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 目を覚ましたダリウス王子は、食事を取っていなかったから幾分か痩せて多少の衰弱が見られたけれども、命に別状はないようだった。


「暖かい春の日差しのような熱を感じました。あれはあなたの癒しの力だったのですね」


 丸一日安静にしていたダリウス王子は、次の日にわたしが様子を見に行くとそう言って微笑んだ。


 側近のロレンソさんも外傷はほとんどなくて、わたしがダリウス王子の部屋を訪れたときにはすっかり元気そうだった。


 わたしはダリウス王子の枕元の椅子に座って、彼の手を握って念のために癒しの力を注いでおく。その際に左の手首につけているブレスレットの石を確かめてみたけれど、石は緑色をしていた。


 教皇ユーグラシル様からいただいたブレスレットの石は、あの日、はじめてその色を赤く染めたけれど、次の日には緑色に戻っていた。


 ユーグラシル様は赤く染まればすぐに知らせるようにとおっしゃっていたけれども、わたしはまだ伝えていない。なんとなく――、それを伝えることを迷っていた。


 ダリウス王子は、ロレンソさんに彼が倒れてから彼の体から黒い靄が出てきたあの日のことまですべて聞かされたようだけれど、本人はまったく覚えていないとのことだった。


 ただ眠っていた間、ひどく寒いような気がしていたと言った。凍えるような寒さの中にあって、わたしの癒しの力だけが温かかった、と。


「いったい何があったのか、正直なところ、僕にはまったくわかりません。わかりませんが、あの日、王立大学で僕の前に現れた男からは、嫌な感じがしました。まるで深淵の闇のような――、冷たくて暗い、そんな感じです」


「闇とは穏やかではありませんね。あまりそのことはおっしゃられない方がよろしいかと」


「そうだね。ヴァーミリアン家と同じ末路はご免だよ」


 ダリウス王子が肩をすくめる。


「ヴァーミリアン家?」


 わたしが首を傾げると、ダリウス王子が苦笑した。


「こちらの話です。それよりも、あなたの膝の上にいる動物――、それは聖獣でしょうか?」


 ダリウス王子、聖獣のことを知っているの?


 フィリップ王子は疫病の調査過程で知ったのでしょうからわかるけれど、ダリウス王子が知っているとは思わなかった。だって、リアース教はグーデルベルグでは異教として排除しているものだから。


 わたしが目を丸くすると、ダリウス王子が穏やかな視線を小虎に注いだ。小虎はわたしの膝の上でもふもふの体を長くしてくーくー眠っている。


「こちらの国に来るのですから、リアース教のことも学んできましたよ。その中に、聖獣のことも書かれていましたが、本当に実在したとは」


「その体が光っているのを見ましたからね、間違いはないはずです」


 ロレンソさんまで感嘆したような表情で小虎を見つめる。


 リアース教は異教として、それにかかわるものはすべてグーデルベルグでは禁止されているけれど、城の禁書の中には残っているのだそう。ダリウス王子はランバースに来る前に、わざわざその禁書を閲覧してリアース教のことを下調べして来たらしいわ。


「聖女ど聖獣の力があれば、病はおさまるのだろうか……」


 ダリウス王子がぽつんとつぶやいたその時だった。


「聖女は渡しませんよ」


 背後から声が聞こえて振り返れば、入り口のところにメイナードが立っていた。


 ぴくり、と小虎の丸い耳が動いて、わたしの膝の上から気だるげに飛び降りる。メイナードがわたしのそばまで歩いてくるのを、じっと赤い目で見つめていた。


 メイナードはわたしの肩にそっと手をおいて、にっこりと、しかし隙のない笑みを浮かべた。


「以前もお伝えした通り、アイリーンは私の婚約者ですから」


 だから、元でしょ。


 メイナードから好きだと告白はされているけれど、わたしたちは再度婚約したわけではない。


 というか、――わたしの気持ちが、まだ追いつかない。


 彼の気持ちにどう返事をするべきか、まだ迷っている。


 メイナードが触れている肩が温かい。メイナードに堂々と「自分のもの」宣言をされるのが恥ずかしくて、わたしはうつむいた。


「わかっていますよ。もちろん、聖女を無理に連れ帰るような暴挙を働くつもりはございません。……残念ですが」


 ダリウス王子は本気ではなかったみたい。


 サヴァリエ殿下から、ダリウス王子が疫病にきく薬を探していることを聞いている。もしも本気で聖女を連れ帰る気だったら、薬なんて端から探したりしないわ。


「わかっていただけているのならばいいです。そうそう、あなたの滞在期間ですが、そちらのロレンソ殿からの延長申請が受理されましたのでご報告に。延長は一週間ですが、体調が思わしくないようであれば再度延長いただいて構いません」


「ありがとうございます。ご迷惑を」


「いえ。わが国で起こったことですから、むしろお詫び申し上げたいほどです」


 穏やかな笑みを浮かべる二人。


 でも、わたしは見てしまった。


 小虎が大きな口をあけてメイナードの足首にかぷりとかじりつくのを。


 わたしの表情から血の気が引くけれど、ダリウス王子の前で慌てて小虎をメイナードから引き離すわけにもいかない。


 恐る恐るメイナードを見上げれば、ほんの少しだけ、その笑顔が引きつっていた。






「本当にダリウス王子がフィリップ王子に追手を差し向けたのだろうか? 私にはどうにも不思議に思えてしまうのだけど」


 ダリウス王子の部屋から辞して、王太子の部屋でメイナードと向き合う。


 部屋は人払いがされて、メイナードとわたし、そして、わたしの足元に寝そべっている小虎しかいない。


 ダリウス王子の部屋から出たあと、メイナードは恨めしそうな視線を小虎に向けたけれど、小虎はどこ吹く風。


 部屋に戻ってすぐに小虎に噛みつかれたメイナードの足首を確認したけれど、薄く歯型が残っているくらいで怪我はしていなかったから、本気で噛みついたわけではないんでしょうけどね。


「わたしもそう思います。少なくとも、ダリウス王子は話が通じない方のようには思えませんし」


 もし本当にダリウス王子がフィリップ王子に追手を差し向けているとしても、フィリップ王子の事情を知れば、分かり合える気がするのよ。だって、禁忌とされているリアース教のことも、ランバース国に来るからとわざわざ調べてきた人よ? 何もかもを忌避して、穿った目を向けるような方ではない気がするのよ。


「人の国の事情に口を挟むのもいかがかとは思うけれど、一度フィリップ王子に言ってみてもいいかもしれないね。今回の件も、報告しておいた方がよさそうだ」


 あの黒い靄みたいなものが何なのかはわからないけれど、ダリウス王子の体から出てきたのは事実だし、フィリップ王子なら何か知っているかもしれない。


「そう言えば、リアースの祟りについて、あれから進展ありましたか?」


 フィリップ王子の名前を聞いて、ダニーさんが調べ続けているリアースの祟りについて思い出したのだけれど、メイナードは困ったように微笑んだ。


「まだわからないよ」


「そうですか……」


 疫病騒ぎといい、あの黒い靄といい――、グーデルベルグ国は今どうなっているのかしら?


 胸の奥がざわざわとするような言いようのない不安を覚えて、わたしはそっと胸の上を押さえた。

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