第1話 君に託す
「君、私の事好きだろ?」
卒業式の日。
先輩と部室で二人きりの空間。
別れと感謝のメッセージが書かれた色紙を渡そうとした時、先輩は俺にそう言った。
「へ?」
拍子抜けした声を出してしまった。
頭が混乱している。
時間が経っても、なんて言われたか理解出来なかった。それなのに、顔が火傷しそうなくらいに熱くなってくる。
「あれ? 違った?」
先輩は悪戯っぽく笑った。
俺が先輩の事を好きという事を確信しているのだろう。
「何だ、違うのかー残念だ」
残念? その言葉で何かのタガが外れた。
「好きですっ!!」
気づいた時には大声で叫んでいた。
「知ってた」
カキーン。
ホームラン宣言をしていた先輩に釣られて渾身のストレートを投げた俺は、あっけなく打ち取られた。
「もちろん、それが友達としてじゃなくて異性として、という事も分かってる」
先輩が打ったボールは、外野選手の大きく上を過ぎていき、遂に場外へ飛び出していった。
「い、いつからですか……」
恥ずかしくて目も合わせられない俺は、何とか会話を繋ごうと言葉を絞り出した。
「ん? それは、君が入部した時からだよ。だって一目惚れだろ?」
「そ、そんな……」
それは、俺の気持ちを知った上で先輩は俺と過ごしていたという事になる。
掌で転がされていた気分だ。
穴があったら入ってしまいたい。
「大丈夫、気にする事はない。私に優しくされたら誰だって私を好きになる。それは仕方ないことだ」
遠回しに自分の容姿が完璧であると言っているが、それは間違いないので突っ込まない。
先輩の言いたい事は「お前みたいな人いくらでも見てきた」という事だろう。
……悔しい。
ここまで来ると、もう好きとか関係なく先輩に一泡噴かせてやりたい。
「せ、先輩はどうなんですか」
「何がだい?」
「分かってるでしょ。意地悪はしないでください」
「ふふ、ごめんごめん。君の反応がいちいち可愛くてね」
かわいい。好きな人に言われるのは、こんなに嬉しいのか。
女性が褒められたくなる気持ちが何となく分かった。
「私の気持ちだけど、残念だが君の好意には応えられない」
先輩のその言葉を聞いた瞬間、目の前がぐるぐると回るような錯覚が起こった。
「そう、ですか……」
もしかしたら。
そう思った自分が恥ずかしい。
先輩の言った通り、先輩にとって俺は数多いる男の内の一人だ。何も特別ではない。
先輩と俺じゃあ、不釣り合いにも程がある。
「でもね」
先輩は、一呼吸置いてから続けた。
「別に好きじゃないかと言われると、そうじゃないんだ。私は、とても君を気にいっている」
「え?」
思わず、声が漏れた。
「私は、こう見えて非常に選別主義者でね。身の回りに置く人物はちゃんと見定める。だからこそ、この同好会の部員は君と私の二人だけだ」
「は、はあ」
唐突に説明が始まり、それしか言葉が出なかった。
「君はね。とてもズルい人間だ。あぁ、非常に狡猾な人間さ。相手のご機嫌取りなんて日常茶飯事だった」
「うっ」
あれ? 説教始まるの?
「人の良心を利用したり、敢えて問題を無視したり。徹底して自分の立場を守ろうとする。それは君の頭のいい所であり、悪い所だ」
的確すぎて、言葉も出ない。
ただ、何だか先輩が俺の事を知ってくれているようで、とても嬉しかった。
「私は初め思ったよ。弱い人間だと」
「……はい」
先輩の言葉のナイフが胸にグッと刺さった。現実であれば、心臓から血が噴き出しているだろう。
「別に弱い事は悪い事じゃない。この世に強者がいるならば、それは弱者によって成り立っている。必要な存在だ」
弱者と強者。
俺が弱者なら、先輩は神に選ばれたと言ってもいい圧倒的強者だろう。
「ただ、君はおかしな人間でね。弱いくせに、弱いままでいようとするのに、ある時だけは人一倍頑張るんだ。何時か分かるかな」
先輩の問いは難しかった。
自分の頑張れる所を導き出せと言われても、自分を褒め慣れていない俺にとって、長所とも言えるそれを考えるのは難しかった。
ただ、この一年、一つだけ頑張った事はある。
自信を持って言える事が一つだけある。
それは。
「せ、先輩の側にいる時、ですか?」
自分で言っていてとても恥ずかしいが、今更である。
「ふふ、そうなのかもしれないが、違うな」
違うとなると、なお恥ずかしい。
「正解はね。誰かに頼られた時だ」
先輩は右手の人差し指をピンと上に向けた。
「君はこの部活で相談者の悩みに真摯に向き合い、頑張って悩みを和らげようとしたり、時には解決に向かって全力で動き出したりしていた。一見当たり前の事だが、君のように一人一人を継続して丁寧に支えるのは簡単な事じゃない」
そうだっただろうか。一生懸命過ぎて気づかなかったが、先輩にはそう見えていたらしい。
「君は誰かに尽くせる人なんだ。そして、誰かの幸せを願える人なんだ。今はまだ未完成で、背中を押されないと動けないがね」
「つっ……!」
心が熱くなるのを感じる。
いつも先輩について行く事に必死だった俺を、ここまで見ていてくれたのか。
「さっき私は君をズルい人間だと言ったが、正確に言うと君は無知なだけなんだ。君が人の良心を利用するのも、敢えて問題を無視するのも、結局は人のためだった。無知が故に他の手段を知らなかっただけなんだ」
いつの間にか、頬に熱いものが垂れていた。
「未熟なだけの人間は、成長するだけで花開く。簡単だ」
「はい」
「君は自信を持っていい。君し持っていない大切な心は、きっと誰かのためになる」
「はい!」
「これで、君のフラれた事による精神的ダメージは回復した、という事でいいかな?」
先輩は着ている白衣のポケットに手を入れて、ニコニコと笑っている。
いつの間にかカウンセリングを受けていたらしい。
「はは、先輩、ズルいですよ」
ここまでされたら、きっぱり諦めるしかないじゃないか。
「これが、私がこの高校で行った最後のカウンセリングというわけだ。大事にしまっておいてくれ」
「ふふ、はい!」
先輩は片手を差し出した。
俺は色紙をテーブルにおいてその手をがっちりと握りしめた。
「ん? あぁ、違う違う。ほら、その色紙だよ、くれるんだろ?」
「へ? あぁ! すいません! てっきり別れの握手かと」
俺は急いで色紙を先輩に渡した。
「別れって。君、私の家知ってるだろ? いつでも会えるじゃないか」
「でも先輩、県外の大学に行くから家は出るでしょ」
「うんうん、その通り。覚えていてくれて嬉しいよ」
先輩は、頷きながら微笑んだ。
「さて、私は他県で一人暮らしをするんだが、少々心残りがあってね。そこで、私の唯一やり残した事を君に託そうと思う」
「な、何ですか急に」
先輩ですら成し遂げられなかった事を俺に押し付けられても困るのだが。
「そんな大それた事できませんよ、俺」
「なーに。これは半ば強制だ。嫌でもやる事になる。それでもやりたくないというなら、先程のカウンセリング代として、君の高校生活を私にくれ」
お代、高すぎないか? というか。
「先輩、お代取るんですか!? ひどいですよ、それは!」
「当たり前だろう? 私はもうこの高校を卒業したんだ。部活の一貫でやったわけじゃない。いわゆる私の初めての仕事だ」
屁理屈に聞こえるが、一応理に適っている。
「それに、男は女の『初めて』が好きなんだろう? よかったじゃないか、私の『初めて』を奪えて」
「くっ……!」
先輩の意地悪な笑みが、可愛くて、目を逸らしてしまった。
初めて……。この響きに惑わされそうだ。
「……分かりました。お代を取るのは百歩譲ってありだとしましょう。だけど、高校生活っていうのは、少々値が張りすぎでは!?」
タイムイズマネー、とはよく言うが、本当に時間を取り立ててくる人がいるか? しかも二年間。
二年は、長い。
「私の処女を奪っておいて、それはないだろう」
「その言い方は誤解するのでやめてください」
一瞬、ドキッとしてしまったではないか。
「……冗談はここまでにしておいて」
先輩が急に、真面目な顔になった。
それは、いつも飄々としている先輩ではなかった。
「君にしか頼めないんだ」
声色から、とても重大な事だというのが分かる。
先輩は本気で助けを必要としているようである。ならばこちらも誠心誠意向き合うべきだろう。
「何ですか?」
先輩は真っ直ぐ俺の目を見つめて、話し始めた。
「それはね──」
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