三十一
春の終わりを感じる今日の午前十一時。
「ありがとうございました」
ケンシは玄関を出て行く訪問入浴サービスの従業員達にそう声を掛けました。以前の事があり、訪問入浴サービスを別の会社に替えてから数か月、今の所順調です。
「風呂入ったら出てきた!」
玄関から部屋に戻ってきたケンシに、フミが嬉しそうにそう声を上げました。ケンシはベッドに駆け寄り、サイドレールに掛けてある採尿バッグに目をやりました。
「ほんまや! ほら、ここも流れてきよう!」
ケンシは尿道カテーテルを持ち上げ、尿が流れている様子をフミに見せました。ベッドで横になっていたおばあさんは二人の声で薄く目蓋を開き、またすぐに閉じました。
「おお! 良かった!」
フミは嬉しそうにそう声を上げ、ケンシも安心したように笑みを浮かべました。
前日の夜、ケンシはいつもよりも短い間隔で体位変換を行い、さらにマッサージの時間も長く取っていました。その日の夕方頃から、おばあさんの尿がほとんど出なくなっていたからです。夢はすぐに訪問看護師に報告し、朝まで様子を見ようとアドバイスを受けました。
「今日看護師さん来るからまた言っといて」ケンシがそう言うと、フミは「分かった」と返事をしました。そしてケンシはそのまま小走りで台所に入って行きました。
「よし」と声を上げたフミは、サイドボードに結束バンドで固定しているバスケットから黒色の櫛を取ると、おばあさんのしっとりとした洗いたての髪を綺麗に整え始めました。左手でおばあさんの頭を浮かせながら右手で器用に櫛を使い髪をすいてゆきます。今のフミの様に、夢達はおばあさんの髪を整える時は必ず櫛を使います。以前は手櫛を使う事もあったのですが、髪の毛を手の汗や油や汚れでべたつかせている事に気付き止めたのです。入浴は週に二日と決めているので、髪の毛がべたついてしまうとそのまま数日過ごす事になってしまうのです。
「そうそう、後で夢に来てもらうから」
洗濯物で一杯の籠を両手に抱えながら部屋に戻ってきたケンシがそう話し掛けました。そのままケンシは縁側に行き、踏み外さないよう足元に目をやりながら草履に足を乗せると、「来るまでにばあちゃんのご飯頼むわ」とフミに声を掛けました。フミはおばあさんの髪の毛を整えながら「そうか、了解」と返事をしました。庭に出たケンシは籠を縁側に置き、キッチンペーパーと洗剤で綺麗に拭いた物干し竿が乾いているのを確認すると、洗濯物を干し始めました。
「でも何で出えへんなったんやろ? やっぱり反応も悪なったし、よだれも減ったな」
洗い立てのシーツをバサッバサッと広げながらケンシはフミにそう聞きました。フミはおばあさんの髪の毛を後ろに流すと、枕の上にそっと頭を乗せました。
「うーん、石が詰まったけど出てきたとか。取り敢えず様子見て、もう一回そうなったら診てもらう?」
フミはそう話しながら櫛をバスケットに戻すと、ベッドのリモコンを手に取り、ベッドの上部を上げておばあさんを座った状態にしました。おばあさんは一瞬だけ目を覚ましたのですが、座った状態になるとまた目蓋を閉じて眠り始めました。そんなおばあさんの表情を、笑みを浮かべながら見ていたフミは視線を尿道カテーテルに移しました。
ケンシは大きな洗濯ばさみを広げ、プラスチック音を響かせながらシーツを物干し竿に固定しました。
「その方がええかもしれん。ステントは両方の残っとうけど絶対詰まらんとは限らんし」
そう答えたケンシはおばあさんのTシャツを両手で掴み、宙でバンッと振って残った水を飛ばすと、縁側に置いたもう一つの籠からハンガーを取り出し、Tシャツに通して物干し竿に掛けました。そしてまた縁側の籠かTシャツを取り出したケンシはそのまま話を続けました。
「近いうちにサトの泌尿器科行くから相談してみるわ」
するとフミは縁側に歩み寄り、ケンシの背中に目をやりました。
「悪いなケンシ、色色やらせてしまって。何かあったら何でも言ってくれよ」
率先してやってくれている夢やケンシに、みんなは申し訳ない気持ちがあったのです。
Tシャツを物干し竿に掛けたケンシは振り返ると、笑顔でフミに言葉を掛けました。
「十分や。こうやってばあちゃんの事だけ考えられんのも、みんながおらんと出来へんかった事なんやから。心の底から感謝しとんよ」
「そっか。そっか」
ケンシの真っ直ぐな言葉に照れてしまったフミは、その気持ちを堪えるように頬をクッと上げ、そのままおばあさんの昼食の支度にと台所へ入って行きました。そんなフミの姿を見ていたケンシは嬉しそうに「ハハッ」と小さく笑うと、おばあさんにそっと視線を寄せました。おばあさんはいつものように穏やかな表情で眠っていました。ケンシは笑みを残したまま、籠からステテコを取り出すと、力強くバンッと宙で振りました。
クイナの町は日に日に温かくなり、もう冬の寒さは思い出せません。そんな晴れた日の清清しい風がふわり。湿った空気を吹き飛ばしてくれます。
「やっぱりステントかもしれん。けんちゃんに車出してもらうから。うん、分かった」
夢にそう報告をしたケンシは電話を切りました。
一時的に尿が出なくなった日から四日後の昨日、再び同じ事が起こってしまいました。それと同時におばあさんの反応も悪くなり、出てくる唾液の量も減りました。また、その辛さで歯を食い縛ったのか、下の前歯が上の歯茎に当たってしまい、少量の出血もありました。心配になったケンシはその事を相談しようと昨日の夜中に訪問看護師へ電話をしました。すぐに家に訪問してくれたのですが、その時点で出来た事は尿道カテーテルの交換だけでした。そしてやはり尿は出ず、その結果、膀胱内に尿が無い可能性が出てきてしまいました。つまり、両方の尿管にあるステントに結石が詰まってしまった可能性が高くなったという事です。看護師は、「今出来る事は限られているので明日病院で調べた方が良い」とケンシに提言しました。ケンシは今すぐにでもそうしたかったのですが、焦る気持ちを抑え「分かりました」と同意しました。
夢への報告を終えたケンシは携帯電話で時間を確認しました。
「そうや、しまった」
突然そう声を上げたケンシは携帯電話を卓袱台に置き、急いで台所に駆け込みました。入院の可能性を否定出来ない今、その用意を出来るだけしておいた方が良いとケンシは気付いたのです。台所に入ったケンシは、食器棚の引き出しに取り付けたフックに引っ掛けている、購入したレジ袋の束から数枚引き取ると、口腔ケア用品、処方薬、おむつ類と排泄介助に使う用品等、生活に必要な物をそれぞれ清潔の度合いごとに分けてレジ袋に入れて行きました。考え付く分だけ用意出来ると、そのレジ袋を玄関に持って行きました。ちょうどその時、家の外から車のエンジン音が響いてきました。
「ちょっと行ってくるわ」
病院の待合場所。長椅子から立ち上がったケンシがそう言うと、ケンジは「頼むな」と声を掛けました。ケンシは笑顔で頷くと、長椅子に置いていたレジ袋を一つだけ手に取り、検査結果が出たのを伝えに来た看護師に付いてER(エマージェンシールーム)へと入って行きました。
病院到着後すぐにおばあさんはERに入り、検査を開始しました。それと同時に問診に来た救急科の医師にケンシは「尿管ステントにその原因があるかもしれないです」と伝え、その後二人はこの待合場所で待機していたのです。
ERに入ったケンシは、出入り口直ぐにあるベッドで横になっているおばあさんの姿が目に入りました。ERではベッドを一つ一つ分けるようにカーテンで区切っていて、ケンシはその中に居るおばあさんの姿が目に入っただけで、嬉しい気持ちと痛い気持ちで胸が苦しくなりました。
検査を終えたおばあさんは起きていたようで、ケンシが小走りに近付くとすぐに気付きました。ケンシが笑顔を見せると、おばあさんは不安な表情のままケンシに視線を寄せました。
「大丈夫やで。もう終わったから」
ケンシは笑顔のまま、温かな声でそう言葉を掛け、おばあさんの表情を見つめました。ケンシの瞳に映ったのは、伝えたい気持ちを叫ぶように開いたおばあさんの目、不安の消えない瞳。そしてふとおばあさんの口元に目をやると、少量ですが出血がありました。
「待ってな」
笑顔でそう声を掛けたケンシは、手に持っているレジ袋から新品のティッシュ箱を取り出すと、ベッドの横にあったサイドテーブルの上にレジ袋とティッシュ箱を置きました。そのサイドテーブルの上には、おばあさんの人工呼吸器も置かれています。ケンシはおばあさんの頭を左手で少し浮かせると、右手でおばあさんの髪の毛を軽く整えながら後ろに流してゆきました。そのままおばあさんの頭をそっと枕に戻すと、箱から引き出したティッシュでおばあさんの口元を拭いました。ケンシはまたティッシュを数枚引き出すと、こぼれた唾液や血液が枕に広がらないよう口元に敷きました。どんな傷になっているのか心配になったケンシは、おばあさんの上唇を浮かせて口の中を覗いてみました。歯茎からの出血は間違い無いのですが、傷の状態の確認は出来ませんでした。口内の傷は確認しづらいので、歯を食い縛ってしまうような状況は避けたいのですが難しく、その上、血液をさらさらにする薬も使っているのでこのままでは出血は止まりません。このような事は今回に限らずいつでも起こりうるような状態だったので、病院へ行く事があれば歯科医に診てもらおうと夢達は考えていて、今日がそのタイミングになりました。さらに今はぐらついている歯もあるので、誤飲を防ぐためにも抜歯した方が良いのではと考えているのですが、綺麗な歯並びをしていたおばあさんの事を考えると、夢達はどうしても辛くなってしまうのです。ケンシはおばあさんの口から流れた血を丁寧に拭いながら、「ごめんな、ばあちゃん」とささやき、サイドテーブルに置いた箱からティッシュを数枚引き出すと、新たに口元に敷きました。おばあさんは出血が気になるのか、閉じた口をモゴモゴと動かしました。
頬笑みながらおばあさんを見つめていたケンシは、深く、呼吸をしました。
「さあ、やろか、ばあちゃん。体痛いやろ?」
明るくそう声を掛けたケンシはおばあさんに掛かっている毛布をめくり、少し崩れていたおばあさんの手足や体を自然な形に戻しました。
「ミロクさん」
おばあさんにそっと毛布を掛けていたケンシの背後から男性の呼ぶ声がしました。
ケンシが振り返りながら「はい」と返事をすると、来院時に問診をしに来た救急科の医師が立っていました。おばあさんの検査結果が出たようです。
「歯の方は後で診に来るので。はい、もう少し待っていて下さい。後、検査の結果なんですけど」
「はい」
「どこも異常は無いようですね。んんー、ステントも画像で見たんですけど」
それは、ケンシにとって全く想定していなかった検査の結果でした。
「異常が無い?」
ケンシはそう呟くと腕を組み、口元に手を当て、そのまま考え込んでしまいました。病状が悪化したのは一時的だったのか、二つのステントの閉塞が自然に解消したのか、そもそも初めから詰まっていなかったのか。しかし、いくら考えても、病院での画像検査の結果が出た後では何も掴めません。いずれにせよ今日は平日なので泌尿器科の医師は居ます。違和感は残りましたが、「異常は無い」と医師が診断を下したのであれば、ケンシは受け止めるしかありませんでした。
病院から帰宅し、落ち着く頃には夕方の五時になっていました。今日は訪問のリハビリテーションもキャンセルしていたので、週の習慣が崩れないようケンジはおばあさんの背中のマッサージを始めていました。
「なあ」
ケンジは庭の方へ振り向くと、洗濯物を取り込んでいるケンシにそう呼び掛けました。ケンシは手際よく乾いたタオルをパラソルハンガーから外すと、「何?」と返事をし、両手で持ったそのタオルを宙でパンッと大きく振りました。
「んー、これ出血大丈夫か?」
ケンジはおばあさんの口元に目をやりながらそう聞きました。今おばあさんの上の前歯は一本も残っていません。上の奥歯は初めから無かったので、これで上の歯は全部無くなった事になります。今日の治療でグラついている歯だけを抜歯してもらうつもりだったのですが、上下の前歯で舌を噛んでしまっていた事が心配だったので、出血を防ぐために上の前歯は全て抜歯してもらい、歯茎や舌の傷は縫ってもらいました。縫合糸自体は自然に消えるらしいので抜糸をする必要は無いそうです。ただ、縫合した場所は止血のためにガーゼを当てていて、おばあさんはそれが気になるのか閉じた口をモゴモゴと動かしてしまいます。それと同時に口から五ミリほど飛び出している縫合糸もチロチロと動くので、そんなおばあさんの表情を眺めているとケンシはふと愛らしさを感じました。おばあさんの一つの痛みが消えた安心感が、そう感じる心の余裕を生んだのかもしれません。
ケンシは縁側からおばあさんの様子を確かめ、「んー」と声を漏らしました。
「薬で血が止まりにくいからな。もし止まりそうになかったら後で看護師さんに電話するわ。今日は薬飲んでもたから、明日から止める事になると思うわ」
「薬か」
ケンジはそう呟くと、サイドレールのティッシュ箱から一枚引き出し、おばあさんの口元にそっと当てました。溢れていた血液がティッシュに染み込んでゆきました。
「あ、ケンシ、明日も昼間見るんか?」
ケンジはおばあさんの口元を綺麗に拭いながらそう聞きました。
「看護師さんに連絡して調子悪そうやったらそうする。けんちゃんまた頼むな」
「任せとけ」
ケンジは、ケンシが気兼ねしないようにと笑顔でそう声を掛けると、ティッシュを丸めてゴミ箱に投げ入れました。ケンシは笑みを浮かべ「サンキュー」と言葉を掛けました。
おばあさんの体調に変化があった場合はケンシが家で介護を、代わりに夢はオッカの所で仕事を、ケンジは自分の配達と一緒に魚屋の配達を行います。医療機関や行政機関等を利用する場合、おばあさんの身内であるケンシが側に居ればその対応も早く、様子を見ながら迅速に行動することが出来るからです。
「あ、忘れとった。フミが漬物と果物持ってけって。後で持ってくるわ」
ケンジが思い出したようにそう言いました。フミは市場で漬物と果物を販売していて、夢とケンシに食べてもらおうと時時送ってくれるのです。
「ほんま? うわー、白飯炊かなあかん」
ケンシは笑顔でそう言うと、嬉しそうにタオルを畳み始めました。熱い白飯に冷たい漬物の甘みと塩分、漬物の風味を白飯の蒸気が鼻に運ぶ、そんな二つの組み合わせがケンシは大好きなのです。一緒にもらう果物は水で洗って丸かじりです。
こんなふうに夢とケンシはいつもみんなの想いやりに支えられながら介護をしています。みんなはおばあさんだけでなく二人の事も心配なのです。特に夢に対する心配は大きく、みんなは事あるごとに何かあったら話すようにとくどいくらいに言っています。嘘が上手でない夢は、どうしてか自分自身が本当に大変な時に限って見事にみんなを騙し隠してしまうからです。
「ケンシ、明日看護師来るんか?」
ケンシは折り畳んだパラソルハンガーを籠に入れると、草履を脱いで縁側から部屋に上がり、おばあさんの側まで駆け寄りました。
「ああ、まだちょっと出よんな。明日来るけどちょっと電話するわ」
ケンシはそう言いながらティッシュを一枚引き出すと、おばあさんの口元にそっと当てました。浅い眠りから覚めたおばあさんが目蓋を開くと、ケンシは笑顔を向けて「ちょっと待っとってな」と声を掛け、卓袱台の上の携帯電話を手に取りました。
ベッドに座っていたケンジは立ち上がり、洗濯物を取り込もうと庭へ下りました。それに気付いたケンシは携帯電話を耳に当てながらケンジに声を掛けました。
「ありがとう、けんちゃん」
「気にすんな」
次の日の夕方六時。ガラス戸から見えていた白い雲は蜜柑色へと染まってゆくグラデーションが広がります。それはとても綺麗な色なのですが、夢とケンシはここ最近、空や季節の表情をあまり見なくなっていました。ただ、それは悲観した結果ではなく、一つの想いだけで充分満たされているからです。悲しみや喜びに満ち溢れる道を、二人は自ら選んだのです。
昨日の夕方、口内の出血について訪問看護師に電話で相談しました。ただ、その時点では出血の量は少なく緊急を要する状態でも無かったので、出血が止まるであろう今日の朝に訪問看護師に来てもらい、それまで様子見する事になりました。しかし、その出血は今日の朝になっても止まりませんでした。一時的に止まる事はあるのですが、中中その状態を維持させる事が出来ませんでした。ただ、その時点でも出血の量自体は少なかったので、朝方に来た訪問看護師と相談し、今後どうするのかは昼過ぎに来る訪問看護師と話し合って決める事になりました。
そして今日の午後、予定通り二時半になると訪問看護師が家に来ました。ケンシはまず抜歯してからの事を看護師に報告し、今後どうするのかを相談しました。やはり今までの事を考慮すると、出血が止まらない原因は血液をさらさらにする薬にある可能性が高いという考えに至ったので、主治医と電話で相談し、明日の朝の分からその薬の服用は中止する事になりました。ただ、その薬の服用を止めたとしても血液への作用が消えるまでおばあさんの場合は二日ほど掛かってしまいます。すぐに出血を止める事が出来ない、そんな焦りがあるのですが、同時にその薬を服用するそもそもの目的への影響も心配です。出血が止まるまでは慎重にケアする必要がありそうです。そしてその話の後に昨日の病院の検査結果を報告しました。結果については違和感はあったのですが、医師が下した診断なので病院で聞けた事をそのまま伝え、原因についても話し合い、脱水による影響ではないかという一応の結論に至りました。最後にケンシは、抜歯後に服用する抗生物質と痛み止めの薬を病院から処方された事を看護師に伝え、その事を主治医に報告してもらいました。また、今のおばあさんの場合、抗生物質を服用すると下痢になってしまう可能性があるので、病院からの処方とは別に整腸剤も追加で処方してもらいました。
午後の四時。今日の介護サービスは全て終わりました。
そして夕方の六時の今、ケンシは数分前に要請した救急車が到着するのを待っていました。おばあさんの出血は想像以上に悪化して行き、様子見するレベルを超えたのです。
今日の介護サービスが終わり、午後四時を過ぎた辺りからおばあさんの口内の出血量は段段と増えて行きました。さらにケンシが口内を吸引すると、ドロッとしたゼリー状の血液の塊がカテーテルに付着するようになり、気付けばその血液の塊は口内を塞ぐほどに溜まっていました。出血があった場合、外に溢れたその血液を凝固させて止血しようと体は働くのですが、血液をさらさらにする薬の影響でその機能は阻害され、血液が傷口で凝固する前に出血で流されてしまっているのかもしれません。今回は前歯を三本同時に抜歯したので出血する範囲や量も多くなり、今の状況に至ってしまったのです。また、ケンシは血液の誤嚥を防ごうとおばあさんにベッドで横になってもらっていたのですが、その姿勢によって血液は鼻腔に流れ、鼻から外に溢れ出てしまいました。その瞬間ケンシは急いで茶箪笥に駆け寄り、そこにある電話機で救急車を要請しました。ケンシは受話器を置くとすぐに卓袱台にある携帯電話で夢に現状を連絡し、おばあさんが外に出られるよう人工呼吸器を調え、診察券、携帯電話、財布等必要最小限の物だけをレジ袋に入れ、病院へ行く準備を整えました。この時ケンシは、出血している部分の縫合だけならこれで十分だろう、と宙を睨みながら頭の中を整理し、おばあさんを運ぶ隊員達が円滑に移動出来るよう家の中を空けました。
「ばあちゃん」
おばあさんの前で正座をしているケンシは、ささやくようにそう声を掛けました。おばあさんもケンシを見つめながら、止まらない出血をどうにかしようと閉じた口をモゴモゴと動かし戦っていました。
口内の血液の塊を取り出しても問題無いのか、体を起こした方がいいのか、焦るケンシはどうしたらいいのか分からず、「大丈夫。大丈夫」と言葉を掛けながら、おばあさんの頭を撫でる事しか出来ません。「大丈夫。大丈夫」何度も何度も「大丈夫。大丈夫」そうささやくように言葉を掛け、見つめていると、おばあさんの小さな表情から心の中にある怖さと不安がケンシに伝わってきました。おばあさんの表情は入院のたびに小さくなって行きました。おばあさんの心に触れる事が出来るのは、もう夢達だけなのです。
「ばあちゃんごめん。あかんな俺。もっと早く呼んどけばよかった。ごめんな」
おばあさんを見つめるケンシは、胸の奥で張り裂けそうな痛みと刺されるような焦りを感じました。
そして昨日と同じ場所、病院のERにおばあさんとケンシの姿がありました。病院に到着するとすぐにおばあさんはERの処置室に運ばれ、ケンシは救急外来受付前で待機するよう看護師に言われました。しかし、昨日と違いケンシはそれほど待つことも無く名前を呼ばれ、看護師に付いてERの処置室に入ることが出来ました。ケンシはおばあさんに笑みを向けると「もう大丈夫。大丈夫やで」と言葉を掛け、一人じゃないという安心感が届くようにと優しく体を擦りました。そうして二十分ほど経つと、おばあさんは落ち着いたようで柔らかな表情を浮かべるようになりました。
「こんにちは」
ケンシがその声の方に振り向くと、会った事の無い男性の医師が一人立っていました。身長は百六十センチほどでケンシよりも十数センチ小さく、歳は近いように見えました。ケンシが「こんにちは」と軽く会釈をすると、男性は簡単な自己紹介をしました。
「神経内科?」
ケンシは少し驚いたような表情でそう呟くと、そのまま思考の中へ入って行きました。今回は口内の事で病院へ来たのですが、なぜか今目の前には神経内科の医師が居ます。歯科医師が来ると思っていたケンシは、この状況に少し違和感を覚えました。ただ、おばあさんのALSは神経内科が担当をしているので、何か別の用があって来たのか、もしかしたら担当の医師の交代か、転勤か、ケンシが戸惑いながら考えていると、医師はベッドの横に立ち、おばあさんの様子を眺めながら話し出しました。
「入院する事になりました」
「入院?」
突然耳に入ってきた医師のその言葉を、ケンシは理解する事が出来ませんでした。
医師はそのまま、何事も無いかのような口調で話を続けました。
「ステントが詰まってるんです」
「ステント? でも昨日画像撮りましたよね?」
ケンシは、淡淡と話す医師の横顔を凝視しながらそう尋ねました。すると医師は少し慌てた様子で「でも僕が画像見た時は確か」と呟くと、あごに手を当て何か考え始めました。しかしケンシは間髪を容れず問い質しました。
「でも昨日は問題無いって聞きましたけど?」
「えぇ、そんなはずは」そのまま一瞬言葉を詰まらせた医師は「ちょっと持って下さい」とだけ言い、小走りでどこかへ行ってしまいました。ケンシは、カーテンで見えなくなった医師の跡を凝視しながら昨日の事を思い出していました。昨日のあの時から、どこか断ち切れない疑念が頭の奥に残っていたのです。
それから数分後、視線を落とし考えていたケンシの耳に「こんにちは」と男性の声が入ってきました。ケンシは顔を上げて聞こえた声の方へ目をやると、医師が二人立っていました。少し前にこの場を離れた若手の医師と、神経内科でおばあさんの担当をしている四十代後半の医師です。
ケンシは「また神経内科」と内心思いながらも、「どうも」と会釈をしました。すると担当の医師はベッドの横に歩み寄り、いつも通りの口調で入院について話し出しました。
そしてケンシはこの話によって、抱いていた疑念を確信に近づける事が出来ました。
まず担当の医師は入院先の科について簡潔に説明しました。おばあさんの今回の入院先は泌尿器科でなく神経内科に決まったそうです。この二つの科は階も病棟も同じなので、入院する上で特に何かが変わるという事はありません。しかし、科が全く違います。神経内科で入院するという事は、入院中の回診は神経内科の医師が行う事になるのです。もちろん、おばあさんや夢達には何のメリットもありません。ただ、おばあさんの治療を優先したいケンシは、今は何も言わず、そしてこれから入院中に見聞きする事にも、今はまだ感情を付けないよう心掛け、記憶に留め置くだけにしようと決めました。
その時ケンシはふと担当の医師の肩越しに見える若手の医師に目をやりました。若手の医師は話に参加する様子は無く、ただ黙って聞いているだけでした。ケンシは、担当の医師が若手の医師をフォローするために来たのか、と最初は思っていたのですが、今は何か引っ掛かりを感じていました。
「わかりました」
入院についての説明が終わり、ケンシは最後にそう返事をしました。一分ほどあった担当医師の話は、いつも受けるような入院の説明だけで終わりました。いつもであればそのまま医師はすぐに病室を後にするのですが、今日はいつもと少し違い医師は何故かこの場に留まり、そのまま十数秒の沈黙の空気が流れました。そんな空気にケンシが構えると、黙っていた医師は確認をするような、当然の事だと言い切るような、そんな口調でケンシに話し掛けました。
「今回は尿の出が悪くなったという事で」
「いえ、違います。口の事だけで来ました」
「尿の事と口の出血の事で」
「違います。歯茎の出血の事だけで来ました」
ケンシは医師の言葉を細かく訂正しながら、間髪を容れずそう返答してゆきました。
担当の医師は自身の発言を不本意に感じているのか、抵抗感と脱力感の入り交じった表情で一、二秒固まり、そのままの様子で「じゃあ、よろしくお願いします」とケンシと若手の医師に声を掛け、この場を去って行きました。この時に見せたケンシの返答は、今日病院に来た目的をすり替えられてはいけない、と自然に働いた直感のみで、言葉を発していた時の頭の中は全くの無でした。
担当の医師が去った後、残った若手の医師からおばあさんについての質問がいくつかありました。若手の医師はこういった状況に慣れていないのか、意味を持たせようとしただけの形骸化した質問ばかりでした。ただ、その医師の対応に手を抜いているような様子や、おばあさんを軽視しているような感じはありませんでした。この場を後にした担当の医師もそうなのですが、ケンシと話している間でも、いつもおばあさんにも声を掛けたりしてくれます。それはおばあさんの反応を見るためなのかもしれませんが、一人の人として接しているように感じ、ケンシはとても嬉しくなるのです。
ケンシへの簡単な質問が終わると、医師は二人に会釈をして去って行きました。
そして、前回の通院時に抱いたケンシの中の疑念は形を現しました。それだけでなく、おばあさんの治療が始まるという現実とも向き合わなければいけません。
おばあさんを見つめていたケンシは深く呼吸をし、携帯電話を手に取りました。
その後、尿管ステントは交換し、歯茎ももう一度縫合してもらいました。それらが終わると救急病棟に移動し、点滴での投薬が始まりました。同時にケンシもここでの生活が始まるので、人工呼吸器や吸引器等の位置をおばあさんに合わせて調節して行きました。四人部屋なので広さを考えるとすぐに終わるだろうとケンシは思っていたのですが、意外に時間が掛かってしまい、そうしている間に夢達は病院に到着しました。ケンシは夢達が持ってきた物を配置して行き、可能な限り家と変わらないようベッドの周りを構築し、落ち着く頃にはいつも以上に気力の減りを感じていました。ケンシは今回の入院を、新しい病院で治療をするための前向きな入院、ではなく、おばあさんの体力面を考えれば後退を意味する入院だと感じているからです。
この日ケンシは、ほとんど寝ずに次の朝を迎えました。入院を告げられた時は心が沈んでいたのですが、ケンシの気持ちは前向きになっていました。ケンシの場合、数秒あれば失った気力を満たす事が出来るのです。ただ、その気力が体力を上回ってしまい、自分の体を壊すことが多くありました。良くも悪くも、夢とケンシは同じ価値観を持っているのです。
それから二日後の朝の九時。朝食を終えたおばあさんとケンシ二人はテレビを見ながら休憩をしています。おばあさんは誤嚥を防ぐために座った状態になっているので、ケンシは視線の先までテレビを持ってきています。しかし、おばあさんはテレビを見ているといっても視線がそこにあるだけで、顔には力が入ったまま、しんどそうな表情をしていました。治療をしているからといって安心出来るわけではない、現実はそう甘くはない、ケンシは痛いほどその事を理解しているのです。
「俺、謝ってばっかやな、ばあちゃん。ごめんな」
ケンシはパイプ椅子に座り、寂しそうに頬笑みながらおばあさんにそう声を掛けました。今のおばあさんは視線と視線を合わす事が出来ません。全身全霊戦っているのです。それなのに自分は何もできない、そう感じているケンシは、おばあさんを何度もこんな状態にしてしまう自分に心底嫌気が差しました。ただ、介護において大切な事はそれではないと、ケンシは心の中でそうも想っています。今はまだ過程の中、大切な事は過程そのもの、ケンシはまたそうやって気持ちを切り替えてゆきました。何度も何度もそうやって、自分の気持ちを使ってゆきました。
笑みを浮かべたケンシはすっと腰を上げ、おばあさんの顔に近付くと、視線と視線を合わせました。そしておばあさんの腕を擦りながら「大丈夫。大丈夫」と言葉を掛け、大きな笑顔を向けました。いつの間にか病室に穏やかな空気が流れました。
「そうや」
何となく窓の外を見ていたケンシは、突然テレビの方へ振り向きました。
「ちょっと待ってな」
ケンシは眠り始めたおばあさんにそう声を掛けると、テレビの背面を覗き込みました。「無理かなぁ」テレビ全体をくまなく調べたケンシはそう呟き、そしてまた椅子に体を戻しました。病院に設置されたテレビで視聴出来るのは放送中の番組がほとんどで、利便性はそれほど高くありません。なので、インターネットにつながった外部機器を使えればその選択肢も広がり辛い気持ちを和らげる事が出来るかもしれない、ケンシはそう考えたのです。ただ、こういった設備は病院によって様様で、この病院では出来ないのですが、サトの街の病院では一つのベッドに対して一つの回線が設備されています。インターネットも有線であれば無料で使う事が出来るので、ケンシはサトの病院ではそういった面でも期待しています。結局接続する端子を見つけられなかったケンシは、そもそも病院の許可は下りるのか、ふとそう思い、他に何か方法はないのかと考えていると、カーテンの向こうから男性の声が聞こえました。
「すいません。今大丈夫ですか?」
ケンシは振り返り、「はい、どうぞ」と返事をしました。それに応えるようにカーテンが開くと、男性の医師が会釈をしながら入ってきました。簡単な挨拶を終えたケンシは、医師が内科だという事は分かったのですが、夢から聞いた限りではおばあさんはこの病院で内科を受診した事はなく、今のこの状況を理解できませんでした。しかし、ケンシが何も聞かなくとも医師の方から「感染があった場合内科でも診る事になったんです」と、説明がありました。ケンシは理解したように頷きました。
医師はベッドの横に移動すると、おばあさんの手を持ち上げて爪を見始めました。それに気付いたおばあさんは閉じた口をモゴモゴと動かし、目蓋を重そうに開きました。
普通であれば、これはただの医師の触診です。しかし、その様子を静かに眺めているケンシは内心では医師の言った事を信用していません。このような対応は以前の入院では行われていなかったからです。突然始まったにしては不自然で、そもそも血液検査を基に治療しているのでわざわざ別の科が診察をしに来る必要性は無いのでは、ケンシはそう考えていたのです。しかも今回はそれだけでなく、泌尿器科が行う治療を神経内科が行っているという不自然さがすでにあります。
おばあさんの手をベッドに戻した医師は、次に足の指を摘んで爪を見始めました。おばあさんは足先に対する刺激にはそれほど反応しないので、医師が触診を始めてもおばあさんの目蓋は一瞬上がっただけで、またゆっくりと閉じて行きました。そんなおばあさんの表情を頬笑みながら見ていたケンシは、医師の手元に視線を戻しました。触診を続ける医師はおばあさんの爪に目をやってはいるのですが、意識がそこに向いていない、触診の様子を眺めているケンシはそう感じました。
そうして触診が始まり数分した頃、爪を見ていた医師がケンシに視線を向け、さりげなく話し掛けてきました。
「今回は尿の事で来られて」
「いや、違います。口の出血の事で来ました」
間を置くことなくケンシがそう答えると、医師は何も言わずにおばあさんの足の爪に視線を戻しました。
これか。そう気付いたケンシは、病院が仕掛けてくるにしては露骨過ぎたのか、呆れるのを通り越して可笑しく感じてしまいました。
そのまま無言の空気は広がり、何もないまま診察は五分ほどで終わりました。
「じゃあ失礼します」医師はそう声を掛けると病室を後にしました。
眠るおばあさんに目をやったケンシは、病院というシステムの中でこれほど効率の悪い事は無いだろう、と思いつつ、この事を判断材料の一つにしました。頭の中を適当に整理したケンシは尿道カテーテルを確認しながらベッドの横に移動し、おばあさんの足の甲にそっと触れました。触診で手足を出していたせいか少しひんやりとしていたので、腹部に上げていた毛布を下ろしました。おばあさんは眠気が出てきたのか、目蓋が重そうにとろりとろりと上下していました。
「そろそろおむつ替えるか、ばあちゃん」
ケンシはおばあさんの顔に近付くと、ニカッと笑みを浮かべてそう言いました。
「明日からいつもの感じでいけそうやわ。うん。じゃあ頼むな、お休み」
ケンシは携帯電話をポケットにしまい、財布から取り出したセキュリティーカードで扉を開けて救急病棟につながる廊下に入りました。
今は夜の十時過ぎ。明日で入院生活は六日目になります。今の電話は入院中のケンシの日課で、次の日の朝食を買いにコンビニへ行った後、病棟に戻る途中で夢に連絡を入れます。必要な物があればそこで伝え、次の日の朝に夢達が持ってきてくれます。そのまま夢は病室に残り、ケンシはクイナの町へ入浴をしに一旦帰宅し、そしてまたすぐに病院へ戻ります。さらにおばあさんの状態が良くなり一般病棟に移ると、帰宅をしたケンシは仕事も行い、その後おばあさんの所へ帰ります。今のおばあさんの状態はとても安定しているので、明日からいつもの形に戻そうか、と夢とケンシは話していたのです。
ケンシはもう一度セキュリティーカードを使い、消灯後の薄暗い救急病棟に入りました。静かな空間の中で緊張の糸を張り巡らせている救急病棟、その出入り口から見て一番奥におばあさんのベッドがあります。そこは部屋ではなく四角に凹んだ形をした空間で、その四隅に四つのベッドが並んでいます。この病院の救急病棟は一つの大きな部屋になっていて、その中に個室や四人部屋や凹んだ空間があります。ここに入った患者はその時の状態やその後の変化、ICUや救急病棟等の状況に合わせて適切な場所に割り振られます。救急病棟に入ったケンシは、出入り口に設置された洗面台で手を洗い、そのまま手を拭かずに奥まで進んで行くと、おばあさんのベッドを囲ったカーテンに手が触れないよう庇いながら中に入りました。少し明るい常夜灯の光の中、おばあさんはいつもの右向きの姿勢で寝ていました。中に入ったケンシはまず人工呼吸器のディスプレイを確認しました。エラーメッセージは無く、ケンシは少し安心しました。おばあさんの側から離れる時間の長さに比例して、不安な気持ちも膨らんでいってしまうのです。ケンシは、サイドテーブルに置いてある箱からティッシュを一枚引き出して手を拭くと、腕に掛けているレジ袋を床頭台の上に置きました。そのレジ袋にはコンビニで買ってきた朝食が入っていて、その中でも納豆巻きは不動のスタメンです。さらに和風ツナマヨ、明太子マヨ、とり五目、焼しゃけ、わかめごはん、この中からその日の気分に合わせて二つ選抜し、ローテーションを組みます。そんな些細な日課は、食べる事が好きなケンシにはたまらない時間なのです。
パイプ椅子に座ったケンシは、おばあさんが起きないようにそっと二本の尿道カテーテルを持ち上げました。すると、それを切っ掛けにして溜まっていた尿がカテーテルの中を勢い良く流れ始めました。前回の入院時と同様、右の腎臓と膀胱にカテーテルをつなげています。
「おあ何や何や何や」
突然慌てたようにそう声を出したケンシは立ち上がると、サイドテーブルのティッシュを数枚引き出しカテーテルの下のベッドシーツに押し付け、そのまま数秒待ちました。
「なんやねん」ケンシはそう言うと、押し付けていたティッシュを離してシーツを凝視しました。どうしてなのかカテーテルの下のシーツが濡れていたのです。ケンシはさらに数枚ティッシュを引き出して、濡れたシーツの上に押し当てました。何がどうなっているのか分からないケンシは常夜灯の光を頼りに目を凝らし、さらにジッとカテーテルに目をやりました。
「ああ、ここか」
そう声を漏らしたケンシは腎臓と直接つながっている細い方のカテーテルに顔を近づけました。細いカテーテルと採尿バッグを接続している部分があり、そこに使っている部品の隙間から尿が漏れていたようです。ケンシはナースコールを押し、サイドテーブルにある箱からティッシュを数枚ほど引き出すと、ベッド横のワゴンに置かれたポンプにそのティッシュを近づけ、ノズルを押してジェル状のアルコールを出しました。そしてシーツに当てていたティッシュをゴミ袋に棄てると、アルコールを浸したティッシュを当て、すぐに棚から新品の尿とりパッドを取り出して尿が漏れている接続部の下に置きました。取り敢えずこれでしばらくは大丈夫そうです。
「オッケー」そう言ってケンシがパイプ椅子に座ろうとすると、カーテンの開く音と男性の声が聞こえました。
「どうしました?」
現れたのは担当の男性看護師でした。メガネを掛けている看護師は大学生の様な見た目をしているのですが、救急病棟内での様子を見た限りでは、長い期間この場所に所属しているベテランのようにも感じました。
ケンシは状況を説明し、看護師と一緒に漏れてしまった原因を探りました。しかし、看護師もどこをどう触ればいいのか分からなかったようで、結局は泌尿器科の病棟に所属する看護師へ連絡し、援助を要請する事になりました。
それから数分後、この場を後にしていた担当の男性看護師が再び病室へやって来ました。他の科の看護師にアドバイスをもらったのか、ミルキングに使うミルキングローラーという器具を用意していました。ミルキングとは、管の詰まりを解消するために行う処置の一つで、物理的に起こした陰圧を利用します。男性看護師は無言のまま細い方のカテーテルを手に取ると、管の中の様子を確認しながらミルキングローラーを使い始めました。あまり慣れていないようで器具を扱う動作はぎこちなかったのですが、ミルキングしてゆきました。しかし、何度ミルキングをしても何も起きませんでした。看護師はカテーテルやミルキングローラーを交互に凝視し、さらにミルキングを行なったのですが、やはり何も起きませんでした。
その時ケンシはその様子を何も言わず見ていたのですが、今回の漏れに対して行う処置としてミルキングが適切なのかどうか疑問を感じていました。仮に、尿が漏れている位置よりもおばあさん側で管が詰まっていたとすれば、そもそも接続部へ尿自体流れてきません。漏れている位置よりも採尿バッグ側で詰まっていれば原因は一目瞭然なのですが、その時尿は採尿バッグにも流れていたのでやはり詰まっていません。それ以前に、カテーテルから尿は漏れているのです。その状態のカテーテルに対して看護師は、尿が漏れている位置よりも採尿バッグ側でミルキングをしています。看護師が行う事なのでケンシは何も言わずに様子を見ているのですが、これでは切れ目の入ったストローで液体を吸っているのと同じで、ミルキングの効果はありません。ケンシはその様子を見つめながら看護師が気付くのを待ったのですが、何度失敗してもミルキングを止める気配はなかったので、「漏れている場所から空気が出入りしてしまい意味が無いのでは」と看護師に声を掛けました。すると看護師はミルキングローラーを見つめながら、「こうすれば良いって聞いたけど」と呟くと、何か考え始めたのか無言になってしまいました。そしてそのまま数秒経つと、看護師はカテーテルとミルキングローラーを何度か交互に確認し、無言のまま小走りで去ってしまいました。もしかしたら看護師同士のやり取りの中で思い違いがあったのかもしれない、よく分からないまま残されたケンシは取り敢えずこの状況にそう結論付け、パイプ椅子に腰を下ろすと気持ちを切り替えるように深呼吸をし、おばあさんの顔に視線を寄せました。おばあさんは落ち着いた表情で眠っていました。
看護師が去ってから何もないまま十五分ほど経つと、今度は女性の看護師が病室にやって来ました。以前の入院で何度か担当になった看護師だと気付いたケンシは少し驚いてしまったのですが、信頼している看護師だったので笑顔で会釈をしました。看護師も笑顔で会釈を返すと、問題になっているカテーテルの接続部を調べ始めました。看護師はおおよその原因が分かっているのか、その接続部に使われている部品をためらう事なく分解しました。どうやら液体が漏れるのを防ぐパッキンがずれたまま、ネジ状の部品を締めてしまっていたようです。看護師はパッキンのずれを修正し、カテーテルと管を接続し直しました。すると、空気の漏れで圧が働かず排出出来ずに溜まっていた尿は突然流れ始め、接続部から漏れることなく採尿バッグに向かって行きました。
「ありがとうございました」
嬉しそうにそう言葉を掛けたケンシが軽く会釈をすると、女性看護師も笑みを見せて会釈を返しました。ケンシは安心して任せる事が出来ました。丁度そのタイミングで一時的にこの場を離れていた担当看護師が戻ってきたので、女性看護師はケンシと担当の看護師に今の状況や留置しているカテーテル自体の説明をし、「カテーテルが閉塞してしまう事があるので接続部の部品はなるべく触らない方が良い」と二人に念押しすると、泌尿器科の病棟へと戻って行きました。
「体の向き一緒に変えますか?」
担当の男性看護師がケンシにそう尋ねました。ケンシは「そうですね」と返事をし、看護師と二人で体位変換を行いました。
「これで大丈夫そうですか?」
ある程度おばあさんの体勢が整うと、看護師がケンシにそう尋ねました。
「あ、はい。ありがとうございます」
ケンシはそう言葉を掛けると笑顔で会釈をしました。すると看護師は何も言わず、カテーテルに目をやり漏れがないか確認し始めました。カテーテルに注意しながら体位変換を行なっていたので問題はなさそうです。そのまま看護師は軽く屈み、採尿バッグの中を確認しながらケンシに話し掛けました。
「今回は尿の事で来られたんですね」
「違います。歯で歯茎を傷付けてしまったんで。口の出血がひどくて来たんです」
ケンシが笑顔でそう返すと看護師はその姿勢のまま動かず、そして何も言葉を発しませんでした。その状態が数秒続き、ケンシは黙ったまま次の反応を待っていると、採尿バッグの確認を終えた看護師は立ち上がり、おばあさんに視線を向けました。
「次はいつ体位変換しますか?」
看護師がそう尋ねると、ケンシは笑みを向けて返事をしました。
「一人で出来るんで大丈夫ですよ。本人が起きたタイミングで合わせてやるんで」
すると看護師は「分かりました」とケンシに言うと、この場を後にしました。
問題が解消された安堵感と再度認識させられた問題、余計なことに意識を向けなければいけない状況にケンシは心を焦がしているのですが、おばあさんの前では平穏でいようと顔の力を抜きました。そしてカテーテルをそっと持ち上げ、漏れがないか確認すると元の位置に戻し、そのまま向こう向きになったおばあさんの横顔をそっと覗き込みました。起きているのかなと思ったのですが、入院や治療の疲れがあるのか、少し力の入った表情のまま眠っていました。慣れる事の出来ないその表情に、胸を刺され血が広がるような痛みと熱を感じました。ケンシはパイプ椅子に腰を下ろし、一つ大きな呼吸をしました。ケンシの頭にあるのは先程の看護師の言葉です。あの言葉にはどういう思惑があったのか、ずっとケンシは引っ掛かっていたのです。しかし、それが偶然なのか言わされているのか、色色考えたのですが推測の域を出ませんでした。ただ、一つだけ見えてきた事があります。それは、今回の来院理由を泌尿器に関する事にしようと病院側は動いている、つまり、泌尿器に関する問題を抱えておばあさんとケンシが自ら病院に来た、という形にしようと動いているということです。ステントの詰まりを知るにはどんな検査が必要なのか、来院時にどんな検査をしたのか、この二つにある相違を知る事で何かが分かるのかもしれません。ただ、今はおばあさんの治療が最優先です。結果的であれ、病院へ行った次の日に偶然歯茎を傷付け出血してしまい、偶然使っていた薬の影響で止血出来ない状態になった事で、再び病院へ行くことが出来たのです。何があろうと今はおばあさんの治療に全力を捧げたいのです。でも、もしこの偶然が無く、おばあさんの治療に遅れが生じていた場合、ケンシの感情は違う炎で燃え上がり、その身を焦がしていたのかもしれません。
入院してから一か月が経ちました。これまでは治療を行えば順調に回復して行ったのですが、おばあさんの体力が戻らない内に再び治療を始めなければいけなくなったので今回はとても辛そうでした。その上途中の検査でカビが病原体となる感染症にもかかってしまっていた事が分かり、一時はどうなるかと心配したのですが、早期に始めた治療が功を奏し、少しずつ回復して行きました。その後、おばあさんの状態は良くなって行き、点滴の量を減らすことが出来ました。
そして今、おばあさんは病棟の七階にある神経内科の個室に居て、暖かく晴れた空のような昼食後のゆったりとした時間を過ごしています。
「な? 俺が言うのも何やけど可愛いやろ!」
ケンシはニヤニヤと笑いながら、携帯電話の画面をおばあさんの顔の横に近づけて二人にそう言いました。その画面にはインターネットで偶然見つけたフクロウの画像が表示されていて、そのフクロウは目蓋を閉じながら小さなくちばしを大きく広げてあくびをしていました。ベッドを挟んでケンシの反対側に立つ夢とオッカは笑みを浮かべながら「んんー」と唸り、おばあさんとフクロウを交互に見比べました。そんな中、話の中心にいるおばあさんはベッドに座った状態でみんなを眺めているのですが、他人事のような表情で閉じた口をモゴモゴと動かしています。
「んふふ。姉さんはどう思うだろうねぇ。でも、ほんと、フクロウみたいだねぇ」
オッカがおばあさんの口元を見つめながら楽しそうにそう言うと、夢はキラキラとした瞳でおばあさんを見つめながら何度も頷きました。
「おば様は怒るかもしれないけど、とっても可愛いわ! 口先が、ちょこん、て尖ってる所も、どうしてかしら」
夢は頬笑みながらそう言うと、ケンシはおばあさんの口元をまじまじと見つめました。
夢に目をやっていたおばあさんは、ニヤニヤとしながら顔を近づけてきたケンシに視線を移すと、薄らと眉間にしわを寄せました。そんなおばあさんに気付いた夢とオッカはうつむき加減に目を合わせ、隠すようにクスクスクスと笑い出しました。
「出血が落ち着いたらこうなっててん。歯が無いのが馴染んできたんかな。……何?」
ケンシは話している途中で二人が笑いを堪えている事に気付きました。二人の笑みに引っ張られたケンシも笑みを浮かべ、もう一度「何?」と聞くと、夢は視線をおばあさんの方へ向けました。ケンシは不思議そうに夢の視線をたどって振り向くと、自分がおばあさんに睨まれている事に気付きました。
「違うやん。良いっていう意味やで? 夢、鏡持っとう?」
楽しそうにケンシがそう言うと、夢は「待って」と声を掛け、パイプ椅子に置いているリュックサックから小さな折畳式の手鏡を取り出しケンシに渡しました。
「ばあちゃん見て。ほら、こうなってん」
ケンシはおばあさんの目の前に手鏡を持ってゆきました。それにつられるようにおばあさんは鏡に視線を向け、抜歯後の自分の顔を凝視しました。その瞬間、おばあさんの頬はほのかに浮き上がり、フワッと微かな笑顔になりました。
「おば様が笑ってるわ!」
夢は嬉しそうにそう言うと、すぐさま自分のリュックサックに手を伸ばしました。
「そうやねん。最近気付いてんけど、ばあちゃん鏡で自分の顔見ると笑うねん」
ケンシは新しい発見を二人に伝えました。笑みをこぼしながらおばあさんの笑顔を見ていたオッカは隣に居る夢の方へ振り向くと、「大丈夫かい?」と心配そうに声を掛けました。夢はビデオカメラが見つからなくて焦ってしまっているのか、一度、二度、リュックサックを落としたのです。
「ンフフ、ごめんなさい。絶対記録に残したいの。あったわ!」
夢はそう声を上げると、荷物で一杯のリュックサックの中から黒いケースを一つ取り出しました。それはビデオカメラ専用のケースで、中から本体を取り出すと、すぐさま録画し始めました。
「貸して夢」
ケンシが手鏡をベッドに置きながらそう言うと、夢は「はい」とビデオカメラを手渡しました。ケンシは受け取ったビデオカメラの液晶モニターを百八十度回転させ、録画している様子をおばあさんに見えるようにしました。液晶モニターには録画しているおばあさんの顔が映っていて、その液晶モニターが目に入ったおばあさんは移っている自分の顔に気付き、またフワッと笑顔になりました。
「こっちのんがええやろ」ケンシはニカッと夢に笑顔を向けました。
「うん!」
笑顔のおばあさんが自分を見ている、そんな奇跡の様な素敵な笑顔が記録出来たので、夢はとても幸せそうに微笑みました。もちろん、今おばあさんが見ているのは液晶モニターに映ったおばあさん自身の笑顔です。それでも映像を通してみると、自分を見てくれているように感じ、とても嬉しくなるのです。
「そうや」ふと何かを思い付いたケンシはそのままビデオカメラを宙で固定させ、自分の顔をおばあさんの笑顔の横に並べました。そして頬をピッタリとくっつけ、ビデオカメラに溢れる二人の笑みを記録しました。目蓋をギュッと閉じて笑うおばあさんは、とても無邪気で赤ちゃんのようでした。
「仲良しだ」
オッカが嬉しそうにそう言うと、ケンシは少し恥ずかしそうにハニカミました。
「最近こうすんねん。触れ合うコミュニケーションって大事やなって気付いてん」
ケンシはそう話すと「夢」と声を掛け、おばあさんの空いている方の頬を指差しました。夢は嬉しそうに驚くと、瞳をキラキラと輝かせ、おばあさんとケンシを交互に見つめながらそっと声を掛けました。
「いいの? 私邪魔じゃないかしら?」
「ばあちゃんがどう思うかは、夢が一番知ってるやろ」
ケンシがニコニコと笑いながらそう言うと、照れてうつむいた夢は唇をキュッと閉じて頬笑みました。
「貸してみな。あたしが撮るよ」
オッカはそう言うと、ケンシが持っていたビデオカメラを受け取ろうとしました。
「違う違う。オッカはここ」
ケンシは楽しそうなしかめっ面でそう言うと、夢の空いている方の頬を指差しました。その時、突然カーテンの開く音が鳴り、作業着姿のケンジがガラスのドアの向こうに現れました。自分の昼食を買いにコンビニへ行っていたケンジが病室へ帰ってきたのです。
「買い過ぎた」
レジ袋で両手が塞がっているケンジは足でガタガタッとドアを開け、夢達の様子に気付いたのか笑みを浮かべながら「自分ら何しとん?」と声を掛けました。さらにケンジは何か言おうとしたのですが、足癖の悪いケンジを見たオッカはそれを遮り「足!」と子供を叱るように注意しました。突然落ちたオッカの雷にケンジの笑顔は薄らと固まってしまい、夢とケンシは可笑しそうにクスクスと笑いました。早くオッカの矛先を変えたいケンジは自分の存在を隠すように目を逸らし、レジ袋をサイドテーブルに置くと、音が鳴らないようにレジ袋からそっと親子丼を取り出しました。
その様子を笑いながら見ていたケンシは「けんちゃん、こっち」とケンジに声を掛けました。ケンジはレジ袋からパックのモダン焼きを取り出そうとしていて、その声で視線を上げたケンジと目が合ったケンシは「早う」と急かしました。
「後で写真にするから入って」
ケンシがさらにそう言うと、モダン焼きをサイドテーブルに置いたケンジは「それ何しとん?」と不思議そうな顔で聞き、オッカの様子をうかがいながらケンシの隣に移動しました。
「あ、ビデオか」ビデオカメラに気付いたケンジは今の状況を把握しました。ケンジは入院中の映像を残すという事に考えが及ばなかったのですが、その新鮮な感覚に楽しい気持ちが湧いてきました。
「じゃあ顔こっち持ってきて」
ケンシはおばあさんの右側を指差しながらケンジにそう言いました。「おう」と明るく返事をしたケンジは、ケンシがやっていたようにおばあさんの頬と自分の頬をピッタリとくっつけて、ニカッと笑顔になりました。
「ハハ! さすが」
こういった事でも潔く応じるケンジに、ケンシは思わず笑みをこぼしそう言いました。そしておばあさんの笑顔に目をやると、ビデオカメラのスタートボタンを押して録画を開始させ、夢とオッカに視線を送りました。夢とオッカは笑みで答え、ケンジと同じように頬と頬とをくっつけました。ケンシは腕を出来るだけ伸ばしてビデオカメラを遠ざけて、みんなの顔が入るよう調整しました。
「じゃあ撮るで!」
ケンシが合図を出すとみんなはニカッと大きな笑顔になりました。キラキラキラ、今を輝くみんなの笑顔は記録の中にも残りました。もちろん、笑顔になったみんなには少しだけ恥ずかしい気持ちもあります。でも、それは今だけなんだと分かっています。照れて残せなかった形よりも、恥ずかしささえもキラキラと輝かせる、そんな時を未来へ届ける事の方が大切なのです。そしていつの日か、想い出が自分の心を救う時がくるんだとみんなは胸の奥のどこかで分かっているのです。でも、それを言葉にせず、思いもせず、気付いていない振りをして、みんなは笑顔になりました。病気になったおばあさんの人生を、笑顔で満たしたいのです。
一秒、二秒、三秒、四秒。
おばあさんは口をモゴモゴと動かしました。
五秒、六秒、七秒。
おばあさんは大きな口を開けました。とても無邪気なあくびです。
「てお前録画やんけ!」思わずケンジはケンシにそう声を上げました。
「うるさいねぇ。誰が写真を撮るって言ったのさ」
オッカがパイプ椅子に腰を下ろしながらそう話すと、ケンシは楽しそうにニヤニヤと笑いながら続けてケンジに言いました。
「後で写真にするって言ったやん」
すると、すぐさまケンジはケンシが持っているビデオカメラを指差して反論しました。
「こっちのボタン一個押したら写真で撮れるやんけそれ!」
「へぇー」
「うそつけ!」
「うそつけ!」
「真似すんな!」
「真似すんな! ククク」
子供同士がするような応酬にケンシは堪らず笑い出しました。その横に居るおばあさんは、とても冷めた目をしながら二人の様子を眺めています。
「もうええ。飯食う」
空腹だった事に気付いたケンジはこの場を諦め、サイドテーブルに置いた親子丼を手に取ると、包装しているフィルムを外して蓋を開けました。
「いらんのか?」
ケンジがモダン焼きに視線を向けてケンシにそう言いました。ケンシは夢に「ありがとう」と言葉を掛けてビデオカメラを手渡すと、夢も「ありがとう」とビデオカメラを受け取り専用のケースに入れました。そしてケンシはサイドテーブルの上のモダン焼きを手に取りました。
「意外に美味そうやな」
ケンシが手に取ったモダン焼きは温かく、食欲をそそるソースやマヨネーズがたっぷり掛かっていました。ワクワクして待ちきれないケンシは壁側に寄せていたテレビを動かし、おばあさんが見えるように画面の角度を調節してテレビの電源を付けました。丁度いつもの時代劇が始まったところでした。ケンシはベッドの側面にもたれ掛かり、手に持っていたモダン焼きのパックを開けて床頭台の上に置きました。ケンシの場合、入院中の食事は椅子に座って食べるのですが、家ではおばあさんの隣で立って食べると決めていて、その癖がついつい出てしまいました。ケンシは手を合わせ、「いただきます」と挨拶すると割り箸をパリッと割って食べ始めました。ケンシにとっての幸せな瞬間の一つです。
録画出来ていたか確認していた夢は「うん」と頷き、ビデオカメラをリュックサックの奥深くに沈めると、パイプ椅子に腰を下ろしました。
「ねぇ夢」夢の様子を眺めていたオッカが話し掛けました。
「姉さんの友達とは連絡取れたかい?」
オッカの言葉に夢は困った表情で「ううん」と顔を左右に振りました。
「やっぱり連絡先が分からないの」
夢がそう言うとオッカは「うーん」と声をこぼし、宙を見つめながら考え始めました。二人が話すのは、おばあさんが持っている交友関係についてです。環境が著しく変化する介護生活、さらに人工呼吸器を使い始めると、以前のようにおばあさん自身から連絡を取るという事は事実上出来なくなってしまいました。相手の方からの便りがあった場合は現状を伝えることが出来たのですが、定期的なコミュニケーションを持っていなかった人に対しては、どうするべきか気が回りませんでした。過去のおばあさんの会話から思い出そうとしてはみたのですが、微かな記憶の中の断片的な情報しかなく、相手の名前の特定も出来ませんでした。
「連絡が途絶えて、おば様の事、誤解されてなかったら良いんだけど」
悲しそうにうつむいた夢は、その事を考えただけでも胸が痛くなり、自分の行動が遅かったことに後悔していました。そんな夢の背中をオッカは優しくポンポンと触れました。
「あたしとの連絡が突然途絶えたら、あんたはあたしの事悪く思うかい?」
オッカが静かにそう聞くと、夢は顔を左右に振りました。オッカは頬笑みながら頷くと、優しく心強い口調で話し出しました。
「なら一緒だよ。会えない時間が、本当の絆の形を教えてくれるのさ」
心のこもったオッカの言葉に笑みを浮かべた夢は「うん」と元気に頷きました。
「オッカさんの言う通りだと思うわ。まだやれる事もあるもの」
「あたしも何か分かったら連絡するよ。姉さんだって夢だって、一人じゃないからね」
オッカは明るくそう言うと、もう一度夢の背中にポンと触れました。温かいオッカの笑みを見た夢は、頼れる仲間が居る事の素晴らしさと心強さを、改めて感じました。
「うん! もうすぐ退院だから、また一緒に調べましょ」
夢がそう言うと、笑顔で頷きながら聞いていたオッカは「任しときな」と頼もしい声を上げました。するとその時、「オッカ」とケンジの呼ぶ声が聞こえました。夢とオッカが振り向くと、ケンジはレジ袋からソース焼き飯を取り出すところでした。
「ハッサさんとユウリさんには聞いたか?」
ケンジは二人にそう聞くと、ソース焼き飯の容器にテープで固定されたスプーンを袋ごとバリッと剥がしました。
オッカは、一体どれだけ食べるのかと食欲旺盛なケンジを眺めながら「ユウリ? ハッサさんには聞いたよ」と答えました。ただ、ユウリという名に聞き覚えが無く、尋ねるように夢の方へ振り向きました。しかし夢も分からないようで、顔を横に振りました。
「ふくよしのおばちゃん」
ケンジはスプーン山盛りのソース焼き飯を口元で待機させながらそう言いました。
「ふくよし? 駄菓子屋の?」
少し驚いた表情で夢がそう聞くと、ケンジはモグモグモグと口一杯のソース焼き飯を食べながら「んん」と頷きました。
「ふくよしのおばちゃん、ってみんなは呼ぶから知らなかったよ」
オッカが何度も頷きながらそう言うと、ケンジは口一杯のソース焼き飯を無理矢理ングッと飲み込みました。
「ジュース持ってっとんねん。今日配達あるから聞いとったるわ」
ケンジはそう言うと、すぐにまた口の中をソース焼き飯で一杯にしました。その間にモダン焼きを食べ終えたケンシは何も入っていないレジ袋に空の容器を入れると、夢とオッカに話し掛けました。
「ユウリて聞いた事あるわ。そうか、あのばあちゃんの事やったんか。うちのばあちゃんとは学年は違うけど多分同じ学校で、話しとう所何回か見た事あるわ。……ん?」
話し終えたケンシはふとサイドテーブルにあるレジ袋が気になり中を覗き込みました。「あ、このパン食べたらあかん?」
ケンシがそう聞くと、ケンジは三口ほど残っていたソース焼き飯をかき込み、レジ袋を覗き込みました。
「ええよ。コンビニの飯少ないやろ?」
ケンジはそう言いながら親子丼とソース焼き飯が入っていた空の容器をまとめ、ゴミ用になったレジ袋に入れました。
その時、ドアの向こうから「失礼します」と女性の声が聞こえました。そのままカーテンが開くと担当の看護師が現れて、何度も小さく会釈をしながら病室のドアを開けました。そして看護師はドアの取っ手を持ちながら、ケンシに向かって話し掛けました。
「失礼します。今日夕方居ますか?」
「はい。今日話するんですよね?」
「あ、はい。両方の先生来るみたいなんで。直接来ると思うんで」
「あ、そうですか。分かりました」
話し終えた看護師は会釈をし、「失礼しました」と声を掛けて病室を後にしました。
「あの事話すんか、誤診のこと?」
ケンジはレジ袋から取り出したお握りに目をやりながらケンシにそう聞きました。ケンジの手には「居酒屋シリーズつんつんたこわさび」と書かれた新商品のお握りがありました。そのレジ袋には他にも「ふっくらだし巻き」「ドンと餃子」「ごろごろぼっかけ」と表示されたお握りが入っています。
「いや、取り敢えずこのままいく。病院がこっち側に勝手に気使ってくれたら話運びやすなるから。それに何かあった時にはここに来るしかないし、来たら来たでちゃんと診てもらわな困るし。むかつくけどな」
おばあさんを想う夢達には、迷うような時間は無いのです。おばあさんの今の状態では、腎臓から結石を除去する根本的な治療をしなければ良くならないという事をみんなは理解しているのです。だからこそ今取るべき選択肢は自ずと決まってくるのです。
ケンシはおばあさんの喉元に視線を寄せました。おばあさんの呼吸の音は、シューッゴー、シューッゴー。その度に胸が上下します。
「でも、病院はいずれ変えるよ。ちょっとずつ、確実に、前に進むから」
ケンシは自分自身にも言葉を掛けるとように真っ直ぐにそう話すと、夢とオッカとケンジはおばあさんの心を想い、頷きました。
ケンシはおばあさんの顔に視線を移すと、ふわっと笑みがこぼれました。おばあさんは口をモゴモゴモゴと動かし、瞳を閉じて大きなあくびをしました。
「絶対幸せにするからな。もっともっと笑顔になれるように頑張るからな」
ケンシの声には強い想いと焦りがありました。
一日を通して温かくなったクイナの町。持ち歩くだけになっていた羽織る物も必要なくなり、町行く人の心と体はとても軽やかです。ただ、そう感じるのは大人だけなのかもしれません。子供にとって暑さや寒さは、記憶に残らない単なる設定の一つに過ぎないからです。
そして今日もまた、沢山の人達が集まるオレンジ通。その中でも特に子供達に人気なのが、古くからある駄菓子屋のふくよしです。新学年が始まり、数日で初対面の壁を無くした子供達が毎日駆け込んで来る場所です。ただ、この店に訪れるのは子供達だけではなく高齢者も多く集まります。そこで休憩がてらのんびり子供達とコミュニケーションを取ったりするのですが、人が居るだけで周辺の死角を無くせるので町の防犯の一役にもなっています。クイナの町はそれほど大きくないのですが、所所にこういった駄菓子屋があるのです。
「どけどけ!」
駄菓子屋ふくよしの店先で、二つ重ねたケースを抱えているケンジの力む声が響きました。ケンジに群がる子供達の目的はただ一つ、ケースの中に並んでいるラムネです。
「ラムネちょうだい! ラムネちょうだい!」
子供達にそう言われても、ケンジはここで渡すわけにはいきません。子供達を掻き分けガチッ、ガチッ、ガチャ、瓶の音を鳴らしながらケンジは店の中へ入って行きました。木造の駄菓子屋は十二、三畳ほどの広さで暖かみがあり、時代を感じさせられます。店内を横切るように設置された腰の高さほどの台には、ガラスの蓋で閉じられた浅い木箱が置かれていて、その中には駄菓子が沢山並べられています。店の隅にある二畳の座敷は腰を楽に掛けられるくらいの小上がりで、そこには鉄板付きのテーブルがあります。
「おばちゃん!」
ケンジは店内に入ると、正面に見える居間に向かってそう呼び掛けました。すると奥の部屋から「はいはい」と女性の声が聞こえました。そのままケンジは店内にある冷蔵庫の前まで来ると、「ここ置いとくで」と声を掛け、持ってきたケースをガチャッと地面に置きました。
「はい。そこでいいよ」
奥の部屋から出てきたユウリはスリッパを履きながらそう返事をしました。ケンジは冷蔵庫の隣にあったケースの前にしゃがみ込むと、瓶の本数と栓が空いているかどうか確認しました。そして「よし」と声を上げると立ち上がり、ユウリに話し掛けました。
「そうそうおばちゃん。ミロクばあちゃんって知っとう?」
老眼鏡を掛けたユウリは台帳に注文内容を書き込みながら、「病気は良くなったかい?」とケンジに尋ねました。ケンジは手を腰に当て、少し考えた後に「うん」と言うとユウリに笑みを向けました。
「今めっちゃ頑張っとうよ」
ケンジの言葉に頷いたユウリは「そうかい」と囁くように言うと、悲しみの混じる笑みを浮かべながら話し出しました。
「ここにも時時来てくれるんだよ。長く生きていても、町だけは変わらないんだよ」
想いの詰まったユウリの言葉を聞いたケンジは、ふとミゲロの事を想い出し、胸の奥でチクリと刺さるような痛みを感じました。
台帳を閉じたユウリはケンジの方へ向きました。
「何か聞きたいのかい?」
ユウリがそう言うと、ケンジは笑顔で頷きながら「うん」と返事をしました。
「ミロクさん」
病室の中に注ぎ込む光が丹色に染まり始めた頃、カーテンの開く音と共に二人の医師がおばあさんの所へやって来ました。神経内科でおばあさんを担当している四十代後半の男性医師と、泌尿器科でおばあさんを担当している男性医師です。新しい病院に行くとなれば泌尿器科だけでなく神経内科の意見も聞く必要があると考え、ケンシは二人の医師と同時に話せるようにしてほしいと看護師に頼んでいたのです。
「大丈夫ですか?」神経内科の医師が尋ねると、ケンシは「はい」と返事をしました。ただ、挨拶を交わしたのはこれだけで、その後ろにいた泌尿器科の医師はここへ来てからまだ一言も発していません。今回の入院は神経内科が担当をしているので会う事はないだろうと思っていたのですが、退院間近になると泌尿器科の医師はこの病室へ回診に来るようになりました。その時はいつもと変わらない様子をしていたのですが、今は警戒しているのか強張った表情で腕を組んでいて、自身の内心を隠せずにいました。その事に気付いているケンシは、やっぱり分かり易いなぁ、とうんざりしました。
ケンシの返事を聞いた医師の二人は、別の場所で話をするため病室を後にしました。
ケンシは病室を出る前におばあさんのカニューレに耳を寄せ、異常がないかを確認しました。呼吸の音は綺麗に流れているので吸引の必要はなさそうです。そのままケンシは尿道カテーテルを持ち上げました。カテーテルに尿は流れなかったので、ケンシが病室を出ている間は大丈夫そうです。ケンシは頬笑みながらゆっくりとおばあさんの視界の中に入って行きました。テレビを見ていたおばあさんは、すぐさまケンシの方へ視線を向けました。全く眠気が無いのか、ケンシを見つめるおばあさんの目はとても力強く感じました。
これから先は大丈夫。ケンシはこの時、そんな言葉にならない明るい感覚が体の中に広がるのを感じました。
「ばあちゃん、ちょっと行ってくるわ。待っててな、すぐ帰って来るから」
ケンシは自分の手のひらをおばあさんの手の甲にそっと重ねました。留置針を交換するため三日置きに行われる注射。血液検査をするため数日置きに行われる注射。そして必ずと言ってよいほど一回は失敗するので、その回数以上は注射を受けています。そんな、何度も行われる注射によってできた痕は内出血で赤黒く広がり、ALSで細くなったおばあさんの腕はもうぼろぼろでした。心の強いケンシでも、ふと気を抜けば悲しみの中に自分の心を落とし込んでしまいそうになります。
「じゃあ、待っててな」
ケンシは頬笑み、おばあさんの視界から離れ、病室を後にしました。
この瞬間、側を離れるこの瞬間はいつも、寂しさと不安で胸が苦しくなるのです。
「今回の入院は尿の事で」
「違います。歯茎の出血の事で診てもらいに来ました」
神経内科の医師がそう言うと、ケンシは反射的にそう答えていました。こう何度も同じ事を言われると、さすがに可笑しくも見えてきます。いつもは落ち着いている神経内科の医師も今回は少しだけ感情の起伏が見え、その声の調子も素っ気なく、望んでいる言葉は返ってこないと分かっているようでした。その隣に居る泌尿器科の医師も依然として強張った顔で腕を組み、話に入る事なく二人のやり取りを聞いていました。普通に見ればマイナスでしかない状況なのですが、ケンシにとってはむしろこの方が都合が良く、病院側を積極的な姿勢にさせ、様様な意見を引き出し有利に話を進める好機だと考えていました。
ケンシはまず、神経内科の医師から今のおばあさんの状態について説明を受けました。内容については定期的に報告を受けていたので特に変わりはなく、この場ではこれを前置きとしてお互いの認識を一致させ、話は本題に入りました。説明は主に神経内科の医師が行い、病院側が出来うる今後の対応について話しました。やはり事前に聞いていた通り、これ以上の手術は行えないというのがこの病院の方針でした。医師はその理由を明確には話さなかったのですが、ケンシも深くは聞きません。ケンシはこうなる事を、心のどこかで望んでいたのかもしれません。仮にこの病院で手術を行う事になれば、必然的に目の前で顔を強張らせた泌尿器科の担当医師が術者になるからです。既にこの時点で医師に対する信頼は無く、さらに専門の違うこの病院では結石除去に関する経験も少なく技術も足りていません。ケンシはそれらを懸念していたので、手術を前提とすればこの病院を選択する可能性はとても低かったのです。これにより一つの段階としてケンシの理想としていた流れを作る事が出来ました。
次にケンシが聞きたかったのは、別の病院で手術を行うために必要な、神経内科の面から見た意見でした。協力的な意見が聞けなければ話は前に進まないのです。そして結果からいえば、ケンシが聞けた範囲では問題なさそうでした。しかし、入院前に医師同士が行った手紙のやり取りの結果がまだ聞けていません。むしろこちらの方のが重要なのですが、この場で聞いても進展する話ではないので、ケンシは退院後にサトの街の病院へ行こうと考えています。
医師との話が始まって数分後。取り敢えずは良い形で話を終える事が出来ました。これでやっと立ち止まっていた物事が進み出しそうです。
「ありがとうございました」ケンシは医師にそう挨拶をし、この場を後にしました。
少し心が軽くなったケンシは急ぐようにおばあさんの居る病室に入りました。
「へへ、ただいま」
この瞬間が、おばあさんに会えるこの瞬間が、ケンシはとてもとても大好きなのです。
今回の入院は一か月ほど続きました。そのたびにALSや認知症が進行するという事は分かっています。頭では分かっているのですが、未来を照らしていた強烈な光が弱り、闇を深くし見えないようにしていた心の奥底にある悲しみに意識が囚われそうになっていました。そしてとくに辛く感じていたのは、何度も繰り返した入退院により、おばあさんの表情が目に見えて小さくなってしまったことでした。夢達も今回ばかりは前向きな気持ちよりも先に悲しみを見てしまっていたのです。
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