二十五
春の後の雨の季節。この季節の空は曇っていることが多いせいか、外の風景には絵や写真であるような鮮やかな雨や光は無く、周りにあるどの色も黒ずんで見えてしまい、まるで屋根に覆われた世界に居るような気がしてしまいます。それでも夏に変わるその瞬間にカタルシスを感じないという事は、雨の季節は生きるために必要なんだと本能で理解しているのかもしれません。やがて梅雨が終わると雲は晴れ、夏の初めの光を浴びた雨粒が町の中でキラキラと輝き出し、その瞬間の爽やかな空気が心と体に満ちてゆくと自然と陽気な気持ちになれます。
今朝のテレビの天気予報が言った通り、クイナの丘にも夏がやって来たのです。空を覆っていた雲の屋根は消え去り町の様子も開放的になると、外を歩いているだけで大量の情報が五感を刺激してきます。長い休みへのカウントダウンを始めた学生達も逸る気持ちを抑える気はないようで、今の自分の気持ちにピッタリハマるものが何かないかとオレンジ通りに向かうのでした。
そんなオレンジ通りの道端で、雨傘を持った下校中の子供達が固まって何かを見ています。子供達の体は小さく、自分の荷物を無頓着に扱う感じがとても愛らしく感じます。そしてその何かを見ている子供達の背後で、一際小さな二人の子供が背伸びをしながら立っていました。リッキーは子供達の肩の間から、身長が足りなかったミーナは低く屈んで子供達の足元から覗き込んで何かを見ようとしています。
「花か?」
子供二人に目をやったケンジがそう聞きました。何と無く通りを眺めながら歩いていたケンシは立ち止まり、ケンジの視線をたどって行くと「あぁ」とつぶやき答えました。
「紫陽花があるけど興味ないやろ。虫か何か見とんちゃう」
二人はしばらくその様子を遠くから見ていたのですが、ケンジが子供達の方へと道を引き返したので、ケンシも後に付いて行きました。
「ちょっと座って待つか」
ケンシに向かってそう言うと、ケンジは近くのベンチに腰を掛けました。
「さすが太陽、乾いとう」
ケンシはベンチを凝視しながらそう言うと、木製の座面に腰を掛けて子供達に目をやりました。そのまましばらく眺めていたケンシは、何気無くケンジに話し掛けました。
「教育ってやつか?」
ケンシはからかうようにニヤニヤとした笑みを向けながらケンジにそう言いました。するとケンジは教育という言葉が可笑しかったのか、思わず笑い出してしまいました。
「わしとハツエのな。自然環境使って脳を成長させるんや。まぁパソコンと一緒や」
「何やそれ?」
反射的に声が出たケンシは眉間にしわを寄せ、不思議そうな笑みを浮かべました。
「生まれて数年のうちにな、この人間はどれだけの能力が必要か計算して体が作られて、能力の基礎が出来るんや、て事にした。二人で考えたから持論やけどな」
ケンジは子供達の様子を眺めながらそう話しました。しかしケンシは話を聞いても分からなかったのか、その表情のまま考え出してしまいました。
「それと何が関係あんのパソコン」
「パソコンやと文字だけのファイルの容量は軽いやろ? 次に重いんが画像。その次が音でその次が動画。情報量の多さで脳の動きは違ってくんねん。文字だけの勉強は情報量も少ないから大して脳も動かんし楽しないし慣れる。そんな勉強ばっかしとったら、この子が必要な能力はそんなもんかって脳があんま成長せえへん」
ケンシは頭で整理をしながらケンジの言葉を耳に入れてゆきました。
「でも外に出てみ? 自然の中に、動き、音、大量の情報が強制的に脳の中に入ってきて処理せなあかんなる。そしたら脳は、大変や! この子は大量の情報入れてくる! 処理出来るように能力上げな! ってなんねや。知らんけど」
「知らんけど?」
「知らんけど。しかも人間はそれだけじゃないで。匂いやろ、味やろ、痛みと風も土も虫も他もみんな情報や。大量の情報が自然に出るだけで脳に入る。まあ脳にとっての筋トレやな。使えば使うほど成長する。その基礎を今作っとんねん。知らんけど」
「でも面白いなそれ。勉強したん?」
「ちょっとはしたけど後は勘。後から勉強して出来るような事を、この歳の子らに教えても時間の無駄や思てな」
子供達を眺めながらそう話したケンジの横顔は、勘と言いながらも自信有り気でした。
「勘なぁ、まあ自分の子供やからな。でも何か分かる気がする。俺もそんな感じで育ったし。俺手伝うよ。子供ら色んなとこ連れてったるわ」
子供を想うケンシの言葉に、ケンジはニカッと笑い嬉しそうに何度も頷きました。
「サンキュウ。じゃあ今度みんなで旅行にチャレンジしよか。ケンシ前言ったやろ?」
「賛成!」
そう声を上げたケンシはとても嬉しそうな表情を浮かべました。そして、いつか話そうと胸に留めていた事を話し始めたのです。
「ばあちゃん昔な、じいちゃんと二人でいつか行こかって約束しとった場所があんねん。でもちょっと遠いから、ちゃんと計画作るわ。ちょっとずつ外に出て練習もしたいしな」
「また何かあったら言ってくれ。練習やったら春に行った丘でキャンプもええしな」
ケンジはそう言うと、駆け寄ってきたリッキーとミーナの頭にポンと触れて「行こか」と声を掛けました。
二人はベンチから立ち上がると、またオレンジ通りを歩き始めました。二人はこれから子供達を連れて、この通りにある駄菓子屋へ向かいます。
「ふくよしってこの辺やったっけ?」
そう聞いたケンシは目を細めて通りの先を凝視しました。
「もうちょっと先。あのばあさんの娘さんが今やっとうわ」
「懐かしいな。すももやろ、チョコドーナツに、たこせん、三十円ジュースにヨーグルトのやつと、円盤の三十円ぐらいのチョコ」
「お前は今でも食ってそうやな」
ケンジはからかう様にそう言うと、楽しそうに笑い出しました。相手にしたくないケンシは無視しているのですが、内心では毎日行こうと考えていました。
そうしてしばらく歩いていると、突然思い付いたようにケンジが話し出しました。
「後で銭湯行こか。フミとフクもおるやろ」
「おぉええな、行こか」
今日は定休日ではないのですが魚屋は休みです。オッカは休みの日になるとおばあさんの家で過ごすので、時時ケンシはこうやってケンジや子供達と一緒に過ごします。
「あ、この曲や」
ケンジはそう呟くと立ち止まり、曲を探すように顔を上げました。どうしたのかと思ったケンシも足を止めて同じ様に耳を澄ませました。二人とも話す事に意識を向けていたので気付かなかったのですが、オレンジ通りに曲が流れていました。それは時の流れのような、川の流れのような、そんな寂しくて悲し気な旋律をしていて、耳にしたケンシは「ああ」と声を零し何度も小さく頷くと、「グリーンスリーブス」と呟きました。
「前言ったやろ、ロクがよう聴いとった曲って。この曲や」
ケンジがそう言うと、ケンシは腕を組んで空を仰ぎ、グリーンスリーブスの音色に耳を傾けました。懐かしさに触れたケンシの心の中に、幼かった頃の自分が現れました。グリーンスリーブス、この曲を聴くといつもその頃の記憶が懐かしく蘇るのです。
「ここにあった本屋いつやめたん?」
ケンシは古本屋の入り口に掲げられた、クイナ書店と書かれた看板を見つめながらそう聞きました。ケンシが町に帰って来てからしばらく経つのですが、ずっと店のシャッターは閉まったままでした。
「十年以上前やな。もうじいさんやったしな」
ケンジにそう言われ、子供の頃に来ていたあの時にはすでに店主はおじいさんだったという事をケンシは思い出しました。店の外観も時代を感じるものだったので、とても長く続いていた本屋だったのかもしれません。あまり喋らない静かな店主だったからか、店の中もとても静かな印象だけがケンシの心に残っていました。
そんな古本屋に、ケンシは子供の頃一度だけ父親のロクと来た事がありました。その日、港に停泊させている豪華客船の船内施設を見学できるイベントがあり、ハガキの抽選で当選したロクはケンシと二人で参加しました。ロクはケンシが喜ぶと思い連れて行ったのですが、子供のケンシの記憶の中には深紅に彩られた船内の廊下の映像しか残りませんでした。ただ、それよりも鮮やかにハッキリとケンシの心に残ったものがありました。それは、その帰り道で過ごした二人の時間でした。家に向かいオレンジ通りを二人で歩いていると、家のような柔らかな光を零すクイナ書店がケンシの目に留まりました。並ぶ本達にワクワクし出したケンシがどうしても古本屋に入りたいとロクにお願いをすると、一緒に入ってくれました。並ぶ本を見るだけで嬉しい気持ちになれたケンシは、店の中をキョロキョロとしながら漫画の背表紙を眺めていると、突然ロクが本を買ってくれると言ってくれたのです。飛び跳ねるように喜んだケンシはワクワクしながら店内を見て回り、選ぶ本を以前から気になっていた二冊に絞り込みました。そしてケンシはその二冊の漫画を見比べ、どちらを選ぶか最大限に思考を巡らせました。
「両方買ったらええから。他には? それだけでええんか?」
突然飛び込んできたロクの言葉に喜んだケンシは「ちょっと待って!」と声を上げ、急いで何かないかと再び探し始めました。しかし、そんな時に限って優柔不断に悩んでしまい、結局初めに選んだ二冊の漫画を買ってもらうことにしました。
ロクと過ごした、そのほんの十五分ほどの時間が、生涯忘れる事のないケンシの想い出になりました。特別ではなくて、金額でもなくて、いつまでも心の中で輝き続ける瞬間は、そんなありふれた日常の中にあるのかもしれません。
ある日の夕方、家の洗面所から出ようとした小学一年生のケンシは、すれ違って入ってきたロクの顔を見上げました。
その日、学校の休み時間に教室で、自分達のお父さんの事について友達と話しました。友達のお父さんの話を聞いたケンシは、その時初めて、自分のお父さんというものを理解しました。
「どうした?」
自分を見つめていたケンシに気付いたロクは、笑みを浮かべてそう言いました。
ケンシは、生まれてからずっと一緒に居たロクの笑顔を見つめながら思ったのです。
この人が僕のお父さんか。
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