瓦の屋根が特徴的な平屋の家。和の色や和の形が広がるミロクおばあさんの家です。太陽の光、樹木、雑草、古い畳、広い庭から楽しそうな声がしました。

「コラァ! 上だ上持て!」

「違うお前の足がグラグラしてんだろ! ちゃんと立て!」

 フクが支える脚立の上に立つミゲロは、新しい雨どいを設置しようとしています。

「うるさいねぇ! 壁ぐらいさっさと直しておくれ!」

 長方形の大きな卓袱台の上に、オッカがドンッとお盆を置きました。お盆の上の皿には小振りのお握りが四十個ほど並べられていて、空腹状態の男達を釘付けにしました。言い合いをしながら作業をしていたミゲロとフクはお握りをじっと見つめました。

 また台所の暖簾が開き、オッカに続いて小さな背の女性がこれまた大量のおかずを盛った重そうなお盆を手に部屋に入ってきました。すると、新しい雨どいの寸法を庭で測っていたフミが走ってきて縁側に膝をつきました。

「あ! ハツコの玉子焼き! 大好きなんだよ!」

 ハツエはお盆を卓袱台の上にトンと置くと、大きなお腹を擦りながら「そう」と自慢げな笑顔で言いました。そしてまた暖簾をくぐり、台所に入って行きました。

「あたしはこれだね! ハツコのは全然違う」

 オッカはハツエが持ってきた唐揚げを一つ摘んで口に運び込み、瞳を閉じて味わいだしました。すると脚立の上から腰を落として見ていたミゲロが足をグラグラさせながら声を上げました。

「何でオッカが先に食ってんだ!」「あたしらが作ってきたんだよ!」「俺らが作業してんだ!」突然始まった夫婦喧嘩。すると、そんな事は関係ないかのように庭の方から夢の大きな声が聞こえました。

「オッカさん見て!」

 庭に現れた夢がゴロゴロゴロとシルバーカーを押しながら歩いて来ました。以前見た時よりも既製品のように安定しているそのシルバーカーは、ミゲロのアドバイスによって完成したのです。ただミゲロはアドバイスをするだけで一切手伝いませんでした。そうすればきっと夢のためになり、ミロクおばあさんも喜ぶと思ったからです。

「ジャン!」

 夢が両手を広げて披露すると、ミゲロは脚立から下りてきてシルバーカーを丁寧にチェックし始めました。前面の収納ボックスのスペースは十分ありそうです。上がっていた蓋を下ろして収納ボックスを閉じ、上から手のひらで体重を掛けました。想像以上にミゲロが強く押したので、見守っていた夢の手には自然と力が入っていました。ただこれはミゲロに言われていた事なので、必要以上に慎重に丁寧に頑丈に作った場所でもありました。

「自分で乗ってみたか?」

「試してみたわ。長く座れるようにクッションで座り心地良くしてみたの。クッションは熱が篭らないように分けて入れてみたわ」

 収納ボックスを閉じる蓋は座面になっています。本体が動かないようにブレーキを掛けた状態でロックすると椅子として利用出来るのです。多くのシルバーカーがそうなっているので、夢はどうしても同じようにしたかったのです。

「そうか。耐荷重も大丈夫だろうしブレーキもちゃんと出来てる。安心だ」

「やった!」

 夢は両手を胸の前で握り締め、大きな笑顔になりました。杖を使い始めていたおばあさんが楽に歩けるようになるかもしれない、そう思うだけで心が躍りだしてしまうのです。

 様子を見ていたオッカが縁側から庭に下りてくると、「どれ」と声を掛け夢の方に歩いて来ました。オッカに振り向いたミゲロが「お前乗るのかい?」と反射的に声を上げたのですが、言った言葉がまずかったようで、さらには無意識の内にそっとその道を遮ってしまったのです。「なんだい!」凄い形相のオッカを目の当たりにしたミゲロは思わず重心を後退させてしまいました。

 夢は慌ててミゲロに助け舟を出しました。

「大丈夫なのミゲロさん! 椅子の部分はオッカさんがアドバイスをくれたの!」

 ミゲロはビクッとした表情のまま、何も言わずに縁側の方に歩いて行きました。

 そんなミゲロの背中へ向けて夢が言葉を掛けました。

「ありがとうミゲロさん。ミゲロさんがいてくれて良かったわ」「ん、おぅ」

 楽しそうに笑うオッカが「何照れてんのさ」と声を掛けると、「うるせぇ」とミゲロは呟きました。巻き込まれないようにそそくさと男達は縁側に上り、待ってましたと言わんばかりに食事を始めました。

「座ってオッカさん! スゴく良い座り心地なの」

 夢に勧められたオッカはシルバーカーにそっと腰を掛けました。オッカは笑みを浮かべながら「うんうん」と頷くと、立ち上がってシルバーカーをじっくりと眺め始めました。

「綺麗な色、綺麗な模様だね」

「気付いてくれた! なでしこの花の模様なの! 綺麗な紺色の生地だったから、お店で初めて見た時絶対これにするって決めていたの」

 夢の話を頷きながら聞いていたオッカは「よくできたよ」と言葉を掛けました。うつむいた夢は、恥ずかしそうに嬉しそうに頬を上げました。

 そうしていると、ミゲロがリスの様に食事でほっぺたを膨らましながら「おおい! そろそろじゃねぇかぁ?」と声を掛けました。オッカは夢の方に振り返ってニカッと笑みを向けると「これ、持っていくってのはどうだい? 早く見せたいだろ?」と言いました。夢の瞳は輝き、体で大きくウンッと頷きました。

 今家に居るのは夢達だけで、おばあさんは特定疾患に関する申請や様様な手続きについて相談をしに役所へ行っているのです。時間があれば歯科と眼科にも寄ってくると言っていたので、少し遅くなるかもしれません。しかし夢は、思ったら行動、なのです。悩みません。「駅まで押していこうか」オッカが楽しそうにそう言うと、期待が一気に膨らんだ夢は「行きましょ!」と声を上げました。大好きな人へのプレゼントは早く渡したくなるものなのです。

 そうして二人は男達に「サボるなよ」ときつく警告すると、ハツエに後を任して駅に迎えに行きました。ゴロゴロゴロ、ゴロゴロゴロ。


 青や白の石畳が広がるクイナの駅の前。広場になっているこの場所はオレンジ通りとつながっています。そんな人の往来が多い通りから外れ、二人は道の端でおばあさんが帰ってくるのを待つことにしました。まだ家には戻っていないことは分かっているので、二人交互にシルバーカーに乗りながら色色試したり、使い方やケアなどをどう説明するか話し合っていました。

「このブレーキは油を注す所を絶対間違っちゃダメだよ」

「ほんとだ。そうだ、私時時見に行くわ! 使い始めはどうなるのか心配だから」

「そうだね、その方がいいね。私も店に来た時は軽く調子を見ることにするよ」

「ありがとう。ねぇ、もうすぐ来るかな?」

 夢が駅の方へ振り向くと、オッカは通りの先に目をやりました。

「ケンボウのことだから多分この道を、あ、来たよ」

 オッカが通りの先を指差すと、一台の軽トラックが走って来ていました。それに気付いた夢が大きく両手を振ると、走ってきていた平ボディの軽トラックは徐行し始め、二人の前で止まりました。側面のあおりの部分に「三ツ星鉱泉所」と書かれていて、荷台には空のジュース瓶が入ったケースが五、六個積まれていました。

「おったんか」

「ケンちゃんお帰り! おば様どうだった?」

 夢は運転席の窓から顔を出したケンジには目もくれず、奥の助手席にいたおばあさんに声を掛けました。そんな適当な扱いを受けたケンジが大袈裟ににらむと、夢は吹き出しそうになりました。おばあさんはそんな事も気にせずシートベルトを外すと「ケンジ、ありがとうね。ここからは歩いていくよ」と声を掛けました。ケンジは夢をにらんだまま「分かった。先行っとく」と言いました。

 おばあさんはトラックから降りると、杖をつきながら夢の方へ歩き出しました。代わりにオッカがトラックに近付いて行きました。するとケンジは反射的ににらんだ顔を向けてしまい、オッカにゴンッとゲンコツをもらいました。

「イッタ何しよんねん!」

「いいからメシ食ってさっさと手伝いな! まだ終わってないよ!」

「玉子焼きは?」

 ケンジは頭をゴシゴシ擦りながら聞きました。

「もうないだろうね」

「ええ!」

 そう聞くや否やケンジはおばあさんの家へとトラックを走らせて行きました。

 ケンジに「ありがとう」と手を振った夢は、すぐにおばあさんへ報告しました。

「見ておば様!」

 シルバーカーはもう見えていたので、驚きよりも感謝の気持ちがおばあさんの笑顔から溢れていました。おばあさんは夢から受け取ったシルバーカーのハンドルを握ると、前後にコロコロ、コロコロ動かしました。手元と足元に設置されたブレーキを掛けてみたり、解除してみたり、その力加減を試してみたりもしました。

「凄いねこれは。あたしでも少しの力で止まるよ。杖だけだと怖いのさ」

 すると夢はハンドルの端に取り付けられたフックを指差し「これは杖を掛ける所なの! それにほら」そう言うと前面の座面を持ち上げ、収納ボックスを見せました。「ここはお買い物の時に使って! とっても大っきく出来てるからまとめてお買い物ができるわ!」「すごいね、これはあたし向きだね」おばあさんはシルバーカーを眺めながら、とても嬉しそうに頬笑みました。それから二人は、本体はどうなっているのか、どこでどう使おうか、そんなおばあさんの質問一つ一つに考えながら答えてゆきました。

 夢は、プレゼントした物を積極的に使おうとしてくれている、そんなおばあさんの姿が瞳に映り、心の底から嬉しくなりました。

「姉さん、そこ座れるのさ」「ここを下ろすと座れるの!」夢はそう言うとパタンと座面を下ろし、座る時の説明をしながらブレーキを掛けてロックしました。必ず忘れないようにと手本を示し、おばあさんに座ってもらいました。おばあさんはとても座り心地が良さそうな表情で背もたれに体を預けました。

「そこは夢が頑張ったところさ」

「ううん、私は作っただけ。オッカさんとミゲロさんがいなかったら出来なかったわ」

「夢。本当にありがとうね。あんた達夫婦もやっぱり並じゃないねぇ」

「あたし褒められてんのかい?」

 頬笑んだ夢は「うん」と頷きました。

 それから少し話した三人は家へ向かい通りを歩き出しました。もちろん会話はいつもと変わりません。変わったのは、少しだけ腰が曲がって低くなったおばあさんの背中。座る時間が増えたからなのかもしれません。歩く両足のリズムが違うのも、右足をかばっているからです。歩く事が嫌にならないように、そう願って作ったシルバーカーは日常の楽しみを支えてくれる心強い物になりそうです。


「ただいま」

 先に家に着いたオッカは帰り道の途中で買ってきた沢山のカフェ・オ・レソフトクリームを冷凍庫に隠し、洗い物をしていたハツエに話し掛けました。

「あっちは終わりそうかい?」

「二人が出てからもちゃんとやってたわよ」

 台所の暖簾を開き、庭の様子を厳しい顔で覗き込んだオッカを見たハツエは手で口元を隠しながら「フフフ」と笑い、声を掛けました。

「棟梁みたいね」「アンタそれはないよ! あたしはね」「そうそう卵なかったから買っといたわよ。おばさんには栄養沢山摂ってもらわないと」

 オッカの小言を遮るようにハツエは冷蔵庫を開けて中を覗きました。オッカはとても不服そうでしたが、同級生のハツエにはいつもそうやって上手に扱われてしまいます。

 オッカはブツブツと言いながら台所のゴミをレジ袋に集め始めました。

「あぁ、卵買ったって事はケンボウかい?」

「そう。お父さん食べるって言ったら聞かないから」

「ごめん、あたしが言ったんだ」

「やっぱり。でも何が良いのかしらね。普通の玉子焼きなのに」

 そう聞くとオッカも不思議に感じました。

「何だか分からないんだけど好きなんさね。出てくると嬉しくなるのさ」

「変なの」と笑うハツエはとても嬉しそうでした。

「オッカには今度唐揚げの作り方を教えるよ」

「本当かい! 全然美味くならないんだよあたしが揚げると!」

 ハツエは得意気な笑みをオッカに向け「任しときな」と声を掛けました。

 食器の泡を流し終わると蛇口を閉め、タオルで手を拭いたハツエはオッカの手伝いを始めました。

「あれは簡単に出来るんだよ。今度魚買いに行った時に作ろう」

「ナイスだね! 材料も買っておくよ」

 楽しい約束がまた一つ増えました。

 ただ、ハツエの言う通り、何か特別な事をしているわけではありません。相手の事を想いながら作るので、自然とその人に合わせた匙加減が入っているのかもしれません。なのでハツエ自身には分からないのです。そんな母のような優しい料理なのです。


 ガラガラガラ。

 玄関の扉の音が家に響き、おばあさんと夢が帰ってきました。おばあさんが押すシルバーカーの収納ボックスはもう一杯です。

「なんだいまぁ」玄関まで迎えにきたオッカが思わず声を漏らしました。

「えへへ、一緒にお買い物してきたの」

 夢がそう言うと、オッカは頷きながらシルバーカーに視線を下ろしました。

「じゃあ台所に持ってくよ」オッカはそう声を掛け、収納ボックスからレジ袋を引き出したのですが、思っていた以上の重みを指に感じました。「一杯だね」思わず声を上げたオッカは、レジ袋を開いて覗き込みました。中には牛肉の薄切りと木綿豆腐がいっぱい入っていたのです。「出た! 肉豆腐だね!」

「そうさ。今日は皆で夕食を食べていきな。御馳走させておくれ」

「私も手伝うわ!」

「ちょうどソフトクリームもあるし、いいね姉さん、やろう!」そう言ってレジ袋を持ったオッカが台所に入る時、夢が「これからお買い物に行く時は一緒に行くって約束したのよ」とミロクおばあさんとした約束を嬉しそうに話しました。その時オッカは何故か心の中で「もしこの子に何かあったらあたしが守らないと」と思ったのです。

「魚は毎日食うもんだよ」オッカはさも当然そうな笑みを浮かべそう言いました。「商売上手ね!」夢が楽しそうに声を掛けると、オッカは「バカ」と答え大笑いしました。

 二人の帰宅で台所が賑やかになってくると、暖簾をくぐってハツエが入ってきました。

「誰、バカみたいに笑ってんのは?」

「ハツコほんと言うねぇ! あたしは」

「いいから茶を入れとくれ。時間があるんだし喋ろうかね」おばあさんの合図でオッカ以外のみんなは楽しそうに準備をし出しました。オッカは不服そうでしたが、これから楽しくなりそうな予感がたちまちそれを消し去ったのでした。


「ばあちゃんどうだったんだ? 役所は聞いてくれたか?」

 フクが豆腐を頬張ったまま喋りだしたので、皆に怒られ少しすねてしまいました。

「大丈夫」

 今日の事を、一緒に行っていたケンジが代わりに説明しました。

「申請すれば通る話やったし、在宅の先生と、えーと、桂馬?」「ケアマネ。ケアマネージャー」とおばあさんがフォローすると、「そう。それが今度家来るって。それは夢がおった方がええから来てな」

 ケアマネージャーとは、介護の申請に関わる書類作成の代行や、制度によって得られるサービスの種類や時間を調整してケアプランを作成する立場の人で、決めるそれらの事は介護を受ける本人や家族とのコミュニケーションのなかで構築していくため、おばあさんのような重い病気の方にはまさに、これからの人生を決めるとても大切な時間になります。

 そして、介護に関する事は夢が主体的に行うことになりました。介護の経験もあり、今後の病気の進行において夢の存在は大切になるからです。さらに、おばあさんの孫がクイナの町に来ることになったので家の環境も変わります。それに合わせて手続きや書類等の管理はバトンタッチするのですが、おばあさんの介護についてはその後も引き続き夢達も行う事になりました。それこそが、おばあさんのQOL(クオリティ・オブ・ライフ、生活の質)を向上させる大きな一つの力となるのです。

 人は、生かされるのではなく、生きるのです。

 ただ、夢達も専門家ではありません。知識不足もあります。でもそれ以上に夢達の存在はミロクおばあさんにとって生きる力にもなるのです。

 そして夢にとっても、ミロクおばあさんの存在は希望そのものなのです。

「じゃあ夢もやるの?」

 フクはオッカが机に置いたカフェ・オ・レソフトクリームを見つめながら聞きました。

「ええ。そうしたいの!」

 夢の真っ直ぐな言葉でした。

 誰かに頼れる安心感、自分のままでいる事のできるこの町や皆の心の広さ、おばあさんは胸の奥がジンと温かくなるのを感じました。病気になって失うものもあるけれど、見つけることができるものも沢山あるんだと気付きました。

「夢。ありがとう。皆。ありがとう」

 左右に振った夢の満面の笑顔の奥には色んな想いがあるのです。

 二人の心の会話がみんなを包み時を止め、静寂へと変わると、虫の音や人の音、風の音や木木の音がこの日の夜を奏でていました。いつのまにかその聴衆となった夢達も、今は温かな世界に居ます。


 盤上の将棋の駒を睨む男達を余所に、女性達はたわい無い話に夢中です。

 楽しそうに話していたハツエは食事をしていた卓袱台が目に入り、その上を片付け始めました。その様子を見たおばあさんは壁に掛かった時計を確認し、夢に話し掛けました。

「今日は遅いから泊まっていくかい?」

 すると夢は、まるで遊園地に行こうと誘われた子供のような表情をしました。

「使ってないノートがあるから使いな」おばあさんはそう言うと、背後にある小さな茶箪笥の引き出しからノートを取り出しました。それを見た夢は得意げに頬を上げ、持ってきていたリュックサックからノートを取り出しました。

「アンタまさか泊まるつもりだったのかい?」オッカは不思議な嬉しさを感じました。

「うん、一応。あの、でも、もし良かったらおば様、ノート譲ってもらえないかしら? 新しいノートと交換してほしいの」遠慮勝ちに話した夢の気持ちを察したおばあさんは、喜んでノートを譲りました。その様子を眺めていたハツエが何気無く「ノートが欲しいならあげようか?」と言うとオッカは「ハァ」と強く溜め息をつき、「姉さんのだから欲しいのさ。あんたのはい、ら、な、い、の」と横槍を入れました。

「そんな事はないわ! はっちゃんのだってオッカさんのだって、大好きな人なら誰だって嬉しいわ。それを日記にできるなんてとっても素敵。おば様ありがとう」夢が口早にそう言うと、「バカだね! あんたは」とあまりにも真っ直ぐな夢の言葉にハツエとオッカは恥ずかしさの極点にまで達してしまいました。

「何の話?」

 突然ケンジが会話に入ってきました。どうやら四人の将棋の実力の差は大きいようで、強いフクが詰将棋で二人を鍛え、暇になったケンジが会話に入ってきたのです。

「夢と日記書くノート交換すんの」

 ハツエは簡単に説明しました。

「ノート? 工場にようさんあるからやろか?」

 ケンジはまったく気持ちを理解していないのですが、夢はとても喜びました。さらにケンジは将棋盤を囲んでいた男達三人に「おい、ノートくれ」と声を掛けました。

「もういいから!」イラッとしたオッカがケンジにそうピシャリと言うと、皆の笑い声が部屋いっぱいに広がりました。いつものように、とても心地よい時が流れていました。


 おばあさんの家によく来ていた夢は、中の事をよく知っています。さらにおばあさんは家具の配置や物の位置を昔のまま大きく変える事はしないので、夢は当然のように部屋の押入れから布団を引っ張り出すと、広い部屋まで抱えて持って来ました。二人分の布団を敷き終えると、押入れの中のいくつかある枕から迷うことなくおばあさんの分と自分の分を手に取り、布団の上へ放り投げました。

 夢が準備をしている間、台所に居たおばあさんが冷えた煎茶の入ったグラスを二つ、お盆に載せて持ってきました。ふすまを閉めた夢は枕の位置を整え、卓袱台に着きました。

 夕飯時には賑やかだったこの部屋は、もう綺麗に片付けられています。

「寝るにはまだ早いから、これ飲んで涼みながら日記書きな」

 おばあさんはグラスをコトン、コトンと卓袱台に置き、腰を下ろしました。

「ありがとう、おば様」

 夢は煎茶を一口飲み、暑さで乾いた喉をひんやりと潤わせると、リュックサックから持ってきていたノートを取り出し、後ろの方の頁を開きました。

「ノートも沢山になったんじゃないのかい?」

 おばあさんがそう話すと夢は「えへへ」と恥ずかしそうに笑い頷きました。このノートももうすぐで終わりです。

 おばあさんは、夢が大事そうに手元に置いてあるノートに視線を移しました。

「おや、あたしの名前だね」

 新しいノートの表紙には「ミロクおば様」と綺麗な字で書かれていました。はにかんだ夢は新しいノートを手に取って胸元に寄せると、両手で抱え見つめました。

「どんな人がくれたのか、それが一番大切な事なの」

 夢は新しいノートをそっと抱きしめ「大事にするね」と呟くと、ノートを元の位置へ戻し、ペンを手に取り、今日の事を書き始めました。

「あ、そうだわおば様、お孫さんはいついらっしゃるの?」

「ケンシっていうんだよ。半年したら来るよ」

 夢は慌ててメモを取ると顔を上げ、「どうして半年後なのかしら?」と尋ねました。

「やりたくない仕事なんだとさ、今の仕事は。そういえば夢と同い年じゃないかね」

 仕事の事や自分と同い年だと知った夢の心に不安な気持ちが芽生えました。介護をするには体力が必要なのですが、それだけではダメなのです。そんな夢の不安を察したおばあさんは「大丈夫」と声を掛け、話を続けました。

「それは本音じゃないのさ。仕事は嫌いでもね、夢があるからずっと今まで残ったのさ」

「そうなの?」

 頷いたおばあさんは「そうさ」とささやくと、グラスを手に取りました。

「感謝されるのが嫌いなのさ、あの子は。相手の気持ちもよく分かってしまう」

 おばあさんの話に頷き、うつむいた夢は「そっか」とつぶやきました。

「無愛想で人とは上手に話せないけどね、とても頭が良いんだよ。取っ付きにくいが心根の優しい子だよ」

 おばあさんは適当に人を褒めません。だからこそおばあさんのその言葉が聞けた夢は何より嬉しかったのです。介護には、優しい気持ちがとても大事なのです。ケンシが来る日を想像した夢は、心がワクワクとしてきたのを感じました。おばあさんにとって大切な人が、大切なものを持っている人だと分かったからです。


 星と月と町の光。暗くなった天井よりも明るいガラス戸の向こう側。消えた電灯を見つめながら、夢は布団の中で未来を想いました。環境の変化もまだ緩やかな少し先の未来。その中で感じる周りの人の気持ちや見失いやすい変化、何よりもおばあさんの恐怖、それを感じただけで胸が痛く締め付けられたのです。それでもそこに思考停止しないように、夢は頑張るんだと決めたのです。意思疎通が出来る今だからこそ、おばあさんの想いや将来の事を積極的に話し合う必要があるからです。先の未来で使用するかもしれない人工呼吸器、その時にはもう、声は出せなくなるからです。その選択のタイミングは時として突然にやってくるのです。

 夢はその時のおばあさんの姿を想像しました。もしこれから起こる事に対して知識がなかったら、気付けなかったら、おばあさんには一体どんな地獄が待っているのか。想像しただけで、夢はとてもとても怖くなってしまいました。もちろん、人工呼吸器を使用しない人生も選択の一つです。だからこそ夢はおばあさんの選択に、自分の気持ちを押し付けないようにと心掛けています。その選択は決して諦めを選んだわけでも死を選んだわけでもないからです。使わない生き方を選んだのです。ただ夢は人工呼吸器と生きる選択がいつでも出来るように環境を可能な限り完璧に調えておこうと考えています。長く生きたいと願う事を遠慮しなければいけない世界なんてあまりにも悲し過ぎるからです。おばあさんには心置き無く人生を歩んでほしいのです。

 夢は、隣の布団で眠るおばあさんに目を向けました。

 ふわりと乗った掛け布団が、ゆっくりと呼吸で動いています。病院に行ったあの日から側に居ることが多くなった夢は、おばあさんの強さを知りました。おばあさんは自分の病気の名前である筋萎縮性側索硬化症という文字を書いた紙を冷蔵庫に貼り、書物で病気の事を勉強し始めました。「この病気になると肌が綺麗になるらしいのさ」おばあさんが嬉しそうにそう言ったので、つい笑ってしまった時の事を夢は鮮明に覚えています。

 長く生きてほしい。夢は本当はそう願っています。大切な人がいなくなる恐怖で、おばあさん自身の想いと自分の想いが交錯し、グラグラグラグラと揺れているのです。

 長く生きてほしい。周りの皆も本当はそう願っています。

 夢はガラス戸の向こうに見える、星の綺麗な空を見つめました。大切な人との想い出は、あの空に見えるどの星よりも遠い場所で輝いているのです。頬を上げた夢の瞳は寂しさで輝いていましたが、前向きな気持ちにもなれました。夢がここまで想いを注ぐのは、介護の大切さを知っているからです。自分の持つ価値観が変わったからこそ、その大切さに気付けたのです。価値観の変更、同じ物事に対する感じ方は相対的な価値観によって人それぞれ違います。これは夢が母の介護の時に感じた事でした。

 夢は小さい頃、母によく言われていた言葉があります。

「親孝行はしなくていいからね。あなたの生まれてからの数年間で、あなたの一生分の親孝行を私はしてもらったからね」

 子育ての時間は自分が何かを与えているのではなく、大切な子供の時間と眼差しを与えてもらっているんだと、夢の母は感じていたのです。愛に満たされていたのです。この価値観の違いだけで、子供の泣き声やおむつの時間、授乳の時間や色んな事の感じ方が違うのかもしれないと、夢は介護の中で気付いたのです。母と同じ価値観が、自分の中に芽生えていた事に夢は気付いたのです。予定通りであれイレギュラーであれ、介護に時間を使う事に我慢や怒りがあるのなら、意識を向ける方向はそこではないのです。自分を呼んでくれる音や声、その全てを失う前に夢は気付けたのです。価値観は頑張って変えるものではなく気付くものなのです。自分は一人の人間だという事を知り、人は百パーセントの人生しか歩めない事を知り、しかし介護をするという事は二人分の人生を生きるという事を理解する必要があります。ミロクおばあさんの場合、いずれ全身が動かなくなります。例えばおむつを替える時、何かをしながら替えるという事は出来ません。百パーセントの時間をそこに掛けるのです。例えば四十パーセントの意識で様子を見ながら六十パーセント自分に時間を使う。そう思った矢先、突然おむつを替える事になったのなら、おむつを替える事に百パーセントを掛けるのです。おむつを替える時間と自分の時間を合わせて百六十パーセントの時間を使う、それは人には不可能な事なのです。違う予定を組んでいたとしても、それが例えおばあさんのためだとしても、臨機応変にしなければいけない事に対してマイナスな感情に囚われず、介護生活が楽しみや喜びと感じる価値観が必要なのです。しかし、自分の時間が惜しくなれば、とても難しい介護生活になります。それと同時に二人分生きるという事は、受けた力も一人分以上の大きさになります。大切に思えば大切に思うほど、おばあさんに降り掛かるエネルギーも夢に降り掛かってきます。おばあさんに降り掛かる悲しみや辛さやストレスをどう無くしていくか、どう解消していくか、それがとても大事になってくるのです。

おばあさんの笑顔。夢の大好きなおばあさんの笑顔。

「そうだ」

 夢はおばあさんの方へ振り向くと、微かに動く表情を見つめました。映像でおばあさんの笑顔を残そう、そう思い付いたのです。でもなぜそう思ったのか、夢は分かっているけれど考えません。前を向く瞳にあるのは悲しみの涙ではなく、明るい未来であってほしいからです。

 やがて来るケンシという青年。責任感の強い夢は、彼の負担にならないように介護生活の環境を出来るだけ調えておこうと考えています。しかし彼もまた、強い信念を抱きクイナの町へやって来ます。おばあさんと夢達の心強い仲間として。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る