまま、カオリは反論した。
「タダシだって、あの格好にズンッと来たから私を抱く気になったんでしょ。好きとか、嫌いとか関係ないじゃん」
初めの頃より、ずっと感情を露わにして口を尖らせる。
「そりゃ、そうだけどさ。男なら、あれでこないってのも……」
「でしょ? だから、関係ないのよ、わたしがどうかなんて。
わたしは、X《エックス》。上に何を纏うか、何を演じるかで変わる記号みたいなものよ」
少し寂しそうに見えるのは気のせいだろうか。
ついさっき自分で考えたこととカオリの言葉が重なって、切ない気分になる。こんな
感覚は、もう十年も感じたことのないものだった。
「でもね、上手な記号でいることがわたしは好き。
だって、誰かが気持ち良くなると、とってもいい気分だから。
その後でセックスすると、すっごく安心する。誰でもいいんだ。抱きしめてくれさえすれば」
「わかるけどさ、いや、わかるなんて言えないのかも知れないけどさ」
自分で思っている以上に切羽詰まった調子になってしまう。
「確かに俺もさ、誘われて来ちまったクチだから大層な事は言えないけどさ……」
考えがまとまらなかった。ただ、思った事を言葉にした。
「そりゃ、セックスしてる時、なんかしてくれって思う時、人をモノみたいに思う時はある。でも、そうじゃない時もある。どっちも、俺の気持ちの動きだと思うんだ。だから、例えば俺がカオリの彼氏だとしてさ、おまえの事記号みたいに思ってたとしても、カオリがモノになることはないんじゃないかと思うんだよ。しっかり血の通った人間なんだからさ」
じっと俺の話を聞いていたカオリは、今までになかった柔らかい表情になってクスクスと笑った。
「変なヤツ。わたしのことなんて、後腐れなくヤッてればいいだけなのに」
そして、しばらく笑っていた。
「そんな真面目なこと言ったの、お姉ちゃん以来だな。もう死んじゃったけど」
姉貴?――家族のことを訊きかけて、口をつぐんだ。ひどく意味のないことに思えた。
その代わりに、身体を寄せて静かにキスをした。彼女の手は胸の前で組まれたままだったが、唇はわずかに開いて反応する。
シーツの中に身体を入れると、組まれた手を解くようにして胸の膨らみの下腹に手をあてがうと、5本の指でくすぐるように刺激を送った。
合わさったままの唇を少し遠ざけるように顔を遠ざけると、目を伏せて哀しそうに言った。
「優しくしないで。じゃないと、わたし、ダメになっちゃうから」
「嫌だ。強引に優しくする」
「言ってることがメチャクチャだよ……」
起こしていた身体を柔らかいベッドの中に沈めながら、カオリは小さな声で言った。
「お前が言わせてるんじゃないか」
そのままもう一度唇を合わせた。
今度は、舌を絡め合う少し深いキス。そして、彼女の手が俺の首の後ろに回り、強く引き寄せる。
小さな口の中を、縦横に舌で刺激する。
歯、歯茎の裏、舌の表面、上顎。唾液を次々に送り込みながら、右手はシーツの中を下り、腰骨をなぞるように秘められた部分を探り当てる。
彼女の手も、俺の中心を探ろうと胸から滑り下りてくる。
「ね、させて。気持ちよくなりたいでしょ?」
数時間前を思い出させるニュアンス。俺は、もう一方の手で彼女の手首を握り、首を振った。
「何も言うな」
そして、もう一度深く口づけた。
濡れた場所を探り当てた指で、柔らかく広がり始めた内側の花びらの内側をなぞる。そのまま手の平を張り詰めた花芯にあてがいながら中指を奥へと侵入させる。
その瞬間、彼女の頭がガクッと震えた。
……感じてる。
でも、あえて何も言わず、指だけを奥に進めた。柔らかく包み込んでくる襞を感じながら、左側の張った内壁をグッっと押す。
その間に、手の平で刺激していたクリトリスに、親指を擦り付けより強い刺激を送った。
もう、彼女の秘部から溢れた雫は、張りのある臀部の両肉まで濡らしている。
そろそろ、俺も限界だな。
さっきの刺激の余韻が残っている剛直は、既に先触れを漏らしてその時を待っている。
キスをしながらすばやくコンドームを付けると、両手をついて彼女を見下ろした。
荒い息をつきながら頬を紅潮させている姿を見つめると、彼女もぼんやりとした目で見つめ返す。
視線が交わった瞬間、一気に中に割り入った。彼女の眉根が寄り、背中がびくっと跳ね上がった。
……これは、すぐにでもイッちまいそうだ。
十分に濡れそぼった内壁は、それ自体が別の生き物のように絡み付いてくる。コンドームの薄皮を通じてなお、強烈な刺激が腰の奥から込み上げてきた。
身体を強く抱きしめて、上下に腰を動かす。
「あ、あああ・・・」
歯を食いしばっていた彼女の口から、堪えきれないように声が漏れ始めた。
余裕を持って腰を使っている暇など無かった。左手を首の後ろに回し、律動のスピードを上げながら耳元に口を寄せる。
「名前、教えて」
「だから、カオリ」
「違う、ほんとの、名前」
耳たぶに舌を這わせると、首に回していた手を、頭に持っていき、髪の毛を激しくかき分ける。
「あ、あああッ。めぐみ。めぐみ、だよ」
めぐみ、かわいい名前だ。
「めぐみ、好きだ、めぐみ」
限界まで腰のスピードを上げる。
反りあがった彼女の顎が俺の胸の下でガクガクと震える。
もう、限界だ!
「めぐみ!!」
「あ、ああああああ!」
彼女の内側が震えるのと、俺の剛棒が跳ね上がり、弾けるのは同時だった。
全身を射精の快感と、それ以上の何か暖かいものが過ぎていく。
固くめぐみの身体を抱きしめたまま、激しい息をついて、余韻が引いていくのをじっと感じていた。
めぐみの細い腕が、俺の背中をゆっくりと撫でている。
そして彼女は、目を閉じて静かに安堵の息を吐き出した。
**************************************
次の朝。
裸のままで目を覚ますと、ベッドの傍らに彼女の姿はなかった。
シャワーでも浴びているのだろうか。
そう思って身体を起こしたが、そうではないことはすぐにわかった。
既に、彼女の荷物は全てなくなっていて、俺は部屋に独りぼっちだった。
……なんで、黙って行っちまうんだよ。
ベッドから下りると、後悔に似たやり場のない気持ちに襲われる。
と、ぼんやりと見上げた姿見に、ピンク色が走っていることに気付いた。
おそらく口紅で書かれたかわいらしい丸文字が、大きな鏡一杯に並んでいる。
『キモチよかったよ、シンジ。(ゴメ。免許証カッテに見ちゃった)
また、どっかで会えるといいネ。MEGU』
「馬鹿やろ」
俺は小さな声で呟いた。
そして、2週間後。
秋は一気に深さを増して、風の冷たさが冬の訪れをすぐそこにまで感じさせていた。
それでも俺は、この、仕事が終わった後の日課をやめようとは思っていない。
暗くなり、小さな公園を照らす灯りが夜を告げても、必ず1時間はこのベンチに座り続ける。
あの日、快感が通り過ぎた身体をベッドに横たえながら、あの子は言った。
『わたしの家ってさ、ほんとにお姉中心に回ってたんだ。
わたしなんて、空気みたいなもん。ちっちゃい頃はすっごい怨んだよ。なんで、わたしはお稽古ごとに行かせてもらえないの、って。何にもできないから?って』
あの時俺は、ただなんとなくうなずいていた。
『お姉のこと以外はいっつも喧嘩ばっか。
だからわたし、いっつも馬鹿みたいに愛想ふるってたんだ。わたしが笑わせてれば、なんとなく家族がうまくいくから』
言葉の意味がわかったのは、あの朝の後しばらく経ってからだった。
『でもね、お姉もおんなじだったんだ。ほんとの自分とは違う勝手な期待かけられてさ。
だから、死んじゃった。
それからは、もうメチャクチャ。お父さんは仕事から帰ってこないし、お母さんは訳わかんないことばっかり言ってるし。もう、わたしが何言ってもムダ。ま、そうだよね。最初から空気みたいなものなんだし』
ずっと、あの子は待ってたんだ。それが、今わかった。
でも俺は、俺の名前を教えていない。まだ、シンジと呼んでもらっていない。
あの子は、ずっと待っていたんだ。自分の本当の名前が呼ばれるのを。
だから、今度は俺が待ってやろうと思う。ずっと待ち続けためぐみのために。
暗闇が小さな公園に押し寄せてくる。寒さに身体が引き締まるのを感じながら、ずっと俺はベンチに座り続けていた。
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