クイナの町の朝の気温は日に日に上がってゆきました。それと同時に町や自然から聴こえてくる音も様様増えてゆきました。

「良かった、あったわ」

 夢は台所の吊り戸棚から茶色の粉が入った瓶を一つ取り出しました。吊り戸棚の戸を閉め、粉が入った瓶を開封すると中からコーヒーの香りが広がりました。コーヒーの粉の香りはこの最初の瞬間が一番美味しそうに感じられます。

「うん」

 今日はいつものお菓子とコーヒーをミロクおばあさんに出す事にしました。おばあさんと夢はコーヒーが大好きです。夢はおばあさんの喜んだ顔を想像し「絶対大丈夫」と心に声を掛けました。お菓子とコーヒーの用意が出来た夢は台所から出ると別の作業を始めました。以前約束した食事会が数日後にあるので、その話も出来たら良いなと思い、用意しておいた新聞の切抜きと印刷した店のホームページのメニューをテーブルの上に並べてゆき、ふと時計に目をやりました。時計の針はそれほど進んでいませんでした。いつもより早く起きてしまったので、おばあさんが来るまで少し時間があります。夢は食器棚からノートを取り出すと、適応にめくって読み返し始めました。最近のもの、書き始めた頃のとても古いもの、それはみな、とても夢の胸を熱くするものばかりでした。

「入るよ」

 夢は鐘の音に気付かず、突然聞こえたミロクおばあさんの声に驚いてしまいました。夢が振り返ると、深い紺色の上着を羽織ったおばあさんが玄関に立っていました。おばあさんは上着をポールハンガーに掛け、いつもの椅子に座りました。

「今日は遅いんだね。今見てるのかい?」

 夢はノートを食器棚にしまい、小走りにおばあさんの所へ向かいました。

「ううん、昔のなの。ちょっと思い出したくなっちゃって」

 夢はそう言いながら椅子に座ろうとした時、紙しか置いていないテーブルに気付きました。慌てて台所へ走って行った夢は二人分のコーヒーを用意し始めました。

「今日はすまないねぇ」

「構わないわ! 私が行きたいだけなの。心配しないで、大丈夫よ」

 そして最後に「絶対大丈夫」とささやいた夢の言葉は他の誰にも聞こえません。

 夢が手元に視線を移すとスプーンは空になっていました。思わず声を上げてしまったせいでスプーンを傾けてしまったようです。夢は瓶を手に取り、もう一度コーヒーの粉をすくい取りました。夢はなんとか平常心を保とうとしているようです。

「ハハハ、あんたはやっぱり変な子だねぇ」

 優しく笑うミゲロおばあさん。夢の耳に届いたその声はいつもと少し違うように感じました。夢の胸の奥でズキッとした痛みが走り、黒い血が広がるようにジワッと熱くなりました。

 ズザリ。靴で踏んだ粉に気付かないまま夢はカップにお湯を注ぎおばあさんの所へ足早に戻りました。

「きっとすぐに終わるから、見てお店のメニュー! 私はこれが美味しいと思うの」

 夢は持ってきたコーヒーをテーブルの端に置き、メニューの写真や店の内装の写真が載った紙を広げました。おばあさんは料理の写真に目をやりました。

「あら、美味しそうだねぇ。これはどうやって食べるんだい?」

 夢はおばあさんが指差した写真に目をやりました。

「これはおば様が持ってきて下さった記事のメニューだわ! 魚介類が沢山入っていて一つ一つ殻を剥きながら食べるの」

 印刷された写真はどれも色彩豊かで美味しそうに見えました。色んな種類の穀物と油、野菜に魚介類、文字を見ただけでも香り広がるスパイス、それらを炒めると立ちのぼる水蒸気、視神経から脳に向かって電気が走り、人の舌下をそわそわさせます。料理の話や居心地の良さそうな店内、そんな妄想が会話と共に膨らんでゆきました。少し先の明るい予定と夢の思いやりを感じたおばあさんは少し前よりも元気になったようにみえます。

 おばあさんはチラリと壁に掛かった時計に視線を移しました。おばあさんの視線を追った夢は「まだ少し時間があるから飲みましょ!」と声を掛け、持ってきたコーヒーとお菓子をおばあさんの方に寄せました。これはいつもの光景なのですが、二人ともそれほど食欲はありませんでした。だからその後もコーヒーとお菓子にはほとんど手を付けませんでした。

「楽しみの続きは帰ってからにしましょう」と夢は明るく提案し、「そうだね、後に取っとこうかね」とおばあさんは笑顔で応えました。夢は印刷した紙を一つにまとめ、カップや皿はそのままにして二人は出かける用意を始めました。

「素敵な色ね」

 夢がポールハンガーからおばあさんの上着を手に取りそう言うと、そこから少しだけファッションの話に花が咲きました。

「そろそろ時間だね」

 そう言ったおばあさんが玄関の扉を開けた瞬間、季節を感じる空気が波のように流れ込み、白く熱い太陽の光が陰った部屋の中に注ぎ込まれました。

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