109 一瀬浩貴を甲とし、橘琴葉を乙として、
「引っ越しましょう!」
「はい?」
試験もレポート提出も無事に終え、やっと迎えた春休み初日。
橘は机を思い切り叩いて立ち上がり、唐突に切り出した。
「なんでまた急に」
「急じゃないわよ、ずっと思っていたのだけれど」
憤慨した橘はキッチンを指差して続ける。
「まず、まな板の置き場もないほどのシンクの狭さ! 流し台も小さいし、それにコンロも一つしかない!」
「コンロなんて二つも三つもいるのか……?」
「その方が色んな料理を同時進行できて効率的なのよ」
「ほへぇ、さいですか」
料理にさほど明るくない(なろうともしていない)自分には分からない話だ。
まぁでも、我が家の料理担当がそう言うのだから意見は汲むべきだろう。
「そ、それに……」
「ん?」
何やらもじもじ身体をよじらせながら口を開く橘。
「たまに着替え見られるし……」
「はあ!? いや待てそれは冤罪だ! お前がここで着替えてるのが悪いんだろ?」
当初決めたルールでは、着替えは脱衣所ですべて行うようになっている。ロックもかけられるので、事故の心配もない。
それなのになぜか、朝起きると橘が目の前で普通に着替えていたりするのだ。
「だって朝の脱衣所寒いんだもの、仕方がないでしょう?」
「仕方がないのは俺だな!? ていうかさっきからそのもじもじ演技やめろ。別にお前そこまで気にしてないだろ」
「えぇ? 私はいつもあなたの好奇の視線に怯え暮らしているのよ?」
「ははは……面白い冗談だ」
じゃあ風呂上りにキャミソール姿で脱衣所出てくるのやめてくれませんかね……。
この暮らしを始めてもう二か月。いや慣れるの早すぎるだろ。
────かくいう俺も、そんな橘を見ても動揺しないくらいには慣れてしまったが。
「ま、まぁ……言い分は分かった。確かに先日の期末の時も、ワンルーム故に困ったわけだしな。新学期を機に引っ越すか」
「決まりね」
丸二年暮らしたこの下宿も気に入ってはいたので名残惜しいが、これもいい機会だろう。
この時期なら、不動産の契約を考えても丁度いいからな。
「問題は条件だな。バイトもあるし、場所はやはりこの辺だと助かるが──」
「そういえばあなた……」
思い出したように口を開いた橘が俺の言葉を遮る。
「結局いくつバイト掛け持ちしてるの? 家庭教師に飲食店、塾もやってたかしら」
「あれ知らなかったか。その他に臨時でコールセンターとか書類作成の仕事とかもたまにしてる」
「そんなにしなければならないほどここの家賃高かったかしら? というか私もやはり払った方が良かったわよね?」
「そういえばそういった金銭の話はなあなあにしてきたな。よし、じゃあ今日は契約書でも作るってのはどうだ?」
「いいわね、この際いろいろ決めておきましょう」
こうして、俺たちはたっぷりある春季休暇の時間を、契約書作成に費やすこととなった。
まずはやはり金銭的な所だ。普通なら夫婦の残高は共有されたりするものだが、流石にそういう訳にはいくまい。しかし、家賃から始まり食費や光熱費など、二人で使う生活費はできるだけ折半するのが無難だろう。
「毎度毎度お互いの財布から半分ずつ出し合うのは面倒だよな。それこそ家賃の振り込みの時とか。額も大きいし」
「そうよねえ。やっぱり二人用の口座を新しく作った方がいいかしら」
「引き落とす手間が省けるからその方がいいだろう。それと、今は毎回俺が後から半分払っているが、食材や日用品の買い物の支払いもなんとかしたいところだ」
「それなら、共同の財布を作るってのはどう?」
「共同の財布?」
「ええ、まず二人が同じ額そこに入れておくの。そして二人の買い物の時は、その財布から支払う。勿論お釣りもそこに入れる。そして足りなくなったらまた同様に同じ額出資するの」
「なるほど。実に合理的だ」
今までは橘が買い物から帰ってきた後で、
「いくらだった?」
「3500円だから1750円ね」
「まじか、今俺大きいのしかないわ」
「じゃあ一万でいいわよ、お釣りはいらないわ」
「いや俺が要るが!?」
……みたいな応酬を繰り返してきたので、その煩わしさがこの方法なら随分解消されるだろう。
「どちらか一方しか使わないものは今まで通り別々で払えばいいとして、甲乙どちらも使うけれど偏りが大きいものはどうしましょう?」
パソコンに契約内容を打ち込みながら話す橘は、早くも契約の呼称が喋りに出ていた。ちなみに、俺も同時にWordの画面を共有して、契約内容を編集することができる。便利な時代だ。
「とはいえ、そんなものあったか? メシも食べる量殆ど変わらないしなあ」
「むっ、あなたはもっと食べなさい」
「はいはい」
鋭い視線を向けられて、俺は両手を仰ぐ。
俺が取り立てて少食というよりは、彼女が普通にしっかり食べるだけなのだが、やはりそこは最低限女子の尊厳があるらしい。運動もしない一人暮らしで細くなった胃には厳しい注文だった。
「シャンプーやリンスはやはり私が多く使ってしまっていると思うの。それを割り勘で払うのは少し忍びないわ」
「いやいや、別にいいよそれくらい」
確かに橘は女子の中でも髪は長い方だし、俺は滅多にリンスなんて使わないので、彼女の言い分は事実だろうが。その僅かな誤差の為に、支払い方法を工夫する方が面倒だ。
「駄目よ! ただでさえ今まで家賃もそうだし、家にあるもの諸々使わせてもらっていたんだから」
「いやいや、こっちは料理作ってもらってるだけでお釣りが来るほどだって」
「いーえ。それは二人で決めた分業だから貸しにはならないはずよ。そうだ、これから毎日私があなたより多くシャンプー使ってる分、10円ずつ貯金箱に貯めようかしら。名付けて、シャンプー貯金。いいわね、それである程度貯まったら一瀬に返金しましょう……」
「プッ」
俺は思わず吹き出した。夢中で考え込む橘があまりに可笑しくて。
「いやなんだよシャンプー貯金って」
「もう! そんなに笑わなくたっていいじゃない、こっちは真剣なのよ」
「俺それ貰う時全部十円玉な訳だろ? 丁重にお断りしておくよ」
笑いすぎて目尻に溜まった涙を拭う。本当に、コイツとの生活は退屈しない。
さっきまでとても合理的だったのに、何故こうも変な発想になるのやら。
「橘って変なところ律儀だよな。こんな変な結婚してるのに」
「親しき中にも礼儀ありって言うでしょう。私はこんな結婚だからこそ、しっかりしたいだけよ」
「気持ちはわかるけどな。シャンプー貯金だけは、気持ちだけ受け取っておくよ、クク……」
「もう何回笑うのよ!」
思い出しては何度も腹を抱える俺に、橘は半分照れたような顔で怒っていた。
この肌に馴染んだ部屋とお別れするのは寂しいが、おそらく次の家での生活は、もっと長く深く馴染んでいくことだろう。
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