二十

「置いていきな。後で藁で炙ってやるよ。初鰹はたたきだよ」

 オッカが夢にきっぱりとそう言いました。

「お願いするわ!」

 鰆にしようか鰹にしようか悩んでいた夢は笑顔でそう返事をしました。春の初鰹はさっぱりとしていて、たたきにすれば鈍く光る紫の身は舌に絡まり、稲藁の炎で少し焦がした皮の香ばしい香りは鼻を抜け、ほんのり熱の通った白い身を噛めばとけて舌に広がり、にんにく、玉葱、ネギ、みょうが、しょうが、大葉、ゆず、塩、ぽん酢、好みで入れた薬味が豪華に味をまとめます。夢は財布をリュックサックに入れながら、気になっていた事をオッカに聞きました。

「お店は一人で大丈夫なのかしら?」

 するとオッカは空になった陳列棚のざるを集めながらニカッと笑いました。

「見ての通りさ! でも配達もあるから今度誰か見つけるよ」

 そう話したオッカはとても元気な様子で、仕事をするのが楽しそうです。

「これ醤油くれる?」

 スーツ姿の男性が、鯛の刺身を指差しながらそう注文しました。

「わさびもいるかい?」

 オッカは刺身が盛り付けられているトレーを袋に入れ、わさびの小袋を見せました。

「ありがとう」

 スーツの男性は笑顔でそう返事をし、持っていた財布を開きました。

 夢はオッカに笑顔を向け、そっと「オッカさん、頑張って」と声を掛けて店を離れました。オッカは醤油とわさびの小袋をレジ袋に入れながら、夢に「ありがと! また後でね」と声を上げ、ニカッと笑顔を見せました。


 夢は魚屋を後にすると肉屋と八百屋で買い物を済ませ、おばあさんの家へ帰りました。夢が買い物をしている間は、フクとヘルパーがおばあさんと一緒にいます。

「ただいま」

 夢が玄関の扉を開けると、慌てた様子のフクが振り向きました。

「夢か! ちょっと居てくれ!」

 フクはそう言うと、靴を履き始めました。

「どうしたの?」

 夢は心配そうにそう聞くと、廊下の奥に目をやりました。

「自転車の鍵が無ぇ! 調子んのって運動とかするもんじゃねぇな!」

 フクは少し離れた所で自転車を停め、そこから歩いて家まで来ているのです。

「私もう出ないから大丈夫」

「また来る!」

 フクはそう声を上げると、キョロキョロと地面を凝視しながら走って行きました。

「お帰りなさい」

 その声に夢が振り返ると、朝から来ていた四十代後半の女性ヘルパーが玄関に立っていました。夢はヘルパーに軽くお辞儀をすると玄関に入り、靴を脱ぎながら尋ねました。

「何か変わった事はありましたか?」

「大丈夫でした。足浴も気持ち良さそうでした」

 ヘルパーはそう答えると、夢の持っている袋に目をやりました。

「買い物ですか?」

 ヘルパーにそう尋ねられた夢は袋の中を覗きながら言いました。

「はい、沢山買ってきました。あ、ありがとうございました」

 夢がそう言うと、お辞儀をしたヘルパーは靴を履いて玄関の扉を開けました。

「じゃあ、また明後日に」

 ヘルパーは笑顔でそう言うと、扉を閉めて帰って行きました。

 お辞儀をしていた夢は顔を上げると、おばあさんの居る部屋に駆足で入りました。

「ただいま、おば様!」

 座った状態でテレビを見ていたおばあさんは振り向き、夢の顔が目に入ると大きな口を開けて笑顔になりました。

「待ってて、今お昼の用意するから!」

 夢はそう声を掛け、おばあさんが頷いたのを確認すると台所に入りました。台所のテーブルにレジ袋を置き、手洗いとうがいをしました。そのままテーブルの上に置いている口腔ケア用のコップを手に取ると、コップとその中に入れておいた歯ブラシと舌専用の舌ブラシとスポンジブラシ(プラスチック棒の先に小さなスポンジが付いた口腔ケア用品)を食器用洗剤で洗い始めました。そして全て丁寧に洗い終えると、コップは食器乾燥器に入れ、ブラシはテーブルの上に置きました。さらに夢はテーブルの上の台ふきんを手に取ると、台ふきんに汚れがないか確かめながら水ですすぎ、すすぎ終えた台ふきんでテーブルを拭いてまたすすぎ直し、最後に元の位置に戻しました。

 夢はそれらを終えると、次におばあさんの昼食の用意を始めました。吊り戸棚の取っ手に掛けた大きなS字フックに、栄養剤を入れる胃瘻用のボトルを掛けました。流れ出さないようにクレンメを締めると液体の栄養剤と白湯をボトルに入れ、蓋を閉めました。

「お待たせ、おば様」

 夢はそう言いながらベッドまで慎重にボトルを運びました。そのままベッドの頭側のオプション受けに点滴棒を差し込むと、そこにボトルを吊り下げました。おばあさんは口を半分開けながら、夢が持ってきたボトルを見ようと顔を上げました。そんなおばあさんの何気無い仕草に幸せを感じた夢はクスッと笑ってしまいました。夢が笑ったことに気付いたおばあさんも笑顔を向けました。

「ご飯、始めよっか」

 夢がクレンメを緩めると、ボトルの中の昼食が流れ始めました。

「あ、そっか、ちょっと待ってね!」

 夢は思い付いたようにそう声を掛けるとベッドに差し込んだ点滴棒を抜き、ベッドの足側のオプション受けに差し込み直しました。

「これで見えるね!」

 ベッドの足元に点滴棒が来た事でおばあさんの視点からボトルの様子が見えます。そうすればおばあさんは今食事をしているという認識を持つことができ、その方が日常生活において良いのではないかと夢は考えたのです。今何をしていて、何が起こっているのか、そういった日日の生活を認識する事でおばあさんは今という時間を感じられる、そうやって何か少しでも心や脳の刺激になればいいなと夢は想っていたのです。

 夢に笑顔を向けたおばあさんは視線を前に移すと、楽しそうにテレビを見始めました。

 夢はそっと、そんなおばあさんの横顔を見つめていました。


 夢は小走りにおばあさんの家へと向かっています。今日はフミと先週来た四十代後半の女性ヘルパーがおばあさんの家に居ます。女性ヘルパーは来月に辞職するそうで、代わりに六十代の女性ヘルパーと四十代前半の女性ヘルパーが入る事になりました。数日前から辞めた後の引き継ぎをヘルパー同士で行っていて、今日も一時間同行し、夢が家を出るのと同じタイミングで新しいヘルパーは帰りました。

「ただいま!」

 夢は玄関でそう声を上げると、急いでおばあさんの居る部屋に入りました。

「おう夢、お帰り」

 そう返事をしたフミは、おばあさんの昼食を始めたところでした。

「ごめんなさいフミさん!」

「何が?」

「遅くなっちゃって」

 するとフミは笑いながら立ち上がり、夢の持っていたレジ袋を手から取ると台所に入りました。夢が暖簾から顔を出すと、フミは袋から取り出した玉葱やじゃがいもや人参や牛の細切れを冷蔵庫に入れながら「仕事じゃないんだ。居たいから居るんだ。気にするな」と笑顔で言いました。夢が「そっか」と呟くと、二人は笑みを向けました。フミは夢の肩にポンポンと触れ、また部屋に戻って行きました。夢は暖簾越しに「片付けをするわ」と声を掛け、フミの「あいよ」と返事した声が聞こえると、またいつものように手洗いうがいをし、口腔ケア用のコップとブラシ類を洗い、台ふきんに汚れがないか確かめ念入りに洗いました。片付けを終えた夢が部屋に戻ると、おばあさんとフミは楽しそうに時代劇を見ていました。

「暴れん坊将軍」

 夢は笑いながらそう言うと、おばあさんの隣に膝をついて座りました。おばあさんの家では、この時間は必ずこのドラマが流れています。ドラマの舞台は江戸時代で、悪事を働いた者共を殿様がバシッと成敗するといった定番のエンディングがあり、みんなはこれを楽しみに見るのです。

「夢、明日風呂?」

 フミはテレビに顔を向けながら、小さな声で夢にそう聞きました。夢はフミの方へ振り向くと、小さく頷き「うん」と返事をしました。するとフミは夢に顔を向け、ささやくように声を掛けました。

「そうか。じゃあ頼んだ」

 夢が「うん」と返事をすると、フミはまたテレビに顔を向けました。

 夢がそのまま視線を上げると、おばあさんはテレビに夢中になっていました。

 訪問入浴には組み立て式の浴槽を使うのである程度の広さが必要です。おばあさんの場合は広さのあるこの部屋で入浴をします。週に二回来てもらい、それに合わせてベッドのシーツや枕カバー等を交換します。

 フミが「頼んだ」と掛けた言葉の真意は、先週あった訪問入浴の時の違和感につながります。入浴のサービスが終わり従業員が帰った後、家に来ていたフミが夢に聞きました。

「ばあちゃん嫌がってない?」

 夢は思いもしなかったフミの言葉にビックリしてしまいました。ただ、実は夢自身も、入浴サービスの従業員が入ってきた時のおばあさんの表情に微かな変化を感じていたのです。しかしこれは少し進んだ認知症が影響し、今までと違う感情の表現になったのだと夢は思っていました。それまでは、従業員が来るとおばあさんは嬉しそうな笑顔になっていたからです。

「最近掃除機の音嫌がるんだよ、ばあちゃん」

 心配そうに話したフミの言葉に、夢は真剣な表情で何度も頷きました。丁度同じ時期から、おばあさんは掃除機の音を嫌がるようになっていたのです。

「そういえば」と夢はふと、もう一つの事を思い出しました。

 ただ、これらについては確実な事は何も無く、ハッキリとどうなのかも分かりません。夢はその原因が分かるまでこの事を心に留め、注視してゆくことにしました。

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