二十七
賑やかなオレンジ通りの昼間。店で食事を取る人やベンチに座って食事を取る人、それぞれの場所から様様な人がこの通りに集まります。それとは逆に、少し前まで沢山居た子供達は新しい学期の始まりと共に姿を消したので、夏休み期間中と比べると歩きやすくなり、その分落ち着いた空間になります。
そんなオレンジ通りの西にある港の近く、クイナの町で一番大きな百貨店の入り口の前で夢とオッカが何やら話をしています。
「ここから入ろうかね。大体の物はここで揃うさ」
オッカがそう言うと、買い物リストに目をやっていた夢は「そうね」と頷きました。
「文房具から買うとすると、上から行った方が良いのかもしれないわ」
「そうかい。じゃあエレベーターで上がろうかね」
夢が笑顔で頷くと、二人は自動ドアを通り百貨店に入って行きました。中に入るとすぐにオッカは立ち止まり、出入り口付近にあった案内図に目をやりました。二人は目的の階を見ながら何を買うのか再確認すると、一階の奥にあるエレベーターホールへ向かいました。少し歩くと開けた場所が見え、年齢層の高い落ち着いた雰囲気の女性数人がエレベーターを待っていました。
「六階だね?」
オッカがそう聞くと、夢は手に持っていた紙を広げながら「ええ」と頷きました。オッカも夢が広げた紙に視線を移すと、沢山並んだ名目を見つめながら聞きました。
「そこでは何を買うんだい?」
「えっと、ボールペンの芯、ルーズリーフ、ファイル」
夢が声に出して順に読んでいると、一階に着いたエレベーターの扉がチンッと鳴って開き、中に乗っていた数人の客が降りてきました。
「そうだ、姉さんの服も買うってのはどうだい?」
「素敵! きっと喜んでくれるわ!」
夢はオッカの思い付きに喜んで賛成しました。
二人は楽しそうに話しながらエレベーターに乗り込むと、文房具の売り場がある六階へ向かいました。チンッ。そうしてエレベーターの扉が開くと、売り場に飾られた多種多様な文房具が二人の目の前に飛び込んできました。夢は思わず瞳をキラキラと輝かせ、オッカは売り場をざっと見渡し、ノート類のある場所を見つけました。
「行くよ」
そう声を掛けたオッカが歩き出すと、夢は「うん」と頷きその後に付いて行きました。今日買いに来たルーズリーフとファイルは、おばあさんの状態やデータを訪問看護師等が日日記録するために使うもので、夢達は必要な時にそれを確認したり用件を書き込んだりします。
「でもさ、ヘルパーさんが書かなくなると全然減らなくなるだろうね」
オッカにそう言われて初めて気付いた夢は「そっか」と何度も小さく頷きました。夢達はヘルパーのサービスを減らして行くのと同時に、自分達の想う介護の形へ少しずつ向かって行きました。そうして全てを終えた今、有意義な時間を過ごせるようになりました。
「何だか今の方が楽になったね。どんなのが来るのか考えなくてすむしね」
「そんな時は凄くさばさばしたケンシさんの登場ね」
夢が勇ましい表情でそう言うと、オッカは楽しそうに笑いました。
「赤ちゃん言葉使うヘルパーさんも居たね。変な感じだったよ」
オッカがそう言うと、夢は複雑そうな笑みを浮かべながら小さく頷きました。
まだ夢達が介護サービスを利用していた頃、まるで幼児の子育てをしているような感覚で接しているヘルパーを見掛けた事がありました。そういう人が多いというわけではないのですが、おばあさんに対して赤ちゃん言葉を使うようなヘルパーも居ました。悪気無く言ったとしても、それは良い事ではありません。そもそもそのヘルパーはおばあさんよりも一回りぐらい年下で、親しい関係でもありません。それ以前に、おばあさんは病気になったのであって赤ちゃんになったのではありません。
もちろんケアを行う中での心掛けとして、患者と親身に仲良く接する姿勢は良い事だと思います。ただ、心を近づけ過ぎないように、自分の置かれた位置を保たなければいけません。心と心が近付けば近付くほど、感情とケアが深く結び付いてしまうからです。介護を良い精神状態で行う事は近しい家族でさえ困難で、また逆に家族だからこそ困難になる時もあるのです。それを他人であるヘルパーが行い、さらに維持する事は容易ではありません。いつしか介護に感情が結び付き、ストレスに変わる事もあるのです。
そもそも前提として、ヘルパー等の従事者が行うケアは奉仕活動では無く仕事です。子育てのような無償の愛ではなく、予定の時間が来れば帰り、後に報酬をもらう仕事なのです。背負い過ぎずシンプルに明瞭に、適度な距離感と確実で適切なケア、それが患者や家族にとって必要で安心出来るサービスなのです。
「確かにさばさばしてるね。けどあの子にはそうじゃない一面もあるんだよ」
そう言ったオッカは夢に頬笑み掛け、ケンシの事を話し始めました。
「昔は言葉数が少なくて、ハッキリ言えないタイプの子だったのさ」
オッカの話に意外そうな表情をした夢は「へぇー」と何度も小さく頷きました。少し楽しそうに笑ったオッカは、ロクから聞いた幼少期の頃のケンシの話を夢にしました。
「まだ小さい頃、あの子にとっての母方のおばあさんが入院した時にね、母親と見舞いに行ったのさ。ベッドに居たおばあさんの顔を見るとねあの子、スッとカーテンの裏に隠れちゃったんだよ。思わず泣いちゃったのが恥ずかしかったのさ。優しい子なんだってロクが嬉しそうに言ってたよ」
そうして桃花色のノートを手に取ったオッカが「病室に居る間は一言も喋らなかったそうだよ」と懐かしそうに話すと、宙を見つめそんな風景を想像していた夢は嬉しそうに頬笑みました。そして夢はオッカに視線を寄せ「少し分かる気がするわ」と声を掛けると、また頬をフワッと上げました。オッカは笑いながら「もう一つ可愛らしい話があるのさ」と楽しそうに別の話を始めました。
「八歳か九歳の時だったね、学校の担任の先生が別の学校に移る事になったんだよ。歳は六十ぐらいの女性でね、優しい先生でケンシは仲が良かったのさ。最後の日には生徒みんなと一人ずつ握手して帰ったんだけどね」
その日までは先生と明るく喋っていたケンシでしたが、その最後の握手の瞬間だけは、うつむいたまま黙ってしまったのです。そんなケンシの気持ちに気付いた先生は優しく微笑み掛け、最後の言葉を掛けました。ケンシは頑張って手を伸ばし、大好きな先生と握手をすると、ケンシも最後に一言だけ「さよなら」と言葉を掛け、小走りに教室を後にしました。そのまま学校を出たケンシは通り抜ける公園の中、ランドセルの肩のベルトをギュッと握り締め、ポロポロ、ポロポロ、涙を流しました。
夢はオッカの話を聞きながら、所所で納得するように小さく頷きました。
「やっぱりケンシさんの胸の中にある大切な部分はちゃんと輝いているんだわ」
そんな夢の言葉にオッカは照れながらも「そうだね」と頷きました。
必要な文房具を購入した二人は下りのエスカレーターに乗ると、台所に関する製品の売り場がある三階にやって来ました。訪れた客を魅了するように展示された製品は、夢の瞳をまたキラキラと輝かせました。
「あ、あれ」
夢はオッカにそう声を掛けて肩にポンポンと触れると、壁際にある棚を指差しました。目的の物がある棚を見つけた二人がそこに着くと、様様ある米びつに目をやりました。
「こんなのはどうかしら?」
そう言って夢が棚から取り出したのは、取り外し可能な蓋が付いた深さ十三センチほどあるプラスチック製の米びつでした。ただ夢達は、このケースを米びつとしてではなく、吸引等に使う清潔な手袋を入れるための容器として使うつもりです。これまでは元元手袋が入っている紙の箱をそのまま置いて使っていたのですが、ティッシュ箱の様な形状は構造上手袋が取り出しづらく、取り出し口も剥き出しなので衛生上心配でした。このサイズの米びつのケースであれば中の空間に余裕があり、蓋も開閉式なので素早く手袋を取り出すことが出来ます。
「大きさも丁度良いね。これにするかい」
オッカがそう言うと夢は「うん」と頷き、また周りを見渡し出しました。
「この階は?」
オッカにそう聞かれた夢はそのまま周りを見渡しながら「マットと桶がいるわ。あ、あったわオッカさん」と言い、少し離れた部屋の中央辺りを指差しました。
二人がその場所にやってくると、そこには流し台で使う製品が置かれていました。
「この桶はどうかしら?」
夢はそう声を掛けて折り畳まれた緑色の桶を棚から取り出すと、オッカと品定めをし始めました。この桶は流し台で洗い物等に使うシリコーン製の桶で、素材は柔らかく、蛇腹の様に段段に折り畳めるので収納するにも場所を取りません。そしてこの製品も同じで、夢達は台所用品として使うのではなく、おばあさんの足浴や手浴の際に必要な湯を溜める桶として使います。蛇腹の様に段段に折り畳めるため、おばあさんの姿勢や使い方に合わせる事が出来るので、金属やプラスチック等の桶よりも使途に柔軟性があるのです。しかしその一方蛇腹の部分が薄いため、長期間繰り返し使うと破れてしまいます。利便性が高い反面、耐久性の面では弱点になります。
「同じなら、こっちの色はどうかい?」
オッカはそう言いながら棚の奥にあったオレンジ色の桶を取り出し、夢が持っている緑色の桶と並べて見せました。夢の表情を見たオッカは「やっぱり」と笑顔で言いました。
「綺麗な明るい色だわ! そっちにしましょ!」
夢はそう声を上げると、持っていた緑色の桶を元の場所に戻しました。
「見るのもう一つなかったかい?」
「こっちのマットなの」
夢はそう答えると、マットがいくつか並んでいる隣の棚に移動しました。
「こんな感じかしら?」
夢はそう言うと、棚から手に取ったマットを広げてオッカに見せました。
「いいね、ピッタリじゃないさ」
オッカは笑みを浮かべて頷きました。夢が見せたのは、ランチョンマットや鍋敷きといった様様な用途があるシリコーン製のマットです。ゴム状なので滑り止めにもなり、その表面に付けられた細かい溝がより一層その効果を高めています。更にマット自体柔らかいので収納時に丸めれば場所も取りません。夢達はこのマットもそのためには使わずに、ベッド上での介護やリハビリ等に使います。例えばおばあさんのおむつを替える時、夢達はおばあさんの膝を体育座りのように折り曲げて行います。膝を伸ばした状態よりも折り曲げている方が、横向きになった姿勢を維持出来るので介助をしやすくなるのです。ただ、ベッドシーツの上で膝を折り曲げた状態にするとどうしても足が滑ってしまい、その形を維持する事は出来ません。その時に使うのがこのシリコーン製のマットです。シーツの上に乗せたマットは摩擦で引っ掛かり、マットの上に乗せた足の裏は摩擦で引っ掛かり、足を折り曲げた状態でも滑らなくなるのです。
今日は平日でまだ明るい時間帯なのですが、二階の売り場は女性客で混んでいました。
「この季節なら半袖もまだ沢山あるね」
オッカは売り場をゆっくりと見渡しながらそう言いました。山吹茶や落葉色、薄柿や薄桜、展示された秋色の洋服が少し先の季節を感じさせます。二人はその間を縫って進み、夏用のシャツが並ぶ売り場へやってきました。
「これだとちょっと狭いかい?」
そう声を掛けたオッカは、麻で出来た亜麻色のTシャツを手に取り夢に見せました。
「ネックラインも広いしサイズもピッタリだと思うわ」
夢とオッカは楽しそうにおばあさんの着る服を選んでゆきました。
いつも夢達は、服がおばあさんのカニューレに触れないようにネックラインの幅が広くて深いシャツを選ぶようにしています。ネックラインの幅が狭くて浅いと、カニューレの下に服が入り込んで血液や分泌物等が付いてしまい、カニューレ周辺が清潔ではなくなってしまうからです。また、服やベッドシーツのサイズも大き過ぎると姿勢を調節するのに時間が掛かってしまいます。更にその状態から体を移動したり整えたりしても服やシーツのたるみでずり落ちてしまうので、選ぶ時は慎重です。
そして夢達はそういった利便性だけでなく、もう一つ大切にしている事があります。それは、綺麗で居たいという女性の気持ちです。そんな気持ちをおばあさんが持ってくれているとしたら大切にしたい、夢がみんなにそう話したことが切っ掛けでした。
「じゃあ、これにしようかね。夢は何かあるかい?」
夢は笑みを浮かべながら「これなんだけど」と言い、見比べていた二着の内の一つをそっと手前に出してオッカに見せました。夢が照れながら持っているのはTシャツで、白地の上に黒くて細いストライプが入っていました。
「明るくて良いじゃないのさ。気持ちも変わってくるよ」
夢が選んだ服をオッカはとても気に入りました。
「そっちは?」
オッカは夢が背中に隠していたもう一つの服を覗き込みながらそう言いました。
「あの、これなんだけど」
そう言って照れながら夢が見せたもう一つの服、その服を見たオッカは嬉しそうに笑い出しました。
「そうさ、あれだ、姉さんがあんたにあげたやつと同じだ」
オッカがそう声を上げると、夢は恥ずかしそうに唇をキュッと閉じて頬を上げました。
「うん」
「うん。そうさね、姉さん絶対喜ぶよ」
優しく頬笑んだオッカの言葉が嬉しくて、夢はフワッと柔らかな笑顔になりました。
「ありがとう。オッカさん」
「いいのさ。それにしてもあんた」
オッカは突然話を変え、ふと気になった夢の服の袖にそっと触れました。
「夢にしては早いんだね、長袖」
「そうなの。秋をパッと取り入れたのよ!」
夢はそう答えると、紺のロングスカートを指でつまみ、ヒラリとさせて頬笑みました。
「そうなのかい。あたしはまだ暑いのさ」
魚屋からエプロンだけを脱いでそのまま来たオッカはカラッと笑顔になりました。頼もしく笑うオッカに夢は笑みを浮かべ「素敵だわ」と声を掛けました。夢にとってそんなオッカは、とてもカッコ良くて大好きな存在なのです。
「そうだわ、帰りに油落としのスプレーも買いたいの」
「台所のやつかい?」
夢は「ええ」と頷くと、宙に目をやり話しました。
「換気扇に沢山使ったから。でも前に詰替えを買ったような気がしてたんだけど」
「あぁ」オッカが何かを思い出したような表情で、そう声を零しました。
「あたしが使ったんだよ。ゴキブリが出たからね」
夢はその言葉を聞いた瞬間、眉間にしわを寄せて口を開き、オッカに目をやりました。オッカはそんな夢が可笑しく見えたのか、面白そうに笑いながら話を続けました。
「専用のスプレーは臭いし後の掃除が大変なんだ。姉さんには呼吸器もあるし薬だしね」
「どうしてあれを使うの?」
「あれでスプレーしたら泡が消えずにずっと残るだろ? そしたら足が滑って前に進めなくなるのさ。その後は薬だから何もしなくても動かなくなるよ。それに油落としの泡なら空気汚さないし泡の後は掃除になるし。最強の武器さ」
夢は表情を変えないまま、オッカの話に何度も小さく頷きました。夢の場合は虫取り網を使っていたので、捕獲後に網の中で暴れ回るゴキブリは恐怖そのものでした。とても良い情報を得た夢はこの後、同じ油落としの詰替を追加で二つ買いました。
昼過ぎのオレンジ通り。スーツや作業着姿の人達が、昼食の満足感に浸りながらそれぞれの居た場所へと戻って行きます。
「フミの昼は何置いてきたんだい?」
「お願いだから親子丼にしてほしいって」
「何だいそれ」
二人は楽しそうにクスクスクスと笑いました。軽やかな時間がそんな二人を包んでゆきます。そしてふと静かな間が空いた時、夢がそっとオッカに話し掛けました。
「ねぇ。オッカさん」
「何だい」
夢は笑みを残したまま視線を下に落とし、呟くようにオッカに声を掛けました。
「もう大丈夫?」
そんな夢の気持ちが伝わり、オッカは強い眼差しで前を見つめながら頬笑みました。
「もちろんさ。ふと泣いちゃう時もあるけどね」
小さく頬を上げた夢は「うん」と呟き、唇をグッと閉じました。
「ミゲロさん、オッカさんの側に居るよね。私、本当にそう想うの」
夢の言葉には心があって真っ直ぐで、だからこそオッカの胸の中にちゃんと届くのでした。二人は旅立った大切な人を想い、そっと頬笑み合いました。
「大丈夫さ。そういえば、ねえ、葬式の日、ケンボウが家に行っただろ?」
そう話したオッカに視線を寄せた夢は、頬笑みながら「うん」と小さく頷きました。
「泣いてた私を励ましてくれたわ。伝えてくれた言葉がとっても素敵だったの」
「夢の顔を見てすぐ分かったよ。みんなあんたの事も心配だったのさ」
夢は恥ずかしそうに笑いながら「うん」と頷き、「ありがとう」とぽつりと言いました。それは、いつもの優しい夢の笑顔。そしてその時、オッカはどうしてなのかは分からないのですが、ミゲロが側で笑っているような、そんな温もりをふと感じました。夢の言葉を受け取ったからかもしれません。オッカの心の中に優しい気持ちが満ちて行きました。夏の余韻と秋の気配を感じながら、また一歩、オッカは未来へと歩んで行きました。
「赤ちゃん」
女性に抱っこされた赤ちゃんの顔が目に入った夢は、思わずオッカにそう声を掛けました。その女性はベンチに座り、泣いている赤ちゃんをあやしていました。
「まだ小さいね。アヤトと同じくらいの子だろかね」
二人はゆっくりと歩を進めながら、その様子に視線を寄せました。
「無邪気だからしっかりと伝わってくるね」
笑みを浮かべたオッカは囁くようにそう言いました。そんなオッカに触れ、そっと頬笑み掛けた夢は「うん」と頷きました。
そうして親子の側を通り過ぎる時、夢は「よしよし。よしよし」とささやく女性の声が聞こえました。母と赤ちゃん、そこにあったのは、二人だけの温かい空間でした。
「お母さんには分かるのかな。赤ちゃんの声」
夢は、後ろの様子で赤ちゃんが泣きやんだのだと分かり、オッカにそう言いました。
「そうかもしれないね。あたし達も姉さんの気持ちが伝わる時があるものね。でも、分からなくたって、あたし達の手が姉さんの手なんだよ」
オッカは紙袋を左手に持ち替え、少し赤くなった手のひらを見つめました。
「そういえば、あんたケンシを知らないって言ってたけど、大学の時じゃなかったかい、確かここを出たのは?」
オッカがそう話し掛けると、夢は後ろを気にする様に何度も振り返っていました。
「うん、そうなんだけど、オッカさん? ケンシさんが何か言ってるみたい」
「知ってるさ」
魚屋の店先に居たケンシが、自分が手招きしている事に気付きながらも無視をして前を通り過ぎて行ったオッカに対して、声を上げて呼んでいたのです。
「ハツコが買ってきたシュークリーム全部食っちまったのさ」
「ああ」
状況をすぐに察した夢は思わず笑い出しそうになったのですが、ケンシが遠くからまだ見ていたのでなんとか堪えました。
「ホイップクリームが好きだろあの子。それをね。戻る時買うからいいのさ」
「あの改札口を出た所のシュークリーム?」
オッカが「そう」と頷くと、口の中がシュークリームの味でいっぱいになった夢は「カスタードとホイップのシュークリーム! 私はイチゴが好きだったの!」と声を上げました。夢は高校生の時によく通っていたのを思い出したのです。
「でも今はイチゴのシュークリームは無いみたいなの」
夢は寂しそうにそう呟くと、確かめようのない味を見つめるように宙に目をやりました。
「一緒だねあんた達は。あんたがいつも食べてるお菓子もお気に入りかい?」
オッカがそう聞くと、頬笑んだ夢は振り向いて「そうなの」と声を上げました。
「どこでも売ってるお菓子なの。ホープさんも好きなのよ!」
「へぇー、そうかい。じゃあ今度持って行こうかね」
微笑んだオッカがそう言うと、夢は嬉しそうに「ありがとう」と言いました。
「そうだオッカさん、さっきの話。大学に入るためなの、ここを出たのは」
「そうさね。でも会わなかったかい? ケンボウ達とはよく遊んでたからね、あの子は」
夢は「んー」とうなりながら思い出そうとしたのですが、少しも出てきませんでした。
「ミゲロさん達がどこか遊びに行く時、多分男性しかいなかったような気がするわ。私も同級生とばかり遊んでいたから、さっきのシュークリームも!」
夢の嬉しそうな笑みにつられたオッカは「分かった分かった」と笑顔になりました。
「丁度夢がこの町を出たぐらいなのさ、あの子のお父さんが亡くなったのは」
オッカの言葉に夢は「うん」と小さく頷くと、視線を前にして話しました。
「教えてくれたの。介護の事も」
オッカは頷き微笑むと、オレンジ通りのずっと先を見つめました。
「あの子の居た街で見送ったんだよ。みんなも姉さんと一緒に街に行ったよ」
オッカは優しく頬笑みながらそう話し、夢は言葉と心を重ねるように聞いていました。
「あの時のあの子と姉さんの姿はね、今でもはっきり思い出せるのさ。棺の前で座ってる二人の背中をね」
静かに話すオッカの言葉に夢は何も言わず、ただ小さく何度も頷いていました。
「あの子はそれからずっと一人で暮らしてきたのさ。ほんとに強くなったよ」
夢は「うん」と頬笑みました。そして、今までずっと想っていた事を話し始めました。
「私も本当に強い人だなって思うの。ケンシさん、おば様とずっと一緒に居たかったはずなのに、町に来た今でも、交替しながら私をおば様と一緒に居させてくれるわ」
「夜の事かい?」
「うん」
夢は頷き、嬉しそうに頬笑みました。
介護生活もようやく安定し、夢とケンシは一日ずつ交替でおばあさんの家に泊まるようにしています。その事を決めた時ケンシは「しっかり休んでちゃんと介護出来るように」と言っていたのですが、おばあさんと一緒に居たいと想う夢の気持ちを大切にしてくれたのです。二人にとっておばあさんと過ごす時間は、幸せに満ちていたのです。
「あの広い部屋におば様のベッドを移したの、ケンシさんの考えだって知ってた?」
「へぇ、知らなかったよ。その場で決めたんだと思っていたよ」
「町と家の中がよく見える場所はどうって。ケンシさんはおば様の目になってたのね」
そう話した夢は、とても嬉しそうに微笑みました。
ケンシがクイナの町へ来てから半年が経ちました。チャレンジした事や乗り越えられた問題、色色な事がありました。そんな日日を話しながら歩いていると、いつの間にか二人はオレンジ通りの真ん中まで来ていました。丘の半分がクイナの町で、麓に沿うようにオレンジ通りがあります。そして丘の頂上へと続く縦の道が幾つかあり、その内の三つの道はオレンジ通りと同じ広さになっていて、色色な暖色の石畳が敷かれています。この四つの通りはどれもクイナでは人気で、色んな店が押し合うように開かれています。ただ、クイナの町は丘にあるので、その他の道はとても不規則で狭く、車が通れないような道がほとんどなのです。それでもこの町が住民に愛されているのは、交互に並ぶ暖色の石畳とレンガ道、温もりを感じる家並み、それらがとても綺麗で、その中にある穏やかな暮らしが心を癒してくれるからです。
「あとは、食事の買い物だけだわ」
立ち止まり話す夢とオッカの前を横切る道は、丘の頂上へと続いています。この道を通らないのですが、夢は毎日クイナの丘の頂上へ行きます。茶色のバスケットに入れた、いつものお菓子と大好きな作家の本と一緒に。
「残りの物はこの上で買うかい?」
「確か今日は安売りなの!」
「なら行くしかないね」
そして二人は丘の上へと歩き出しました。
朝方よりも、少し暑くなったクイナの町。でも、数時間後には冷たい風が吹き、蜜柑色の輝きが建物や道を染めてゆきます。クイナの町は背の低い建物ばかり。なので空は大きく広がり、町の住人は光と共に暮らしています。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます