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 ああ、ファーマン。寝起きの髪が乱れた姿もよかったけど、身だしなみをぴしっと整えたあなたはもっと素敵。


 メインダイニングの扉の前で、部屋の中の状況の整理に戸惑っているのか、ファーマンの目はわたしを見たりメイナードを見たり、セルマを見たりと忙しい。


「アイリーン」


 わたしがうっとりとした視線をファーマンに向けたのが気に入らなかったのだろう。


 腕を伸ばしてきたメイナードが、わたしの頬を両手でむにっと挟むと、無理やり自分の方を向かせてしまった。


 ちょっとー! 今グキッて! グキッていったよ首が!


「アイリーン、とにかくゆっくり話し合おう。結論が出るまで、ゆっくりね」


 結論なんかすでに出てるっての!


 あんたの言う結論は「自分に都合のいい結論」でしょ? そんなもの、わたしがおばあちゃんになっても出てこないから!


「殿下はリーナと一緒に幸せになったらいかがですか! わたしはわたしで『別の』素敵な方と幸せになりますから!」


 別の、と強調してやると、メイナードがまるで捨てられた子犬のような目をした。


「どうしてそんなひどいことを言うんだ?」 


 ちょっとみなさんー! 


 この人、今、自分のことを丸っと棚上げしましたよ!


 むっとしたわたしは、メイナードの手の甲をむぎゅっとつねってやった。


「殿下。いいですか? で・ん・か・が! 婚約破棄したいとおっしゃられたんです。そうでしょう? なのに『今の』婚約者とお幸せにって言ったわたしのどこが、ひどいんでしょうか?」


「誤解だよ」


「どんな誤解だ‼」


 わたしはとうとう淑女の仮面をかなぐり捨てた。


 え? もうすでに淑女じゃなかったって? いーえ! これでも我慢していたんですよ。相手が王子だからね。


 ぎゅううっと力強くつねってやると、メイナードは顔をしかめてようやくわたしの顔から手を放した。


「殿下、わたしと殿下は十八年間婚約関係にありましたが――」


「そう! わかってくれた?」


 おいこら口を挟むな!


 わたしがキッと睨みつけると、殿下はしゅんとして口を閉ざした。


 わたしはコホンと咳ばらいをすると、びしっとメイナードに指を突きつける。


「婚約破棄した今、わたしとあなたの関係は無関係! 恋人でもなければ友人でも親戚――は、多少血のつながりがありますけど、とにかく! 殿下にわたしの幸せを邪魔する権利はこれっぽちもございません! わたしは『殿下以外』の殿方と幸せになりたいんです! 勝手に過去の自分の所業を婉曲させて都合のいいこと言ってんじゃないわ!」


 今度は口を挟む余裕もないほど、勢いよくまくしたててやった。


 あー、すっきりした!


 わたしは満足すると、しっしと犬を追い払うみたいに手を振ってやる。


「わかったらお帰りください。わたしはこれから朝ごはん―――」


「アイリーン!」


「……ちょっと」


 メイナードがぎゅうっとわたしの手を握りしめてきた。


 はーなーせー! 


 わたしは手を振り回して殿下の手を引き離そうとするが、がっしり両手で握りしめられて、まるでタコの吸盤みたいにくっついて離れやしない。


 しかも、心なしか何かに感動したみたいに目がうるうるしていますよ。


「アイリーン! 私が悪かった! 君がそんなに傷ついていたなんて知らなかったんだ。そんなに私のことが好きだったんだね。もう大丈夫、今度は絶対にこの手を放さな――ぶ!」


 わたしは握りしめられていない方の手で、殿下の顔を力いっぱい押しのけた。


「どこをどう聞いたらそんな結論に至るんですか!」


 傷ついていたかって言われたら傷ついていましたけどね! 


 わたしはわたしが殿下に傷つけられた話をしているんじゃなくて、あんたとは無関係だって言ったのですよ!


 あんたの頭は異次元にでもつながってるのか! ネジ緩むどころかもう数本飛んでるよね!


 わたしは怒りと疲労でおかしくなりそうになって、ファーマンを振り返った。


 助けてーって言ったらファーマン、困っちゃうのかしら。


 ファーマンが騎士団の中でどれほどの地位なのか全然知らないんだけど、一介の騎士が王子に逆らえるはずもない。


 わたしも聖女なりたてで聖女の権力がどこまで通用するのかわからないから、何をしてもオッケーよ、やっちゃえやっちゃえー! なんて口が裂けても言えません。


 ここは自力でこのアホ王子を追い返すしかないのかー。ぐったりだよ。朝なのにすでに一日の体力も気力も根こそぎ持って行かれたよー。


「殿下、もういい加減に……」


 この人、どうしてそんなに「聖女」にこだわるんだろう。


 聖女は確かに大切なんだろうけど、一度フった女に必死に求婚するなんて、矜持をかなぐり捨てているとしか思えない。


 もともと馬鹿だけど穏やかなメイナードは、山のようにプライド高い人ではなかったけど、さすがにここまでなりふり構わないような性格ではなかった気がする。


 殿下、聖女って言うけどさ、聖女に選ばれてから今まで、わたし、何一つ変わってないのよ。癒しの力が強くなったわけでも、無敵なスキルを覚えたわけでもない。


 ただ「聖女」っていう名前のオプションがついただけ。例えば結婚して名前が変わるのと一緒だと思う。


 正直、聖女がなんなのかわかっていないけど、「国に存在しさえすればいい」というたいした力もないまるでお人形のような女に、そこまで必死になる理由がどこにあるの。


 聖女に選ばれてしまったから、いずれは聖女について学ばなければいけないときが来ると思うけど、今のわたしには、所詮その程度の名前なのよ。その程度の認識なの。


 亡くなった前の聖女様も、前王弟殿下の奥方として、社交の場に姿を現すくらいで、特別何か聖女としての仕事をしていたようには見えなかった。むしろ極力表に出さないように、城の奥深くで隠されるように生活されていた方だと思う。まあそれは、他国にかっさらわれないような措置なんだろうけどさ。


 つまりわたしも、もしもメイナードと結婚したら(しないけどね!)、同じように城の奥でお人形のように生活するんだろう。


 でも、そこまでして手に入れたくて守りたい聖女ってなんなのかしら。


 今まで全然実感がわかなかったけど、「聖女」に選ばれた時点で少なからずわたしの人生は変化するんだろうなーと思ったら、ちょっとだけ肩が重くなった。


「アイリーン、君のためなんだ」


 メイナードは手を握りしめたままそんなことを言う。


 わたしのため?


 わたしのためを思うなら、この手を放して帰ってほしい。


 わたしがうんざりと息を吐きだしたときだった。


「恐れながら殿下――」


 扉のところで固まっていたファーマンがいつの間にかわたしのそばにいて、わたしの肩を守るように抱いた。


「殿下にアイリーン様は差し上げられません」


 予想外にもきっぱりと言い切ったファーマンに、わたしは目を丸くしてしまった。

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