12

 階下へ降りると、アイリーンは足音を殺して宿の裏口へ向かった。

 夜更けのためアイリーンたちのほかに誰一人起きている人はいなかったが、物音ひとつで起き出してくる可能性もあるため慎重に行動しなくてはならない。誰かが起きて声を出すと、外の連中に気づかれる。そうなると逃げるのが難しくなるからだ。


 アイリーンたちは外套のフードをかぶって、そっと裏口を開けた。

 小虎が先に飛び出していく。足音一つ立てない小虎はさすがと言うべきか。静かに、けれども素早く外へ躍り出た小虎は、外の安全を確かめるようにきょろきょろと周囲を見渡して、振り返った。


「……ついて来いと言っているらしいね。まったく、聖獣様がいると心強い」


 バーランドが苦笑する。

 アイリーンはファーマン、キャロラインはバーランドに手を引かれて、小虎のあとを追って外に出た。


 宿の裏口を出てすぐに見える山はさほど高くはないが、夜だからだろうか、闇の中から何かが飛び出してきそうな不気味さがあって思わず足がすくみそうになる。

 アイリーンたちが進めば、それに合わせて小虎が先導する。山に入り、ぐるりと迂回する形で進み、追手がいないことを確かめつつ北東へ移動する予定だ。


 陽動で動いてくれている騎士たちをはじめ、バルドワードのことが心配になったが、今は彼らを信じるしかない。彼らは鍛え抜かれた騎士たちだ。身を守る術も心得ている。それにバルドワードは部下想いの男だと聞いた。彼がいるから、きっと大丈夫だ。


 できるだけ足音を殺しながら進んで入ると、突然小虎が立ち止まった。

 どうしたのだろうかとアイリーンが不思議に思った矢先、小虎がその姿を大きな虎へと変え、そのまま地を蹴って高く跳躍した。直後、ドサリと言う物音と、第三者の低いうめき声が聞こえてぎくりとする。


「アイリーン様、ジェネール副隊長のそばに」


 ファーマンが腰の剣を引き抜いた。

 バーランドも剣を構えて、キャロラインとアイリーンを背後にかばう。


 その間にも小虎が木々の合間を縫って駆けだしていった。アイリーンは気づかなかったが、いつの間にか追手が迫っていたようだ。

 存在に気づかれた男たちが、「リアースの聖女の仲間だ!」と叫んだ。これ以上隠れても無駄と判断したのか、木や草むらの影から一斉に飛び出してくる。


「――ッ」


 アイリーンは悲鳴をあげそうになって、寸前でこらえた。「リアースの聖女の仲間だ」と言ったところを見ると、ここに聖女であるアイリーンがいることはまだ気づかれていない。気づかれるとバーランドたちに迷惑をかけることになるだろう。


(……わたし狙いだったのね)


 少なくとも、これで連中の狙いははっきりした。連中の正体は不明だが、アイリーンたちがいることを聞きつけてきたのだろう。

 アイリーンには彼らが何人いるのか把握できないが、小虎が次々と噛みついたり蹴飛ばしたりして男たちを倒していくところを見ると、かなりの数がいるようだった。陽動で分散させてこの数なら、もともと宿を取り囲んでいたのは一つの小隊ほどの人数がいたのではないだろうか。


(……物取りとかじゃなくて、たぶん、どこかの国の訓練された兵士だわ)


 俗にしては人数が多いこともそうだが、なにより統率が取れすぎている。これではいくらバーランドとファーマンが手練れだと言っても分が悪い。小虎もまとめて全員相手ができるわけではないのだ。


「ここを動くなよ」

「お兄様」


 バーランドが飛び出して行こうとした寸前に、キャロラインが兄を呼び止めた。


「だめだ」


 バーランドが振り返らずに答えるが、キャロラインはゆっくりと首を横に振る。


「ここで時間をかけて、散らした連中が集まって来ては元も子もないでしょう?」

「キャロライン!」

「アイリーン、お兄様とアードラー様から離れないで」


 アイリーンはハッとした。嫌な予感がしてキャロラインの腕をつかもうと手を伸ばすが、それよりも早くにキャロラインが反対方向へ駆けだした。


「キャロライン‼」


 バーランドが叫んだ。

 けれどもキャロラインは振り返らず、外套を脱ぎ捨てて、わざと鮮やかな金髪をさらして逃げていく。


「リアースの聖女か!」


 男たちがキャロラインに気づいて声をあげた。彼らはキャロラインのあとを追って駆けだしていく。


「くそっ!」


 バーランドが毒づいた。妹を追いかけたいがこの場を放棄するわけにはいかないからだ。アイリーンもここでキャロラインのあとを追うわけにはいかない。それでは、何のためにキャロラインがおとりになったのかわからなくなる。


「副隊長はそこから動かないでください!」


 バーランドに加勢させず、そのまま待機させたのは、きっと、相手の統率が乱れたからだ。キャロラインを追って半数以上が移動したため、この隙に畳みかけるつもりなのだろう。

 キャロラインは木々の間を縫って駆けて行ったが、女の足ではすぐに追いつかれてしまうだろう。


(……この人数なら、ファーマンとバーランド様でなんとかなるわよね)


 この判断は間違っているかもしれない。けれども、アイリーンはキャロラインが大切だ。もしキャロラインに何かあったら悔やんでも悔やみきれない。

 アイリーンはぎゅっと胸の前で手を握りしめて、大声で叫んだ。


「小虎‼」


 アイリーンの声に、小虎が目の前の三人を蹴飛ばしてから勢いよく振り返って駆け出した。キャロラインの逃げた方へ。


(お願い、小虎……!)


 小虎の足なら追いつけるだろう。彼ならばキャロラインを守ってくれる。

 バーランドが小さく息を吐いたのがわかった。そこからの彼の切り替えは早かった。


「アイリーン、絶対にここから動くな。動いたら守り切れない。……早くけりをつける」


 言うや否や、バーランドが地を蹴った。

 ファーマンと目配せをしたのは一瞬。

 二人はまるで、昔からそばにいた仲間のように息がぴったりだった。


「はあっ!」


 ファーマンが横に一閃剣を振るう。アイリーンには月明かりを反射した銀色の光しかわからなかった。それと呼応するように、バーランドも目の前の敵を切り捨てていく。


 断末魔の悲鳴があちこちで響いていた。

 ツン、と鉄さびのようなにおいが充満して、アイリーンは吐き気を堪えるように口元を押さえる。


 今が夜で本当によかった。いったい何人の死体が転がっているのかはわからない。もしも昼で明るければ、あまりの光景に卒倒していたかもしれない。

 戦っている彼らをよそに、一人暢気に耳を塞いでいることは許されないので、アイリーンは祈るように胸の前で手を握りしめながら、ひたすら早く終わることを願った。


 ここを片付けたらすぐにキャロラインに合流するのだ。すくみ上っている暇はない。いつでもバーランドとファーマンの指示に従えるように、しっかりと目を見開いて、神経を研ぎ澄ませなくては。

 バーランドとファーマンが苦戦している様子はない。それほどかからずに、すべての敵を殲滅できるだろう。そう、思ったときだった。


 ドーン‼


 キャロラインが走って行った向こう側で、耳をつんざくような大きな爆発音が上がった。

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