眠りの中の人々

1

 この世に生まれ落ちたとき、心臓は止まっていたそうだ。


 奇跡的に心臓は再び鼓動を打ちはじめ、息を吹き返したが、医者たちは口をそろえて「長くは生きられないだろう」と言った。


 父は落胆して、自分と、自分を生んだ女への興味を失った。


 母は我が子を抱きしめて泣きながら、毎日のように神への呪いの言葉を吐いた。そのせいかどうかはわからないが、次第に精神を病んで、長くは生きられないと言われた我が子よりも早くにこの世を去った。


 一日の大半をベッドの上ですごし、医者たちが持ってくる苦い薬を飲み、体調のいい時には庭に降りる。


 少し動けば咳が出て、無理をした次の日には高熱で動けなくなることは珍しくなかったが、医者をして持って十二、三歳だろうと言わしめた体は、意外にもがんばった。


「殿下、お庭の薔薇がとてもきれいですわ」


 十五歳のとき、同じ年の線の細い伯爵令嬢が婚約者として与えられた。


 彼女はリリアーヌと言い、柔らかい春の日差しのような声で話す、穏やかで優しい女性だった。


 父には母とは違う女に産ませた子がいたが、予想外にくたばらない長子を憐れんだのかどうかはわからない。王位継承権は剥奪されず、婚約者も与えられて、自分がその時に淡い希望を抱いてしまったのも事実だった。


 もっと、生きられるかもしれない、と。


 リリアーヌと庭を歩くとき。


 彼女と二人部屋で本を読んでいるとき。


 城で開催されるダンスパーティーからこぼれ聞こえてくる音楽に合わせて、自室でそっと二人だけのダンスパーティーを楽しんだとき。


 そっと触れ合うだけのファーストキスを交わした十七歳の夏の夕方。


 何度も彼女を妻に迎えて幸せにすごす日々を夢見た。


 殿下、と呼びかける彼女の柔らかな声が大好きだった。



 けれどもそれは、突然終わりを告げる。



 長く生きられないのは、自分の方のはずだった。


 自分の方のはずだったのに、ある日、ある朝、それは嵐のごとく唐突に、避けられない事実として自分のもとに訪れた。


 前触れは何もなかった。


 毎日のように城にやってくる彼女と、次の日の約束をして別れた、その翌朝のことだった。


 リリアーヌが、息を引き取ったという。


 嘘だと思った。


 だって、約束したのだ。


 また明日、と。


 リリアーヌは、線は細いが自分と違い健康体で、決して病弱ではなかったというのに。


 事実を受け止めきれず茫然とする自分の耳に、誰かのつぶやきが落ちた。



 ――呪われた王子。



 リリアーヌの死を告げた言葉を聞いてから、誰の言葉も耳に届かなかったのに、その言葉だけはやけに鮮明に耳の奥に残った。



 呪われた王子。


 

 母が逝き、婚約者が逝き、体が弱いと言われた自分が生きている。


 これが呪われていなくて何だというのだ。


 本来十を少しすぎるほどしか生きられないと言われていた。


 その自分が二十歳をすぎ、もうすぐ二十一になる。


 呪われているのだ。


 この身は呪われていて、自分のかわりに二人は死んだ。


 二人の命を吸い取って、自分はのうのうと生きているのだ。


 死ぬと言われた、この自分が。


 三日、何もする気が起きなかった。


 ただベッドに上体を起こしてぼんやりと三日をすごした。


 四日、ふと窓際の机の上におかれている箱が視界に入った。



 ――あなたが本当に苦しいとき、どうしようもなくこの世が憎いときにあけなさい。



 ふと、母の声が耳の奥で響いた。


 そう――


 この箱は、母が死ぬ前に自分に残した箱だった。


 何の箱なのかはわからない。


 吸い寄せられるように箱に近づき、中をあけると、一通の手紙と地図、それから錆びた一つの鍵が入っていた。


 けほりと咳がこぼれる。


 四日ろくに食べなかったせいで、もともと弱い体が限界に達しているようにも思えた。


 手紙を開くと、母の流麗な字で、「この鍵があなたの願いをかなえてくれる」と書いてあった。


 願いとは何だろう。


 願うことは一つだけだ。



 殿下、と呼びかける彼女の柔らかな声が大好きだった。



 地図を見て、それが王家が所有する別荘のうちの一つからほど近い場所だとわかると、療養のために別荘に行かせてほしいと父に申し出た。


 まだ雪のちらつく冬の日、夏の避暑地として利用することが多い雪深い地域にある別荘に行きたいと言い出した息子に父は眉をひそめたが、生気のない表情の息子がすでに精神を病んでいると思ったのか、意外にもあっさりと許可が下りた。


 もはや、父の中で自分は死んでいるも同然だったのだろう。


 せめて監視下で死んでくれるのならそれでいい――、そんな気配さえするほど、ぞんざいな態度だった。


 だが、別に許可さえ下りればいい。


 父の愛など昔から一度たりとも求めたことはなかったし、求めたところで無駄なことは知っていた。


 父は良くも悪くも王だった。


 父が求めるものは「世継ぎ」だけで、世継ぎになりえない自分に興味はないのだ。彼に親子の情を求めるだけ無駄なのである。


 数人いる彼の妻も似たり寄ったりだ。興味があるのは金と権力。夫や子供はそれを得るための道具。


 この国にいる貴族はとにかく酷薄な人間が多い。


 もちろん、例外だっている。母や、リリアーヌがそうだった。だが、それはほんの一握りなのだと、彼は思っている。


 早々に父のもとから辞すと、次の日には別荘に出立した。


 護衛は必要ないと言ったが、体裁を整えるために兵士は必要だったらしい。予想外の大人数での移動になって、まるで葬送行列のようだと嗤った。


 雪道を移動するので、馬車は休憩を多くとりながら一月かけて別荘へ移動した。


 その間、彼は体調を崩して、何度も引き返そうとついてきた兵士や侍女たちが言ったが、彼は頑として首を縦に振らなかった。


 別荘に到着したころには生きているのが不思議なほどに蒼白な顔をしてやせ細って、気力だけで立っているような状況だった。


 別荘に到着すると彼はすぐさま寝かされて、高熱で五日間起き上がれなかった。


 六日目の朝、まだ体調は悪かったが、起き上がるまでに回復すると、散歩に出ると言って侍女や兵士の手を振り払って別荘を出た。


 せめてついてくるという彼らを追い払うのは簡単だった。


 彼らに一言、例え自分が死んでも彼らには一切の責任はないし、父にはすでにそう告げてあると言いさえすればよかった。


 誰も心の底から、彼を心配していなかったのだから、ただその一言で、彼は自由を手に入れることができた。


 彼は地図を取り出し、ふらふらとよろけながら別荘から伸びる道を進んだ。


 雪は彼の体力を奪い、途中何度も膝をつかせたが、それでも彼は進み続けた。


 針葉樹の林を抜けて、さらに進んだところに、雪に埋もれるようにして、白い石の墓が立っていた。


 棺を土に埋める土葬が主流のこの国で、それは少し異質だった。


 墓のすぐ下には階段があり、それは地下へと続いていた。


 足元に気をつけながら地下へ降りると、光のほとんど入らない暗い部屋の奥に、真っ白い棺がおいてあった。


 それには何重にも錆びた鎖が巻かれて、鍵がかけられていた。


「……鍵」


 彼はポケットから鍵を取り出すと、それと棺とを何度も見比べた。


 もしかしなくとも、この棺の鍵なのだろうか。


 そう思うと、ゾッとした。


 母はなんてものを残したのだろうか。棺を暴けというのか。茫然とたたずんでいると、コツン――と誰かが階段を下りてくる足音が聞こえてハッとした。


 振り返ると、まるで月のように美しい銀色の髪をした男が立っていた。


 警戒するよりもまず、まるで吸い込まれるように、男の翡翠のように濃い緑の瞳を見つめていた。


 濃い緑色に、角度によって金色の光彩を放つ、不思議な色の瞳だった。


 古来、魔術師と言われていた人間が多く持っていた色だという。


 だが、魔術師と呼ばれる人間たちは、もう何百年も前に滅んだと言われていた。


「かなえたい願いがありますか?」


 男は双眸を優しく細めて、そう問いかけた。


「願い……」


 ぎゅっと、鍵を握りしめる。




 ――殿下、と呼びかける彼女の柔らかな声が大好きだった。




 鍵を握りしめて、きつく双眸を閉ざし、絞り出すように答えた。




「リリアーヌを、返してほしい――」

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