11

 叩き起こされたのは、夜中のことだった。


 肩を揺さぶられて目を覚ましたアイリーンは、闇の中に浮かぶバーランドの顔に思わず悲鳴をあげそうになった。しかしそれは、寸前のところでバーランドの手のひらに口をふさがれて阻止される。


(ど、どうしてこんな夜中にバーランド様が……)


 それも、部屋の灯りもつけないで。いったい何事だろうか。

 アイリーンはそろそろと上掛けを引き寄せて顔を半分隠した。メイナードにだって寝起きの顔を見られるのは恥ずかしいのに、よりにもよってバーランドに見られるなんて――と、明後日の方向に思考が飛びかけたアイリーンだったが、闇の中でも彼の表情が険しいことに気づいてハッとする。


 バーランドが夜中に部屋に入って来たということは、何かがあったということだ。それも、部屋の灯りもつけられず、声を殺さなくてはならないような何かが。


 奥のベッドを見やれば、キャロラインはすでに起きていて、バーランドと同じように険しい表情を浮かべていた。

 アイリーンの隣では小虎も起きていて、赤い瞳を窓の方へ向けている。何の飾りもないシンプルな遮光カーテンに何かあるはずがないから、小虎が気にしているのは窓の外だろう。


「何かあったんですか?」


 小声で問いかければ、バーランドが小さく頷いた。


「囲まれた」

「……囲まれた?」

「ああ。まだ相手が誰かはわからない。だが数が多そうだ。この宿に泊まっている僕たち以外が狙われている可能性も捨てきれないが、順当に考えて僕たちだと思う」

「そんな、どうして……」

「わからない。物取りか、それとも聖女を狙った一行か。数が少なければ捕えて吐かせることも考えたが、これだけ多いとなると難しそうだ」


 バーランドとアイリーンがやり取りしている間に、キャロラインはさっさと着替えをすませていた。キャロラインが選んだのはシャツとズボンのシンプルな騎乗服だ。キャロラインが動きやすい騎乗服を選んだのを見て、アイリーンはこれから取るべき行動を推測する。宿を取り囲んでいる相手は数が多すぎて捕らえられない。同行している護衛の騎士団総出で彼らと抗争を繰り広げるわけにもいかない。ならば選択できることは逃げることだけだ。


「着替えます」


 アイリーンは即座にそう判断してベッドを降りた。

 奥のバスルームで着替えたアイリーンが戻ってくると、キャロラインが最低限必要なものだけをまとめた袋を手渡してくる。逃げるのに邪魔になる荷物はすべておいていくつもりらしい。


「身分がわかるものと必要なもの以外は捨てていくわよ。あとのことは逃げてから考えましょ」

「うん、わかった」


 こういう時、キャロラインはアイリーン以上に思い切りがいい。のんびりとした家風のコンラード家とは違い、ジェネール公爵家はいついかなる時も最善の選択が取れるように厳しく教育されているからだろう。


 長旅のため、ドレスはかさばらないシンプルなものしか持ってきていない。家紋も入っていない。生地は高いが、おいて逃げたところで少しお金持ちのお嬢様の持ち物くらいにしか思われないはずだ。宝飾品も万が一の時に売り払えるように持ってきているが、それほど多くはない。アイリーンは台座に王家の紋章が刻まれているスピネルのネックレスと、サーニャの指輪の二つを首からかけて、それ以外は置いていくことにした。

 袋には、ランバース国王から預かってきた親書とお金だけを詰める。それを外套の下に隠し持って、蜂蜜色の髪をきっちりと束ねたところで、ファーマンが入ってきた。その後ろには、第二騎士団の隊長であるバルドワードの姿もある。


「隊長、どうですか」


 バーランドが訊ねると、バルドワードは少し長い銀髪をかきながら息をついた。

 バルドワードは四十歳だと言うが、騎士団の隊長職にありながら文官のようにほっそりした体型だからだろうか、それとも単に童顔だからだろうか、もう少し若そうに見える。長めの前髪から覗く瞳は青灰色で、とても優しそうだ。バーランドによれば、その外見に騙されるとあとで痛い目に合うというほどに強いそうだが、見た目だけではまったく強そうに見えない。剣が苦手なアイリーンの次兄オルフェウスの方が強そうに見えるほどだ。


「夜だからね、正確な数がわからない。正面からの強行突破はやめた方がいいだろう。騎士を散らして敵を分散させているから、バーランドとアードラー殿は聖女様たちを連れて裏から逃げろ。私は最後までここに残り、すべてを片付けたあと皆を連れて合流しよう」


 バーランドは何か言いたそうに口を開きかけたが何も言わずに閉口すると、グーデルベルグ国の地図を開いた。今アイリーンたちがいる場所は、グーデルベルグの西の端にあるオルツァの町だ。


「落ち合う場所はそうだな……、ここにしよう」


 バルドワードがほっそりとした指で地図を指す。ここから北東に馬車で一日ほどの距離にあるサバドアという町だった。


「町について三日待っても私たちが現れなければ死んだと思って先に行け」

「隊長」


 バーランドの声に非難がこもるが、バルドワードは薄く笑うと、バーランドの肩にポンと手を置いて部屋を出ていく。

 バーランドは大きく息をつくと、地図を片づけながら切り替えるように言った。


「僕たちがいつまでもここにいては隊長の足でもまといにもなる。急ごう」

「裏手の山を行くことになりますね……。視界が悪いのでこちらも不利になりますが、バルドワード殿の言う通り正面突破は賢明ではないでしょう。やむを得ませんね」


 ファーマンの言う通り、宿の裏手にある山の中を行くのは足場も悪いし、木々が密集しているから視界も悪い。ましてや今は夜だ。相手に気づかれる心配があるため灯りを持つことができないので、厳しい移動になるだろう。


「……最悪の時は二手に別れよう。アイリーンのことは君に頼めるだろうか」

「もちろんです。そのために猊下が私に行くように命じたのですから」


 ファーマンが頷くと、それまで黙ってやり取りを聞いていたキャロラインが険しい表情で口を挟んだ。


「お兄様。もしもの時はアイリーンを優先してください」


 ギョッとしたのはバーランドだけではなかった。

 アイリーンも驚愕して、キャロラインに詰め寄る。


「何を言ってるのよキャロライン⁉」

「おかしなことは言っていないでしょう? あんたは聖女。わたしは一公爵令嬢。どちらを優先するかはわかりきったことだわ。それにアイリーンがいなければ『リアースの祟り』はどうすることもできないんでしょう? あんたが捕まるわけにはいかないのよ。メイナード殿下を助けるって決めたんなら、あんたは絶対に逃げ切らなきゃいけないの」

「でも……」

「でももへったくれもない! いい? 最悪の時はわたしを捨てて逃げるのよ。わかった?」


 キャロラインはアイリーンの肩に手を置いて言い含めるように言うと、バーランドに視線を移した。


「お兄様がこれ以上はどうにもならないと判断した時、わたしを最初に切り捨ててください。二手に分かれるのではなく、わたしを捨てて、お兄様とアードラー様の二人でアイリーンを守って」

「があう!」


 アイリーンのベッドの上で不満そうな声が上がった。キャロラインは小虎を見て小さく笑う。


「そうだったわ。小虎もいるのよね。いいこと? あんたもアイリーンを守るのよ?」


 キャロラインが小虎の頭を撫でると、小虎はごろごろと喉を鳴らしながら赤い目を細める。


「キャロライン……」


 アイリーンがきゅっと唇を噛むと、キャロラインがいつもの飄々とした表情に戻ってひらひらと手を振った。


「あら、最悪の時はと言ったでしょう? 自分から死を選ぶような自己犠牲主義者じゃないわよ、わたし」


 それでも、最悪の時はアイリーンのために命を懸けるつもりでいるのだろう。そんなことをさせるためについてきてもらったわけじゃない。アイリーンは自分の読みの甘さに辟易した。キャロラインとは長い付き合いだ。キャロラインはどんな状況でも最善の方法を考える。よほどのことがない限り取り乱したりしない。もしもの時に彼女がどういう選択をするか、想像できなかったわけではないだろうに。

 バーランドがぐしゃぐしゃと髪をかきむしった。


「わかった。最悪の時はそうしよう。だがなキャロライン。僕は妹一人守れないような情けない兄だろうか? ……少しくらい、信用してくれてもいいんじゃないのか?」


 バーランドのどこか拗ねたような口調に、キャロラインはくすりと笑うと、そうね、と小さくつぶやいた。

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