二十八
「今は大丈夫?」
ケンシはベッドを挟んで向かい側に居る夢にそう聞きました。
「うん。ずっとじゃなくて、少し視線がぼーっとする時があったわ。でも少しするとまた元に戻るの。今までの時とちょっと似てて」
ベッドの両脇で話す二人が昼寝をするおばあさんを真剣な眼差しで見つめていると、卓袱台で弁当を食べていたフクが二人に話し掛けました。
「よだれの量も減ったよな、夢」
「うん」夢がそう頷くと、ケンシはおばあさんの口元に敷いたティッシュに目をやりました。おばあさんがベッドで横向きになっている時はよだれが外に出るので、ティッシュで受け止めるように広げて口元に敷いています。さらに、ティッシュだけでは枕に唾液が付いてしまうので、その下にはポリエチレンの手袋を敷いて防水しています。
「石が出来た時もこんな感じじゃなかった? 水分が減る感じ」
おばあさんを起こさないように、ネガティブな話が聞こえないように、ケンシがそう囁くと、夢は「うん」と頷きました。
「看護師さんも同じ様な話を聞いた事があるって。でも在宅の先生にも聞いたら、早急にっていう感じじゃなかったわ。仮に石ができて最悪片方の腎臓が悪くなってももう片方が有るからって。でも私は良いとは思わない」
ケンシが何度も小さく頷くと、フクの隣に座っていたフミが腰を上げました。
「脱水とかかな?」
フミが二人に歩み寄りながらそう話すと、ケンシはうつむき考え込んでしまいました。水分の摂取量は気温や体調などを考慮し調節しているのですが、たとえ減らしたとしても明らかな変化が現れるような過不足はないとケンシは思いました。しかし、おばあさんの状態の異常は夢達だから気付けた違和感のような小さなもので、それだけでは手軽に病院に行けないといった介護の難しさが現れていました。夢達は年末の大掃除を一旦中断し、台所に居たオッカとハツエを呼んで相談しました。
「おしっこは出てるし、今は何ともないんやったら様子見するしかないんかな」
ケンシはおばあさんを見つめながら静かにそう話しました。そして同時に頭の中に色んな考えが出てきてしまい、すぐに行動に移せない自分自身に歯痒さを感じました。
ただ、医師や看護師に聞いた限りでは緊急を要する状態ではないという事なので、変化を見逃さないように注視し、このまま様子見する事になりました。その上で、フミが話した脱水の事も気になったので、過多にならないように計算しながら摂取する水分量を少しずつ増やして行きました。その対応が正しかったのか分からないのですが、その後しばらくするとおばあさんのよだれや反応は元に戻り、今はいつも通りを維持できています。
ただ夢達は、持つ事が出来た違和感を否定せず今も頭に残しています。真っ直ぐにおばあさんと向き合ってきたからこそ見えた微かな変化、それは大切なメッセージなのです。そして再び行動に起こせるように準備もしています。患者を中心に見る行動、人だからこそ鈍くなってしまうその心掛けを大事にしなければいけないのです。
今日は正月三が日の最後の日。正月に合わせて伝統的に飾られたオレンジ通りは落ち着きながらも楽し気です。そんないつもと違うオレンジ通り、リッキーとミーナが笑いながら追いかけっこをし、その少し後ろをケンシとケンジがのんびりと歩きながら話しています。
「寒いけど寒ないわ」
危なっかしく走る子供二人を見守りながら、ケンジがぽつりとそう言いました。ケンシは声を上げてハハハと笑い、共感するように頷くと、「来月ぐらいからちゃうか、寒なんの」と答えました。二人がそんな取り留めのない会話をしていると、リッキーとミーナが駆け寄ってきました。ケンシが楽しそうな二人に笑顔を向けると、ケンシの前に来たリッキーが「見て見て」と手に持っている物を掲げて見せました。
「これ何? 折り紙か?」
ケンシはリッキーから受け取った折り紙を確かめると、「ああ」と声を出して頷きました。少し形は崩れていたのですが、恐竜のティラノサウルスだとケンシはすぐに分かりました。
「貸して貸して!」
ケンシが何か言う前に、リッキーはそう声を上げながら折り紙に向かって手を伸ばしました。リッキーは折り紙を手放してから数秒ほどで返してほしくなったようです。
「ありがと」
ケンシがそう言って折り紙を返すと、リッキーとミーナは恐竜ごっこを始めました。そんな光景を眺めていたケンジは頬を上げ、ケンシに話し掛けました。
「地質館連れてったらアレくれてん。んでな、帰りに店でオムライス食っとったら折り紙に向かって、ご飯ですよって言ってオムライス食わせよんねん」
ケンジが笑いながらそう話すと、子供らしい感覚に触れたケンシは笑顔になりました。
「あ、じゃあこれもそん時のやつ?」
ケンシはそう言ってポケットから携帯電話を取り出すと、ケンジに見えるように持ち上げ、取り付けているストラップをゆらゆら揺らせて見せました。
「ああ、そうや。リッキーがケンシにって選んだんや」
「へぇー、リッキーが? なんか嬉しいな。今度菓子でも買うわ」
ケンシは手のひらに乗せたストラップを眺めながら、嬉しそうな笑みを零しました。
「お前がいっつもリッキーに小魚せんべい買ってきてくれるからって。そのお礼やって」
「ああ、なるほどな。でも初めの頃は喜んどったけど、俺があればっか買うから見せてももう喜ばへんなったな」
ケンシが楽しそうにそう話すと、ケンジは笑いながら言いました。
「動物ビスケットの方がええかもな。夢がよう食うとうやつ」
「あれな。じゃあ今度買ってくわ」
ケンシはそう言うと、前を行く二つの小さな背中に視線を寄せました。二人は一つずつ持った折り紙で夢中に遊んでいるのですが、ここは正月飾りが際立つオレンジ通りです。
「こら! こら!」
ケンジはそう声を上げると慌ててミーナを店の玄関から引き離しました。ミーナの手が門松に伸びて行ったのです。後はもう飾り物を引っ張るだけです。ケンジは子供達の視線が折り紙から外れたのを見逃しませんでした。
「あかん、怒られるから」
ケンジはミーナを持ち上げながら小声でそう注意しました。しかし、ミーナは負けずにケンジの手から逃れようと全体重を下に掛けて抵抗します。そうして二人が戦っていると、外の様子に気付いた六十代ほどの女性が引き戸を開けて店から出てきました。
「気にせんでいいのさ。遊び遊び」
女性はミーナに優しくそう話し掛けました。女性に会釈をしたケンジは笑みを見せ、「悪いな」と声を掛けると、もがいて逃げようとするミーナを一気に抱え上げました。遊び遊びと言ってくれたのですが、加減知らずの子供の力は大人の常識を超えて来るのです。
「あけましておめでとう」
ケンシが女性にそう挨拶をしました。もがくミーナに笑みを向けていた女性はケンシの方に振り向くと、笑顔で挨拶を返しました。
「おう、あんたか。あけましておめでとう」
二人が知り合いだと気付いたケンジはミーナを抱え直すと、頬を上げてケンシに話し掛けました。
「まぁ、来てない方がおかしいか」
ケンジの言葉の意味を理解したケンシは「当然」と声を上げ、何度も大きく頷きました。ここは老舗和菓子屋の真ん前で、ミゲロの魚屋とは縦の道を挟んで隣同士になります。そして今二人が話している女性は、今年店の主人を引退したハッサでした。
「ミロクさんはどうなの?」
ハッさがそう聞くと、ケンシはよくされる質問に「うーん」と唸り、少し考えるといつもと同じ返事をしました。
「元気っちゃあ元気」
病気は治っていないけど安定していて問題は無い、もしくは、少し気になる事が有るけど今は大丈夫、そう言えばいいのですが、結局話が長くなってしまうのでいつもこうやって答えています。
「そうか。いつも大変だね」
「そんな事ないよ。自分の時間もあるし、側におる方が安心出来るから」
これもいつも言うケンシの台詞、そして、混じり気の無いケンシの本心です。病気が治らない苦しみや悲しみはあるけれど、夢達は今も間違いなく幸せなのです。
微笑んだハッサは「そうか」と頷くと、ふと気になった事をケンシに訪ねました。
「夢は最近あんまり見ないね」
「そうやなぁ。買い物はオッカがする事多いからな」
「そうか。元気ならいいさ」
ハッさが小さく頷きそう言うと、ケンシは笑みを見せて「うん」と返事をしました。
するとケンジはハッサを安心させるようにと頬笑みながら声を掛けました。
「心配しとったって夢に言っとくわ。また一緒に餅買いに来るわ」
ケンジの言葉にハッサは温かな笑みを浮かべ、「いつでもおいで」と答えました。
ケンジはハッサに頷き、ふと足元を見ると、リッキーが大人しく待ちながら折り紙で恐竜ごっこをし始めていました。ケンジは大人しくなったミーナを下ろし、「そろそろ行こか」とケンシに声を掛けました。
ケンシは「うん」と答えると、ハッサに笑みを向けました。
「じゃあおばちゃん行くわ。次は栗かさつま芋の美味いの頼むわな!」
「はいよ」
そうしてケンシ達がまた歩き出すと、ハッサは店の中に戻って行きました。
「美味いけど小さいくせして高いやろ?」
ハッサが引き戸を閉めるとすぐにケンジはそう囁きました。和菓子の何たるかを知らないケンジにケンシは眉間にしわを寄せ、ビシッと言い放ちました。
「そういうもんや。分からん奴は砂糖でも舐めときゃ十分や」
するとケンジはケラケラケラと楽しそうに笑い出し、「怒んなよ」と言いました。ケンシは顔を左右に振ると、とても残念そうな表情で「無理や。あの繊細さをあんたが理解すんのは無理や。アホには無理や」と呟き、呆れたようにフゥとため息をつきました。それでもケンジは笑うので、イラッとしたケンシはそのまま話を進めました。
「もうええから。とりあえず駄菓子屋寄って帰ろか」
ケンシが早口でそう言うと、好きな言葉を聞き逃さなかったリッキーとミーナが「お菓子」と声を上げながらケンジに駆け寄ってきました。
「はいはい。お菓子ね」
ケンジは目の色を変えたリッキーとミーナに攻め込まれてしまいました。隣にいたケンシはその様子を楽しそうに満足そうに笑いながら眺めていたのですが、突然「あっ、変わっとう」と声を上げ、立ち止まってしまいました。ケンジも思わず立ち止まり、「どうした?」と声を掛けると、ケンシは曲に顔を向けたまま「けんちゃん、ほら、違う曲や」と答えました。ケンジは子供達と手をつなぐと、オレンジ通りに流れている曲に耳を傾けました。
「ほんまやな」
そこに流れていたのは寂しく過ぎ去った時を想う、そんなグリーンスリーブスではなく、明快に爽やかに全てを背負い前を向く、そんな潔い歌詞の曲が流れていました。
「聴いた事あるな」ケンジがそう言うと、ケンシは「うん」と頷きました。
「ラヴァーズコンチェルト。夢にピッタリの曲や」
ケンシはクイナの丘の頂上、さらにその先にある遠くの空を見つめました。
「なあ、けんちゃん。人間ってさ、生きる理由がこの先にあると生きたくなるやろ?」
「まあ、そやな」
「だから死ぬんが怖くなんのかな?」
「まあ、そかな」
「じゃあそれが無くなったら?」
「何かしたくなるんちゃうか。必要なくても」
「生きるため?」
「んー、やっぱ生きる事は前提や。理由は後かもな」
「じゃあ夢は?」
「夢? 何で?」
「夢は真っ直ぐ死を見てて、なんか、死ぬために今だけを生きとうような気がすんねん。そのずっと先を見ながら。夢と一緒にいるとたまにな、お別れの挨拶されとうみたいに感じんねん。じきに終わる自分に後悔せんようにって」
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