センチメンタル魔法少女

紀伊野

第1話

海の中にいた。深くて暗い、海の中。


私はもがきもせず、ただ自身を取り巻く海水に身を委ね、静かに沈んで行った。


少し前までは頭上に射す光に向かって必死に泳ぎ続けていた気がするが、気がつけば手を止め、足を止め、しまいにはそこから抜け出す術を考える事すら止めてしまっていた。


泳ぐのを止めても、少なくともその場に留まるくらいは出来るだろう、と思っていたがそんなことは無かった。上がるか堕ちるか、その二択だけだった。


心地良かった水の抱擁も、沈み続ける内に心身を締め付ける重圧の鎖へと変貌していった。

一度水の温もりに化かされ、その鎖に縛られれば抜け出すことは容易ではなくなる。


苦しい。息が詰まる──。







───激しいロックンロールが窒息寸前の私を夢から目覚めさせた。枕元に置いたスマートフォンに手をかざし、目覚まし用にセットしておいたその演奏を停止させる。好きな曲で一日を迎えれば少しは朝の憂鬱を払拭できると考えていたけれど、むしろその曲を聞く度に憂鬱な気分が想起されるようになってしまいデメリットしか無い。


まだ光に慣れていない目をこすりながら、スマートフォンを手に取りメッセージを確認する。

昨日放置したままだった会話の続きが友人から数件、『おはよう!』と窓から顔を出しこちらに微笑みかけてくる愛らしい熊のイラストスタンプが母から1件、届いていた。

確認をするだけして、私はアプリを閉じた。別に母や友人と仲が悪い訳では無いが朝から返事をするテンションにはなら無かった。一応、確認だけはしたけど。


憂鬱な1限目に講義を入れてしまった自分を恨めしく思いつつ、重い体をベッドから起こした。

朝の少しひんやりとした空気が肌に触れる。丁度コーヒーカップ1杯分のお湯をポットで沸かしている間に煙草に火をつけた。乾燥した空気を取り込みながら、ジリジリと音を立てて燃ゆる。吐き出した煙に巻かれてこの憂鬱な気分も消えて無くなればいいのにな、なんて事を考えている内にポットが仕事完了の音を告げる。

コポコポとカップにお湯を注ぎ、インスタントコーヒーの粉末と混ぜ合わせ、冷えきった体温と眠気をまとめて流し込んだ。

朝はあまり食欲がわかないのでこれだけで十分だった。

適当に置いてある服に着替え、講義用の教材が入ったカバンを手に取り街へ出た。


また、いつもと同じ朝が過ぎた。


街へ出ても、毎日毎日見た事あるような顔ぶればかりとすれ違う。与えられた日常を繰り返すだけの機械人形。

なんて皮肉ってはいるものの私も同じようなものだった。


なんの楽しみも期待もない。


いつもと同じ住宅街をすり抜け、いつもの角を曲がり、いつもの花屋の前を過ぎれば、そこにはいつもと同じビルが立ち並ぶ大通りが、私をいつも通り迎え入れてくれる。


はずだった。


いつもと同じ空とビルの間に、見慣れぬ黒い塊が浮遊していた。ビルの反射光で風船か何かがシルエットを成しているのかと思ったが、どうやら違う様だった。黒い塊はグニャグニャと様相を変え人型へと変化した。

通行人は誰も気付いていないのか...と周りを見渡すが、誰も彼もがいつも通り足を進めていた。


私は察した。これは私にだけに起きている現象だと。とうとう現実逃避が行き過ぎて起きながら夢をみてしまうようになったのか私は。現実主義からくる悲壮感が作り出す夢に、矛盾と気持ち悪さを感じた。


浮遊する黒い人型を見上げ続けたが、特に変化はなくただそこにあるのみだった。


「やっと見つけた...っ!」


私の意識は、人型から、路地裏から走り抜けてきたその少女へと注がれた。大きく息切れする少女の横に、犬とも猫とも似つかない黒い獣が闊歩していた。


白とピンクのフリフリとした、The魔法少女と言わんばかりの身なりをした少女は、空を見上げ人型をハッキリと捉えていた。


この子も見えてるのか...と思った矢先、少女の手から光が溢れ、虚空から幼児向けのおもちゃの杖のような物が現れた。


少女がボソボソと呟く。


まさかその安っぽい魔法の杖もどきから魔法でも出すの.....。


出せると思ってないと言えば嘘になる。現に目の前に浮遊する黒い人型がいるのだから、魔法の一つや二つ出てもおかしくはないだろう。多分。

この人が溢れる街中で堂々と出すのか...。

もう一度周りを眺める。今度の少女は、人型と違いはっきりと行き交う通行人達にも見えているようで、ほぼ全員の視線が彼女に集まっていた。


疑問と注目が渦巻く中、少女は詠唱の終わりを告げる様に杖を天高く突き刺した。


瞬間、杖を中心にセピア色の光の波が放たれ、いつもの景色を塗り替えていく。錯綜する色調。波に呑まれた人々はその歩みを止め、鳥達は動きのワンフレームを切り取られ、花瓶を落としそうになった花屋の主人は、花瓶より先に酷く崩れた表情のまま固まった。


街全体、いや恐らく世界全体が、その一瞬をシャッターで切り取られたように静止した。


不思議なことに私はまだ動けるようだった。


私にだけ見える黒い人型が現れたと思ったら今度は魔法少女のコスプレをした少女が飛び出してきて魔法のステッキで周りの時間を止めたと思ったら何故か私だけ動ける。


このあまりにも唐突な出来事の連続がいつも通りの朝の数分の間に巻き起こり、さすがに動揺していた。同時に、少女が今から何をしてくれるのかという期待もあった。私は少し興奮していた。いつぶりだろうか、本当に思い出せないほどの、久しぶりの感情だった。この感情が、次なる少女の行動を一瞬たりとも見逃すまいと私の目に少女の姿を追わせる。


「もう逃がさないから!!」


少女は人型に歩み寄り大きく声をぶつけた。人型は動揺した様子もなく、相変わらずセピア色の空を背に浮遊、静止していた。少女の発言から察するに、どこかからコイツを追ってきたのだろう。この瞬間以外にも、同じような時間が流れてたのか。知らないということは、その時私も止まってしまっていたのだろうか、今いる周りにいる通行人と同様に。

考えれば考えるほどわからなくなるので、私は一旦思考を放棄した。

今はこの魔法少女と黒い人型との対峙の行く末を見守ることにした。



少女は先ほど時間を止めた時と同様に、杖を掲げ、またなにやらボソボソと呟きだす。


杖から光が漏れる。


それとほぼ同時だった。

その光が開戦の合図と言わんばかりに、人型が初めて動きを見せた。

脇目も振らずただ真っ直ぐに光の元、少女の元へと突撃した。


人を見た目で判断するものでは無い、鈍そうな見た目の少女は私の予想よりも軽やかに後方へと跳ね、余裕の回避を魅せる。人型が激突した路面は大きくエグれた。もし当たっていたらと考えるだけで寒気がする。それでも少女は臆する事無く、詠唱を続けた。輝きはよりその仰々しさを増していく。


人型の追撃の拳も、後退りしつつ左右に身体を捻りながらスルスルと躱す。


輝きが臨界点に達した所で少女は後方へ飛び、人型から距離を取った。


大きく足を開き、少女は地をしっかりと踏みしめ、魔法の名を叫ぶ。


「フレイムヴェイン!!!」


杖から炎が沸き上がる。


少女の周りを取り巻き円環する金色の記号羅列。溢れ出す朱色の情調。紅色に発光する杖の先端に装飾された7つの水晶。


脈動する静なる情炎が、不規則に波打ちながら人型に喰いかかる。重圧の空気の振動と爆炎が巻き起こり、魔法が当たった事を実感する。かなりの威力だった。そこそこ離れているこちらまで熱気が伝わった。近くにある木々にも移り火し、ビルは焼け焦げ、当然窓ガラスも粉々になっていた。


決着はここまでの一連の興奮を裏切る形であっけなく迎えた。


かくして街の平和は一人の魔法少女と傍にいた黒い生物の手によって守られたのだ。多分。魔法で半壊した街の惨状を見たら、本当にそう言い切っていいものなのか疑問が残る。そして、この世の物かも分からないあの黒い人型は一体何が目的で現れたのか、そもそも街の平和を脅かすような存在だったのか、全くの謎である。

その答えは、なんの躊躇いもなく魔法をぶつけた、突如現れた魔法少女に聞くしか道は無さそうだった。


強ばっていた身体の力が抜け、徐々に冷静さを取り戻し始めた。


とりあえず少女に声をかけようと歩み寄った、


その瞬間だった。


私と同じく勝ちを確信し、杖を下げた少女を目掛けて、爆煙から人型が飛び出してきた。


右手を剣状に変化させているのが見て取れた。



マズい。



そう感じるよりも早く、条件反射的に体が動いていた。


間に合うか...


それでも走り続け、少女の体を抱き込み剣との間に割って入った。


少女はエラく驚いた顔をしていた。


敵の強襲か、動けている私への恐怖か、それとも抱きつかれたことに対する嫌悪か。


もうよくわからなかった。


背中の奥の方を強烈な冷たさが襲う。


その後すぐに、生温かいモノが流れてゆくのを感じた。


少女を抱きかかえていたはずが、いつの間にか態勢が逆になっていた。


「どうして...、あなた動け....、わたしの事を庇って....」


私の事よりも、後ろの人型をどうにかしろ。


そう思いながら視界を振ったがその姿はもう無かった。


ダメだ。


だんだん意識が遠のいていく。



昔、逆上がりの練習中に背中から落ちて泣いた事を突然思い出した。





走馬灯ってやつなのかな。





見ず知らずの魔法少女を庇って死ぬことになるとは、想像もしてなかった。




当たり前か。



まぁつまらない人生だったから、こんな最期も悪くない気もした。





泣きじゃくる魔法天使に見送られ、天国へ送られるようだ。





私はこの夢みたいな状況の中で、ゆっくりと目を閉じた。

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