ぼくらのベストショット
もり ひろ
ぼくらのベストショット
「ねえ新人くん、名前、何て言うの?」
急に隣から話しかけられた。僕の名前。僕は一体、なんて名前なんだろう。
「僕の名前はわからないけれど、まわりからはキヤノンって呼ばれているよ」
「そう。わたしはニコン、よろしく。こういうの、初めて?」
彼女が言う「こういうの」がどういったものを指しているのかわかりかねて、返事に困る。
「きみ、中古のカメラ屋に売られたのは初めて?」
僕がもごもごと返事に困っていると、彼女の方から「こういうの」について教えてくれた。ついでに「ここ」のことも。
「ここはね、中古のカメラ専門店なの。あの人がここのオーナー」
僕はガラスの向こうに見える初老の男性を眺めた。穏やかそうな目元、幸せを蓄えたお腹、福を呼び寄せる耳たぶ。七福神にこういう人がいたような覚えがあるけれど、詳しくはわからない。綺麗に抜け整った頭は、照明の反射をしている。ニコンはオーナーを「レフ板」と呼んでいるんだそうだ。
「新人くん、随分と傷があるね。前の持ち主はカメラの扱いが雑だったのかしら」
「そうだね、けっこう、痛い思いはしてきたよ」
「大変だったんだね。わたしの前の持ち主はね……」
彼女は、かつての持ち主だったという老爺について教えてくれた。
◇
わたしの前の持ち主は、東野さんって人だった。
わたしが初めてその人に出会ったのは、やっぱり中古のカメラ店だったの。大通りから裏に入った、こじんまりしたお店でね。昔はそっちの裏通りの方が街道で、けっこう栄えていたそうなのだけれど、幹線道路ができてからは普通の住宅街になってしまったと聞いた。
そんな裏通りを先代から何十年も見てきたお店で、わたしはけっこう長い期間を過ごした。わたし、けっこう年代物だから、なかなか買い手がつかなくて。
そんな時に東野さんがお店に現れた。老後の楽しみにカメラを始めようと思うんだって店主と話しているのを眺めていたら、ふと東野さんと目が合った。
その途端に、東野さんが嬉しそうにわたしを手にして、
「これは、私がむかし憧れたカメラじゃないか。マスター、私はこれを買うよ」
って。
本当に嬉しそうな顔でわたしを買って行ってくれたの。東野さん、かつてカメラに憧れたこともあったけれど、苦労続きの人生でカメラなんて手にできることはなかった。
ようやく時間とお金に余裕ができた東野さんは、わたしを買っていった。
彼はね、わたしをいろんなところへ連れて行ってくれたわ。
フランスのモンサンミッシェル。ペルーのマチュピチュ。北欧のフィヨルドや大きな氷河も一緒に見た。
どれも雄大で、とても素晴らしかったわ。わたし、海外なんて行ったことなかったから。中古のカメラ屋にいたら見られない景色を楽しんだ。もっと前の持ち主とも見たことがない景色を東野さんと一緒に見てきた。
でも、それも長くは続かなかった。
東野さんが体調を崩して、外出ができなくなっていった。つまらなそうに窓の外を眺める彼の姿を見る日々が続いた。
そんなある日、東野さんが家族に、どうしても外出がしたいと言った。お医者さんとも相談をして、彼の娘さんも一緒に行くことになったの。
行先は、日本の港町。真鶴、という町だったと思う。東京から電車で一時間くらいのところにある小さな半島で、とっても長閑だった。
わたしたちは港を一望できる高台にある民家に向かったの。民家って言っても、今は誰も住んでいなかったけれど。
そこはね、東野さんが生まれ育った家だったの。何年か前までは東野さんのお母様が住んでいたらしいのだけれど、他界してからは東野さんのお姉さんが時々掃除に来ていたらしい。
お姉さんだって高齢になっていたし、東野さんだって体調がなかなか好転しなかった。
そうして、家の取り壊しが決まったそうよ。
東野さんはね、どうしても生まれ育った家から、港を、自分の故郷を眺めたいって言ったの。自分の想い出の詰まった景色を、写真に収めたいって。
東野さんは生家の窓辺に立って、一心にわたしのシャッターを切った。
港に帰って来る漁船。出て行く遊覧船を追って飛ぶカモメ。防波堤に点々と並ぶ釣り人。そばの小道を駆け抜けていく小学生。半島に生い茂る緑の木々とブルーの海、淡い空の色。
彼と今まで見たどんな景色よりも、わたしには美しく見えた。そして、もう見れなくなってしまう儚さを感じた。
無言でシャッターを切り続けていたのだけれど、娘さんが東野さんの体力を心配して、「もうそろそろ帰ろう」って声をかけた。あの時の東野さんの目には、取り壊し前に撮影ができた喜びと、寂しさが滲んでいた。
あの写真が最後だったわ。
東野さん、取り壊しが終わってから亡くなったの。
彼は、現像した港町の写真を大事そうに手にしながら、安らかに、眠るように息を引き取った。
◇
「わたし、フィルム機だからなかなか次の買い取り手がつかないのよね」
と笑ってみせた彼女の目は、憂いを帯びていた。
「キヤノンくんは、どんな写真を撮っていたの?」
僕の撮ってきた写真。ニコンの見てきた世界とは全く違う。僕の撮った写真について語るのは、躊躇いがあった。
「なになに、何の話?」
僕がどうすべきか悩んでいると、一段下のコーナーから声が聞こえた。
「あら、ペンタックスさん。今ね、わたしの前の持ち主について話していたのよ」
「なるほど、俺の前の持ち主は、こんな人だったぜ」
彼は、前の持ち主について、穏やかな口調で語った。
◇
俺の前の持ち主は、普通の会社員の男性で、北沢さんって人。
カメラなんて縁がなかった彼がどうしてカメラを買ったのかって言うと、彼にとって、人生最大のイベントがあったからだ。
なんだと思う?
違う。それも違う。あ、ニコンさん正解。
そう、彼の息子の誕生。
彼はね、生まれてくる息子くんのためにカメラを買ったんだ。初めての一台だから、初心者用のカメラを店員に勧められたんだけれど、息子をちゃんと撮りたいからって無理して、予算との兼ね合いもあったから中級者向けモデルの俺を買って行った。
生まれた瞬間にちゃんと撮影できないとダメだって言って、彼は手あたりしだいにシャッターを切った。
初めて手にしたカメラのオート機能を全部オフにして使うもんだから、画面が真っ暗になっちゃって。モニタで確認しながら、「カメラ壊れているんじゃないか」って首をかしげてたよ。
今は便利だから、インターネットで「デジタルカメラ 真っ暗」みたいに検索したら、すぐに感度や露光時間、絞りを調整することについて見つかってさ。
それからは狂ったように奥さんの写真を撮っていた。人間を撮るなら、人間で練習するべきだって言ってたね。起きている奥さん、寝ている奥さん、こっそりプリンを食べている奥さん、お腹がだいぶ大きくなってきた奥さん。
それからしばらく経ったある日。彼は俺を抱えて病院へ走った。
俺らが病院に到着した時、奥さんの叫ぶ声が聞こえて、すぐ後に元気なうぶ声が響いたのを覚えているよ。
北沢さんは消毒なんかをされて、奥さんと息子くんが待つ部屋へ入った。
まだまだ生まれたてで、ところどころがシワシワの息子くんを、夢中で撮った。おんなじような写真ばっかりだったけれど、北沢さんも奥さんも本当に嬉しそうで、幸せそうな顔して。奥二重の小さな目は北沢さんだけれど、あひるみたいに口角が上がった口の形は奥さんそっくりだったな。
それから北沢さんは毎日のように息子くんの写真を撮っていた。泣いているところ、寝ているところ、おっぱいを飲んでいるところ。よだれを垂らしたって、ゲロしたって、お風呂でうんちしちゃったって、北沢さんは撮り続けていた。
入園式、お遊戯会、遠足、卒園式。七五三、誕生日、クリスマス、お正月。入学式、運動会、授業参観。少年野球チームに入った息子くんが白球を追う姿も、カメラを使いこなして、高価なレンズを買って、撮り続けたんだ。
それも、息子くんが中学に入るまでかな。息子くんは野球の試合に北沢さんご夫妻が観戦に来るのも煙たがっていたし。最後に俺が彼の姿を撮ったのは、彼が野球で全国大会に出場した時。その決勝戦が最後だった。
俺はさ、彼がプレイする姿を撮るのが好きだったんだ。外野に抜けそうな強い打球を横跳びで捕らえてさ、華麗な身のこなしでアウトを取る。かっこよかったんだぜ。俺は痺れたね。
そんな彼の姿を撮れなくなって、俺は寂しかった。こころの中に、ぽっかりと空間ができちまって。
俺は、彼の成長する姿をこれからも撮り続けていたかったよ。それは北沢さんも同じ思いだったと思う。
親のこころ子知らずとは言うけれど、俺らカメラの気持ちなんて、なおさら届かないんだな。
結局、北沢さんは息子くんを撮らなくなったし、携帯電話のカメラの性能が格段に良くなったこともあって、俺を売っちまったんだ。
それでも、息子くんが生まれた瞬間に見せた北沢さん夫妻の顔を、俺は一生忘れないと思う。
◇
「不思議な気持ちになったよ」
僕はペンタックスにそう告げた。これがどんな気持ちなのかわからなかったけれど、今までに感じたことがなかった。不思議、だった。
「そういえばさ、オリンパスもなかなかな経験したよな」
「ええ、ボクの話もするんですか?」
さらに下の棚から、若い声が聞こえた。彼はオリンパスのミラーレス一眼カメラらしい。
「ボクの前の持ち主が、可愛そうなヒトでした」
◇
ボクの前の持ち主は、西村くんです。大学生で、けっこうおしゃれな服装していました。細くてちょっと中性的な雰囲気もある、男性です。
西村くんには好きな人がいました。同じ学科の、三波さんって女の人です。
三波さんはカメラをやっていました。写ガールって言うんですかね。彼女は大学にもカメラを持って来ていました。
西村くんは、その三波さんと仲良くなりたくて、カメラを買うために大学生協のアルバイトをしたそうです。当時、ボクは最新機種だったのでそこそこ値が張りましたし、けっこう彼も頑張っていたと思います。
そうして、ボクは箱に詰められて彼の下宿へ届けられました。初めて彼と目が合った時、ずいぶんニヤニヤしていましたよ。一体、ナニを考えていたんですかね。
彼はボクを手にした翌日に、大学にボクを持って行きました。その日も三波さんは、カメラを持って来ていたんです。
その時、ボクは目を、いや、レンズを奪われました。三波さんに、ではありません。彼女が持っていたカメラに、です。
ボクと同じ機種のカメラです。ストラップと一体型のレザーカバーをかけられて、とてもおしゃれでした。
ボクには匂いはわからないけれど、きっといい匂いがしているんだとわかったほどです。
西村くんは勇気を振り絞って、三波さんを誘いました。震える声で「一緒に写真撮りに行かない?」って。ボクを握ったまま言うから、ボクは彼の手汗にまみれてしまいましたが、ボクは彼をこころから応援しました。
西村くんが三波さんと会えれば、ボクも彼女と会えますから。
西村くんたちは待ち合わせをして、南禅寺へ行きました。自然と歴史的建造物のコントラストが素敵な場所ですが、ボクも西村くんもそれどころじゃあなかったです。
水路閣や仏閣の写真を撮りながら、本当は彼女の姿を撮りたいと思っているのを感じていました。ボクだって、それを期待していました。
西村くんは緊張しすぎて、とてもぎこちない喋り方をしていました。ボクだって、シャッター音がちょっとおかしくなっていたかもしれません。
買いたてのカメラの使い方がわからずにいると、三波さんが彼に使い方をレクチャーします。二人で肩を並べて、一緒に画面を見ながら操作方法や写真の基礎知識を伝えます。
そのとき、ボクと彼女もとても近い距離でした。お互いの操作音が聞こえるくらい。ボクも勇気を出して、声をかけてみました。
「いい天気ですね」
「ほんとに、いい天気で気持ちいいね」
彼女の柔らかで人懐っこそうな喋り方に、ボクはもうノックアウト寸前。ドギマギして、そのあとに何を話したのか覚えていません。
夕方になり、三波さんのおすすめの場所、というところへ行きました。
京都の東側にある大文字山です。西の斜面にぽっかりと開けた、五山の送り火の火床へ辿り着きました。ちょっとしたハイキングでしたが、西村くんはどうってことないという顔をしてみせていました。
大文字の火床からは、京都の街が一望できます。京都タワーだって、吉田山だって、平安神宮の大鳥居だって、全部が見えます。
西の山へ沈んでいく夕日、徐々に煌めき始める夜景。背後から迫る夕闇。じわじわと街を飲み込む漆黒と、行き交う車のヘッドランプ。
二人は夢中でシャッターを切りました。
本格的な闇が二人を包み込んだころ、三波さんが言いました。
「いいところでしょ。京都で一番好きな場所の、一番好きな時間なんだ」
「そうなんだ。僕も今日からここが一番好きな場所になったよ」
三波さんは「ね、いいよね」と笑っていました。カメラのボクにもわかるくらい、素敵な笑顔でしたよ。
「西村くんはどうしてカメラ買ったの?」
「僕は、なんていうか、三波さんが写真撮っているのが楽しそうだったから、かな」
大事なところで、彼は少し誤魔化しました。こころの中で応援してみたけれど、彼はそれ以上言葉を紡ぐことができません。
「わたしはね」
三波さんの方から勝手に喋り出します。
「真中先輩がカメラやってたからなんだ」
西村くんが動揺するのがわかりました。真中先輩というのは、西村くんの大学の先輩です。
「真中先輩が写真撮ってるところがかっこよくて、仲良くなるきっかけが欲しくて、わたしも買っちゃったんだ。これは、みんなには内緒だよ? 西村くんにしか言ってないんだからね」
西村くんは、彼女に見つからないくらい、本当に少しだけ涙を流していました。夜景を複雑に映した涙を拭って、「僕、応援するよ。先輩と仲良くなれるといいね」と言った彼は、すぐにボクを売却しました。
彼の恋が終わったと同時に、ボクの恋が終わった瞬間です。
◇
「おいおい、オリンパス。持ち主だけじゃなくて、お前もかわいそうだよ。俺は泣きそう」
「この話、実は続きがあって。こっそりボクは三波さんと彼女の写真を撮ったのです。もちろん、西村くんにも気づかれないように」
「そんなの、帰ってからデータを見返したらバレるじゃないか」
「西村くんはとても驚いていましたけれど、その写真を何度も見返していましたよ」
「恋って大変だな」
僕が今まで見てきた女性たちは、恋をしていたのだろうか。彼女たちの顔をゆっくりと思い出す。
「それで? キヤノンくんはどうだったの?」
ニコンが僕に話を振る。僕が撮って来たものを思い出してみたけれど、どうしても話したい気持ちにはなれなかった。これがどんな感情なのか、感情に見合った言葉が見つからない。
僕は女の人の写真しか撮ったことがない。
屋内。屋外。プール。公園。廃屋。森の中。車の中。
スーツ姿。ウエディングドレス。セーラー服。水着。下着姿もあったし、何も身に着けていないこともあった。
女の人たちは、笑っていることもあったし、澄ましていることもあった。苦しそうに顔をゆがめたり、呻いたり、泣いていることだってる。笑っているのか泣いているのかわからない人もいた。
それなのに、どんな表情をしてたって、その誰もが気持ちよさそうに見えて、気持ちが悪かった。
僕は何度も逃げ出したくなった。カメラに脚が生えていれば、僕は今頃逃げ出していたと思う。三脚が装着された時に、なんども走り出そうと思った。どれだけ三脚に意識を寄せても、脚一本たりとも動かすことはできなかった。
僕が撮りたいのはこんなものじゃない、と何度も叫んだ。
何年も何年もそれに耐えてきて、突然、ここに売られた。前の持ち主に何があったのかわからなかったし、なぜ売られたのかわからなかった。
彼女たちの顔を、あの時の空気を、前の持ち主のねばっこい喋り方を思い出すのに、言葉にできない。過去の想い出を語れるみんなと僕との違いはなんだろう。どうしてこんなにも話せないのだろう。
みんなが僕の話を待つ。
突然、僕らのガラス戸が開いた。オーナーが手袋をして、丁寧に僕を持つ。
「これでいいかい?」
「うん、これがいい」
小学校高学年くらいの女の子が僕を受け取る。少し荒い鼻息が僕にかかる。彼女の目は澄んでいた。
「すごいね。ちゃんとお小遣い貯めたんだね」
「うん、わたし頑張ったよ。パパにカメラの使い方を教えてもらうの」
はきはきとした明るい声。決して明るくない店内が、ぱっと明るくなるようだった。
彼女は僕のファインダーを覗き込む。僕が今まで見てきた世界より、随分と低かった。
「パパの写真ね、すごいんだよ。わたしもたくさん写真を撮って、パパに見せてあげるんだ」
僕の撮ってきた写真を、誰かに見せたいなんて思ったことがなかった。撮りたいって思ったこともなかった。
彼女は店のそばにある郵便ポストを撮ってみた。ポストをやや見上げて、青空にポストの赤が映える。初めて下から見上げたポストは、笑った顔のようにだって見えた。視点が変われば、見え方も変わる。
一緒にいる人が変われば、視点も変わる。
僕が見たかったのはこういう世界なんだ。いやらしいものなんかじゃない。
彼女がその小さな体で地面に立って、その目に見えたものを、僕も一緒に見ていきたい。この子となら素敵な写真が撮れると思う。もし、彼女が僕を手放す日が来たとしても、その時はみんなみたいに彼女との想い出を語れるようになるさ。
彼女は僕に向かって小さく頭を下げた。
「カメラさん、これからよろしくね」
こちらこそ、これからよろしくね。
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