隣の部屋の誰かさん 【読み切り】

家島

隣の部屋の誰かさん

 大学生の林太郎は、家に帰ってきたらまずピアノを弾く。




 ベートーヴェンのピアノソナタ第23番は、第1楽章、第2楽章、第3楽章と3曲から成っており、この順で弾くのが通例だ。第2楽章は「Andante con moto」と冒頭に指示があり、音楽的内容からもゆったりとした気分の曲である。第3楽章は「Allegro ma non troppo」と指示があり、4分の2拍子で16分音符が絶え間なく続くなど、激しい曲である(曲の速さの解釈は様々)。伝統的なソナタは、「ゆったりとした曲→激しい感じの曲」という曲の移り変わりも魅力の一つである。


 ハ長調やイ短調の曲など、長音階、短音階で書かれた音楽は、安定した響きの和音、協和音に重きを置いている。特にベートヴェンが活躍した前後の時代は、不安定な響きの和音、不協和音を鳴らしたら、続けて協和音を鳴らして、不安定感を解消するという方法が取られていた。


 このピアノソナタ第23番もそんな時代の音楽であるが、第2楽章は不協和音(※ヘ短調の減七和音の第2転回形 シ♭ レ♭ ミ ソ シ♭)を「ff」、フォルティシモ(きわめて強く)で鳴らして曲を終えるというおもしろい内容である。さらに、それは続く第3楽章の冒頭まで影響する。第3楽章は、その和音を形を変えて、同じくフォルティシモで連打して開始する。この楽章の締めは、全3楽章、すなわち「ピアノソナタ第23番」という組曲の締めでもあり、ヘ短調の主和音(ファ ラ♭ ド)を強く鳴らして終わる。この和音は、協和音である。その他の曲も、協和音、特にその調の主和音を鳴らして曲を締めくくるのが通例であった。


 このソナタは、他の部分も含め、ドラマティックな作品と称され、『熱情』という愛称が付けられている。また、ベートーヴェンの最高傑作の一つとして名高い。




 林太郎は、窓から差し込む夕日を左肩に受けて、ピアノソナタ第23番を通して演奏している。


 第2楽章の最後の音、ヘ短調の減七和音(シ♭ レ♭ ミ ソ シ♭)を第3楽章の幕開けという意を込めて、力強く深くフォルティッシモで、ジャーン、と鳴らした。フェルマータ。


すると、


ジャーン


と不意に、隣の部屋から、ピアノの音が聴こえてくる。第3楽章を始めようとしたときだった。


 林太郎は息が途切れてしまい、仕切り直しを意図して、もう一度、幕開けの不協和音、ヘ短調の減七和音をフォルティッシモで、ジャーン、と鳴らす。


すると、


ジャーン


と、また隣の部屋からピアノの音が聴こえてくる。林太郎は、隣の部屋の人は狙ってやっているのでは、と思ってもう一度、ジャーン、と鳴らした。


ジャーン


と、どうやら、隣の人が鳴らした和音は、ロ短調の主和音、Bマイナー(シ レ ファ#)。さらに、林太郎は、試しに、減七和音を基本形(ミ ソ シ♭ レ♭ ミ)にして、ジャ ジャーン、と鳴らしてみた。


ジャ ジャン


と、どうやら、隣の人が鳴らした和音は、ヘ短調の主和音、Fマイナー(ファ ラ♭ ド)。


 林太郎はそのまま、第3楽章を弾かずに演奏を終えた。

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隣の部屋の誰かさん 【読み切り】 家島 @Shochikubaitaro

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