十七

 夢は、病院へ通じる長い陸橋を小走りに渡っています。毎日決まった時間に家事を終わらせるので、同じ時間に夢はここを通ります。一人でいるおばあさんを想い、その想いが夢を走らせるのです。

 夢が背負うリュックはカチャカチャと、手に持つレジ袋はシャカシャカと、いつも同じ音を鳴らし夢は走っています。リュックには夢が作った料理が入っている弁当箱、凸凹したレジ袋にはおむつやティッシュが入っています。日常で使う消耗品は病室に収納出来る量を考慮しながら選択し、不足しないように補っています。

 夢ははやる心を抑え、陸橋の途中の角を曲がり病院へ入って行きました。

「おば様!」

 夢の顔が目に入るとおばあさんは笑顔になりました。おばあさんの笑顔に会えた夢は心の不安が和らぎました。そしてやっと、今日の時間が動き出すのです。

「おば様、お腹はしんどくないかしら?」

 夢がそう聞くと、おばあさんは少し困ったような表情をして頷きました。

「やっぱりご飯が合ってないのかもしれないわ」

 夢は用意されていた夕食分の栄養剤を手に取ると、答えを探すように凝視しました。おばあさんは入院してからずっと下痢が続いていたのです。下痢は体力を奪う上に、水分が余計に排出されてしまうので脱水を起こす危険性があります。ただ、夢が今一番心配しているのは、それが原因となってできてしまうかもしれない褥瘡です。下痢により汚染され、湿った状態が続いてしまうと皮膚が弱くなってしまいます。だから夢達は不衛生にならないように排泄介助にしっかりと時間を掛け、綺麗にしています。そうやって今では夢達が排泄介助を行なっているのですが、以前は病院の看護師に任せていました。自分達で頑張る、と言う綺麗な話でそうなったのではなく、看護師の手技を目の当たりにしたのがその理由でした。手技の何が気になったのか一つ挙げるとすれば、排泄介助時に使っていた手袋の扱い方でした。まず排泄介助の手順は、おむつを開放する、便を拭き取る、人肌の湯と洗剤で洗い流す、水分を拭き取る、汚れたパッドを棄て新しいパッドを当てる、おむつを閉じる、という流れなのですが、この一連の流れを始めに付けた手袋一枚でそのまま通して行なっていたのです。清掃後に着ける新しいパッドや新しいおむつはもちろん清潔なので素手で触る事が出来ます。むしろ素手よりも綺麗です。それを汚れた手袋のまま使用してしまうのです。更にそのまま衣服にも触ります。それだけではなく、排泄介助によりベッドからずれ落ちてきた体をベッドの上部に上げるため、その手袋のまま体に触るといった事もあったのです。そこに居た夢が見ていて思わずゾッとしてしまったのは、そのまま何の抵抗もなく枕を触っていた事でした。しかしそれは病院だけの事ではありません。同じ介護を行う人に聞いた話では、ヘルパーとして来た看護師が、同じようにその手袋のまま人工呼吸器の回路に触ろうとした事があったそうなのです。もちろん家族はすぐに注意したそうです。

 夢は看護師のその感覚が理解出来ませんでした。排泄介助時の手袋は自分の手が汚れないため。では患者なら汚れてもいいのか。そんなわけはありません。では看護師は、排泄介助が終わったその手袋で自分の服を触る事が出来るのか、自分の枕を触る事が出来るのか、自分の髪を触る事が出来るのか。当然そんな事はしないでしょう。そして夢達と同じように、自分の子供や大切な人にもしないのでしょう。

 それだけではない色色な事を目の当たりにした夢達は、その後、おばあさんの事は出来る限り自分達で行おうと話し合って決めたのです。


 今は午後の六時です。昼前に病院を訪れていた夢は仕事があるので一度帰宅し、再び夕方過ぎにおばあさんに会いに来ました。夢が病室に入ると、おばあさんの体の向きは体位変換により変わっていました。おばあさんは電源が切れたテレビを背に、部屋の中を眺めていました。夢はすぐに手に持っていたレジ袋をパイプ椅子に置くと、おばあさんの前にあるパイプ椅子に腰を掛けて世間話を始めました。おばあさんは横になっているので小さくしか頷けないのですが、楽しそうな表情になりました。そうやっていつも夢が話すのは町のみんなの日常の事です。おばあさんは特にミーナの事が聞きたいのか、その話になるととても嬉しそうに笑ってくれます。「退院した後よろしくね」とハツエからの伝言を伝えると、おばあさんは口を大きく開けて笑顔になりました。

 ミーナは人懐っこくてあまり泣きません。抱っこしてほしいと腕を伸ばすので夢が抱き寄せると、服をよだれでベトベトにします。お腹が空くと夢の体にグリグリと顔を当ててきます。そんな仕草が可愛くて仕方が無いのです。

 そんなミーナの顔を見ていると、いつも夢は母の事を想い出します。認知症になった夢の母は、少しずつ子供の心に戻って行きました。いつも側に居た夢は、そんな日日の中だからこそ触れる事ができる母の子供のような眼差しが大好きでした。色んな事を忘れてゆく寂しさもあったのですが、他意の無い真っ直ぐな母の瞳が、自分を呼んでくれるその眼差しが、二人で一つの介護生活を幸せに満ちた日日にしてくれたのです。

 二人は子供達の楽しい話で盛り上がり、いつの間にか時間は過ぎて行きました。途中、病室に来た看護師と一緒に体位変換も行いました。その後看護師はおばあさんの体温を測り、血圧や脈拍等のバイタルサインを確認し、病室を出て行きました。おばあさんの体の向きが変わったので夢はテレビの電源を入れ、楽しそうな番組が放送されていないかとチャンネルを色色替えてみました。青い狸のアニメ、黄色いハムスターのアニメ、煙突掃除夫のアニメ、チャンネルが替わるたびに夢は僅かに反応したのですが、おばあさんが見る番組はありませんでした。

「そうだわ! 言ってたおば様のベッドが来たの!」

 夢はテレビを消し、今度はおばあさんの家の話を始めました。病院のテレビは高額な使用料が必要になるので節約しながら利用しなければいけないのです。

「新しいベッドも凄いの! ベッドごと傾いて本当に座っているみたいになるの!」

 夢の話におばあさんは驚いたような笑顔で頷きました。

 介護ベッドの技術は進化してゆき、可動出来る部分も増えました。標準的な仕様ではベッドの上部の角度、ベッドの膝の角度、ベッドの高さの三つなのですが、おばあさんの家にきたベッドはもう一つ、ベッドごと斜めに傾ける事が出来る機能が付いていました。まるでソファに座ったような姿勢がとれるので、より自然に近い形で日常を過ごすことが出来るのです。その他のベッドにも、横向きになるために縦に折れ曲がったり、分離して車椅子になったりと、革命的な変化が起きているのです。

「あの部屋にベッドを移動させてみたら凄いのよ! 庭向きだから景色がとってもいいの! きっと気に入ってくれるわ」

 人工呼吸器と一緒に暮らすことが決まったので、そのためのスペース作らなければいけません。ベッドの位置や家具の配置を変える必要がでてきたのです。夢達はまず広い部屋の真ん中にベッドを移動させました。すると庭から掛けて外の風景を眺めることが出来るようになり、さらに部屋の中も見渡せるようになりました。おばあさんの位置から部屋に居るみんなの姿が見えるので、孤独の不安は和らぐかもしれないと夢達は喜んだのです。「テレビもどの姿勢でも見えるように男性達が頑張ってくれました!」

 そう言いながら握りこぶしと力こぶを作った夢が楽しそうで、おばあさんは自然と笑顔になりました。

 ふと時間が気になった夢は携帯電話に目をやりました。時間はもう八時半を回っていました。通常病院の夕食は六時か遅くても六時半までには始まります。おばあさんは胃瘻からの食事なので、特別何かをするわけではありません。ただ、ここは救急病棟なので夢には何が正しいのか分からず、今は入院中なので食事の時間について医師から何か指示があったのかもしれません。

「すいません。夕食がまだなんですが」

 夢はナースステーションに居た担当の女性看護師にそう尋ねました。

「あ、すいません。ちょっと待って下さい」

 看護師はそう言うと、すぐにどこかへ行ってしまいました。

 夢は何となくですが、そう言われるのではないかと思っていました。指示が出ているわけではなさそうだと、看護師の様子から感じていたのです。

「やっぱり寝てる」

 夢が病室に戻ると、おばあさんは眠かったようでウトウトしていて、とても目蓋が重そうです。夢は、膝上に下げていた毛布をおばあさんの腰まで上げ、椅子に座って看護師が来るのを待つ事にしました。

 少しすると、夢と話した担当の看護師が液体の栄養剤の入った胃瘻セットを手に病室にやって来ました。これで食事が出来ると思った夢は少し安心しました。ただ、今は午後の九時過ぎです。そして、どこか苛ついているように見える看護師は無言のまま、栄養剤が入った透明のバッグを点滴台に掛け、胃瘻へつなげました。看護師は点滴筒を見ながら、クレンメ(点滴を使う際に薬や栄養剤等の流量を調節する部分の事を言います。看護師が腕時計を見ながらクレンメを締めたり緩めたりしながら調整します)を全開にしました。点滴筒の中を栄養剤が一気に流れ始めました。

 目の前で当たり前のように行われたその行為に、夢の思考は止まってしまいました。液体の栄養剤は速い速度で流してしまうと下痢になる可能性が高くなってしまうのです。そのため一人一人に合った速度で管理し下痢を防ぎます。そもそも一気に流す事が出来るのであれば、胃瘻の容器の洗浄や食事に多くの時間を使い、おばあさんの負担を増やす点滴は行いません。それを当たり前のように看護師に行われ、夢は言葉を失い、戸惑ってしまいました。恐らく、看護師の都合で九時過ぎに始まった遅い食事を早く終わらせ、時間の帳尻を合わせようとしているのでしょう。しかし、どんな理由があろうとも患者には関係がありません。また、状態が落ち着いてから入る病棟とは違い、ここでは時間の制限がより強く面会者に加えられています。だからこそ、この場所ではより厳格に管理されていると思ってしまうのですが、決してそうではなかったのです。例え、患者と看護師の周りに沢山の人が居たとしても、声の出せない患者にとってその空間は、密室と同じなのです。

 看護師は栄養剤を流し終えると、何も言わずその場を後にしました。

 それが正しい事なのか分からない夢は、何も言えませんでした。優し過ぎて、弱過ぎて、人に何かを言うのが怖いのです。自分の弱い所と知りながらも、また何も出来ませんでした。ただ、医療従事者と患者や家族の間には、夢でなくてもそこに壁は存在します。医療の事が分からない患者や家族へ向けた、医療従事者が作る踏み込ませないための壁なのです。

 夢は「ごめんなさい」と謝るように、おばあさんに毛布を掛けました。すると、おばあさんは夢に笑顔を向けました。夢も思わず笑顔になれました。夢はいつもその笑顔に心を救われるのです。

 おばあさんが眠ったのを見届けると、夢はリュックを背負いました。

「おやすみなさい」


 夢が翌日の午前に病室を訪れると、担当は日勤の看護師に替わっていました。夢はそのタイミングに合わせ、おばあさんの食事を自分達で行ってもよいのか看護師に尋ねました。今度の担当の看護師は若い女性で、説明をしっかりとしてくれる人でした。

「いえいえ全然。ありがとうございます。逆に助かります」

 担当の看護師はそう答えました。夢は少し気を張っていたのですが、その女性の看護師に安心感を抱きました。


 そしておばあさんは退院の日を迎えました。人工呼吸器を使ったおばあさんの呼吸はとても安定しています。病状に変化があればおばあさんに合わせて変更するかもしれないのですが、現在の人工呼吸器の設定は、自発呼吸がなければ六秒に一回、一分に十回の間隔で人工的な呼吸を行うようにしています。少しでもおばあさんの自発呼吸が確認されればその呼吸に合わせて人工呼吸器はサポートします。自分に近い感覚で行える呼吸は、おばあさんの心に安心感を与えてくれました。

 夢は、パイプ椅子に置いておいた帰りの荷物を両手でガサッと持ち上げました。

「帰る準備は出来たわ!」

 ストレッチャーの上で横になっているおばあさん。

 足の間には、人工呼吸器が置いてあります。

 病院に来た時に、あったもの、無かったもの。

 家に帰る今、声、人工呼吸器。

「さあおば様、帰りましょ!」

 おばあさんの笑顔は、嬉しさで満ちていました。

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