三十
「クッソー」
心の声を漏らしたケンシは立ち止まり、下ってきていた丘の道をまた登り始めました。
春の季節に入ると、少し動いただけで熱さを感じるようになります。ケンシが歩くクイナの丘の頂上付近は大きく開いているので、そのせいか太陽の存在もいつもより余計に感じるのです。
「またこの道か」
またまたうんざりしたような声を漏らしたケンシは丘の頂上から、サトの街へ続く道を見下ろしました。夢達が住む場所から丘の頂上を挟んで反対側にずっと行くとサトという街があり、そこには以前おばあさんが転院した時に入った病院があります。さらにサトの街には腎臓と泌尿器疾患の専門病院もあって、文句をグチグチ言いながら歩くケンシはたった今そこへ行っていたのです。夢がインターネットで見つけたその病院には尿路結石に関して豊富な経験と知識を持った医師達が居るので、現状の閉塞感を打開するためケンシはその病院へ行っていたのです。ただ、これまでのおばあさんの情報を持たずに診察をしても意味はありません。より正確な意見を聞くには今まで利用していた病院の紹介状が必要でした。ケンシはサトの街の病院へ行く前に、退院時に予約をしていた診察でその事を担当の医師に話すことにしました。
退院後の診察の日。ケンシはまず術後の経過報告と入院中に話した方針をもう一度医師に伝えました。そして紹介状をもらうためにサトの街の病院の事を話そうとした時、医師の方から「別の病院で聞いてみますか?」と提案してきました。ケンシはその流れに乗り、「例えばどこか良い病院はありますか?」と聞くと、医師はそのサトの街の病院の名を挙げました。医師の抵抗があるかもしれないと思っていたケンシは少し意外に感じたのですが、都合良く展開する事が出来ました。ただ、円滑に進んだのは話だけで、依然として利己的な対応をする医師は笑みを浮かべながら「多分同じ事を言われると思いますよ」とケンシに言いました。ケンシは、やっぱり単純で分かり易いなこの人、と内心では思ったのですが、目的の物を手にした今、それはもう取るに足りない事なのです。話を終え診察室から出たケンシは病院の受付で紹介状と一枚のCDを受け取りました。紹介状にはおばあさんの情報、そして同時に受け取ったCDには様様なデータが記録されています。これがあればおばあさんのカルテが無い病院でも、ケンシ一人で正確な情報を基にして話すことが出来ます。
それから数日後の今日、サトの街の病院で聞けたのは、尿路に内視鏡を挿入して結石を破砕する手術を複数回行い問題を解消する、という夢達が希望していた方針でした。ただ、それを行うには解消しなければいけない問題が一つあり、現時点では最終的な合意に至っていません。さらにそれは、おばあさんの状態が悪くなった際に対応出来る科が病院には無い、という根本的な問題でした。今までは総合病院で手術をしていたので考えた事もありませんでした。そこで一旦、その問題の打開に向けてサトの街の病院から総合病院へ手紙で相談する事になりました。ケンシはサトの病院からその手紙を受け取ると、その足で総合病院へ届けに行きました。その手紙の返信は、総合病院の方からサトの街の病院へ直接送る事になったので、ケンシは返信の手紙が届くタイミングに合わせてサトの街の病院へ行く事になりました。
「クッソー、無い」
ケンシは足元を凝視しながら丘の道を歩いています。本当ならば今頃はサトの街から路面電車でクイナの丘の頂上まで行き、その駅から家へ歩いて帰る途中にいるはずでした。
「無いっす」
サトの病院の診察を終えたケンシは、黒の七分丈のカーゴパンツのポケットから携帯音楽プレイヤーを取り出した時、イヤホンからイヤーピースが外れている事に気が付きました。耳に装着するシリコーン製のイヤーピースは着脱式の部品なので、ポケットの中で引っ掛かってよく外れるのです。ケンシは胸騒ぎや焦りを払拭するように全てのポケットを調べ、そして現実を受け入れ、今に至るのです。
「あった!」
ケンシは駅近くの路肩に駆け寄り、落ちていたイヤーチップを拾いました。路面電車を降りた後に携帯音楽プレイヤーをポケットから取り出したので、落としていたとすれば一番可能性の高い場所でした。しかし、それを拾ったケンシは眉間にしわを寄せ、手のひらに乗せたイヤーチップを凝視しました。
「うそやろ。違う。ほんま泣きそうや」
ケンシが拾ったのは全く同じメーカーのイヤーピースだったのですが、サイズが違います。しかもその汚れ方からして数分前に落ちたイヤーピースではありませんでした。本格的に探さないと見つからない、そう感じ諦めたたケンシはクイナの町へ向けて丘を下る事にしました。それでもケンシは「念のため」と足元に目をやりながら歩き、結局見つからないまま目的の場所に着いてしまいました。
「まあええわ」
そう呟いたケンシは家電量販店に入り、同じイヤーピースを購入しました。そして何の変化も訪れないイヤーピースを取り付けると、なんとも言えない表情でおばあさんの待つ家へと歩き出しました。
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