魔法少女 壱湖は戦わない

大西 憩

EP1 魔法少女は忘れない


 壱湖いちこは数日前、病院で目が覚めた。それはそれはまるで産まれたての赤子のような気分で目を覚ました。起きてからすぐ、一日で退院し自宅へまっすぐ戻ったのだが、壱湖は妙にフワフワとした気分だった。…自分の名前や自宅への道のりはわかる。けれど、それ以外の記憶がすっぽり無いのだ。

 目が覚める前、自分はいったい何をしていたのか。親はいるのか。働いているのか。学生なのか。自分のことがにっちもさっちもよくわからないのだった。

 壱湖はとりあえず、自宅の近くをふらついていた。運動不足解消のために医者が歩けと言ったからだった。

 ――ああ、あの時に記憶が無いことになんで気が付かなかったのだろう。医者に相談すべきだった。と、壱湖はがっくり項垂れながらあちこちをふらついた。あんまりにも自然に医者との会話が進み、なにも不都合なく退院手続きが済んだものだからこんなにもすんなり家へ帰ってしまったのだ。

 しばらくあちこちを歩き回っていたが、この辺りは変に自然が多かった。道脇の雑草はもうもうと生え、しばらく車は走っていないのか道路はひび割れ、その割れ目からふわふわと雑草が生え道路の傷を覆っているようだった。


 しばらく太陽を背に歩いていた。西日がきつい時間帯だったからだ。ずっと眠っていたらしいから太陽を見るとまるで眼球を焼かれたような心地になるのだ。

 そろそろ自宅へ帰ろうか、と壱湖はぼんやり考えていた頃だった。

「壱湖?」

 背後から耳をすませば聞こえるかのような、かぼそい少女の声だった。壱湖は声のした方へと振り返った。

 そこには、控えめなゴシックロリータ風の服を着ている、少女が西日を背に立っていた。淡いとも濃いとも取れる髪は桃色でとても豊かだった。大きなウェーブがかかったその髪は、逆光も相まって生き物のようにぐわぐわ揺れ動いているように見えた。逆光だというのに、少女の薄い紫の瞳は光って見えて、壱湖はちょっと不気味に感じた。

「…」

壱湖は押し黙ってしまった。壱湖はその少女のことをもちろん知らなかったし、なんだかその少女から変な圧力を感じたからだ。

「…お散歩?」

 眉を下げ、悲しげに微笑んだ少女が問うた。逆光でよく見えないがそこそこに整った、端正な顔立ちの少女だと壱湖は思った。こちらの名前を知っているのだから知り合いなのだろうが、壱湖が頭をひねらせてもどうにもやはり、彼女の名前すら思い出せなかった。

「えーと、」

 壱湖はあまりに突然の質問にもじもじとしてしまった。何を切り返せばいいのかわからなかったのだ。それは無理もない。なぜなら病院からここにくるまで医者と看護士としか話していないし、誰とも会っていない。そして果てには壱湖は記憶が一片たりともないのだ。今の状況は全く知らない人に突然話しかけられているのも同然なのだから、もじもじもするだろう。

「…今から、機関へ行くんだけど壱湖もいく?退院報告。」

 彼女は変に優しい声で話した。まるで拾った猫にでも話しかけるようだった。彼女の表情は逆光故に読み取れないが、困ったように微笑んでいるのだろうと声色で壱湖は察した。

 多分だが、この桃色の少女は記憶を無くす前の自分の知り合いであり、もっと多分だが、「機関」と言うのは壱湖の仕事場、あるいはよく行く場所、なのだろうと壱湖は思った。

 しばらく少女についていくか悩んだ。何と言ったって突然現れた彼女はひどく怪しく思えた。しかし壱湖は少女に見つめられる中悩んだ末、桃色の少女について行くことにした。


 桃色の少女にのこのこついてきた壱湖は、自宅を通り過ぎて程なく自宅近辺とは全く雰囲気の違う街に出た。ありこちに白い背の低い建物が建っており、道路や街頭、何から何まで真っ白だった。どれもおしゃれではあるもののあまりにも無機質だ。そんな印象の建物で街は埋まっているものの、人の姿も見えず寂しげだった。壱湖の自宅周辺は人のいない閑静な団地の道路のようだったし、この街に人は住んでいるのだろうかと壱湖は思った。しかもここに来るまでの道は街の近代感に反して田舎臭く、田んぼや畑があちこちにあって、自然が変に豊かだった。

 ピンクの髪をした少女とやってきた目的地は、自宅から合計すると徒歩15分程のところだ。街の真ん中あたりに鎮座するよう、嫌に大きく近代的。真新しく尖ったような建築様式の真っ白な施設にだった。

 この施設のことも壱湖はすっかり記憶になかった。施設の前に立ち止まり、当たりを見渡すと自宅であるマンションが見えた。思ったよりも高台にあったようで、街の背景になっている山の上に洒落たマンションが見えた。桃色の少女は戸惑う壱湖と余所に、まっすぐ近代的で潔癖そうな施設へ入っていった。壱湖はあわてて少女の後を追い、施設に入った。

肆井よついしほりと、壱湖です。退院報告しにきました。」

 受付めいた場所で、しほりと名乗った桃色の少女は何やらノートを差し出され手際よく署名した。同時に壱湖の分の入館手続きもしてくれているようだった。

 壱湖はキョロキョロと辺りを見渡すが施設内のどこもまったく見覚えはなく、思い出せない。いまさらながら自分がこの場に関係あるのかすら不安になってきた。しほりと名乗るこの少女に詐欺でも受けているのではと今更ながら不安になってきた。

 入館手続きが終わったのか、しほりは音もなく壱湖の隣に立っていた。壱湖はしほりの存在に声も出ないほど驚き、飛び上がってしまった。しほりは笑うのを堪えたように「奥、行くけど。」と、小さな声で話しかけてきた。壱湖はどうしたらいいのかわからなかったが、慌てて数回頷き、すごすごとしほりのあとをついて歩いた。


「清水さん、壱湖、連れてきたよ。」

 施設の奥まで来た。受付から3分程歩いたあたりが突き当りで、広めの廊下に突き当たった。そこには複数人、同じ白衣を着た女性がおり壱湖は彼女たちはここの研究員だと反射的に思った。しほりはその白衣を着た中の一人の女性に声をかけた。

 ここまでしほりが一緒にやって来たのは壱湖を明け渡すのが目的だったようで、しほりは女性との一連の話が終わると壱湖のほうを振り向き「じゃあね。」と、小さく手を振り、はにかみながら踵を返して廊下を引き返し去っていった。

「え?どこいくの?」

 壱湖の疑問と不安はしほりに届くことはなく、誰もいなくなった曲がり角に溶けてしまった。壱湖が恐る恐る振り返ると、"清水さん"と呼ばれた女性が仁王立ちをしてこちらを見ていた。

「…壱湖、私が誰かわかるか?」

 仏頂面の女性が壱湖に話しかけてきた。髪は暗めのアッシュがかった茶髪で、切りっぱなしのようにばつんと肩口で切りそろえられている。

「…清水さん。」

 壱湖はしほりとの会話を思い出して名前を絞り出したが、"清水さん"は、「まあ、それもそうなんだけどさ。」と、困ったように頭を掻いた。壱湖は彼女、"清水さん"と呼ばれる人もまったく覚えがなかった。

「あんた、記憶ないんでしょ。まあはじめはそういう子もいるんよね。説明するからこっち来な。」

 "清水さん"はずんずんと廊下の先へあるいていってしまった。壱湖は慌てて"清水さん"についていった。少し曲がった先の突き当たりにある部屋へと"清水さん"は颯爽と入っていったので、壱湖もそれ続いた。

 その部屋は、学校で言う視聴覚室のような作りで、部屋奥の広い壁には大きなモニターが据えられており、講堂のようにずらりとモニターを囲うように机と椅子が並んでいた。既にモニターにはあらゆる肉が固まり集ったような見た目をした、見るもおぞましい怪物が映っていた。そしてそんな怪物と激しく戦闘を行う少女たちの姿が映し出されていた。まるでCGで作成したSFの映画のような映像だと壱湖は思った。

 そんな多少グロテスクなフィクション映像だけがひたすらモニターに流れていた。音が出ていなかったのでそれこそまったくリアリティがなく、作り物の映像だと壱湖は思った。

「これが、あんたの仕事。」

 清水は画面を顎で指し、ポケットから小分けになったラムネをだし、口にほおった。清水のポケット奥にはたばこがチラリと見えた。

 壱湖は「仕事?」と思い、少し頭の中で目の前の映像を整理した。

「私、役者とかだったんですか?」

 壱湖はすこしおどけてみせた。しかし、清水は返事をしない。

 流れ続ける映像に目を凝らしてみると、確かに自分が映っていた。ヒラついた服を着て、大きな盾のようなものを持ち、ひどく賢明な表情で、何かを叫んでいる自分が、ひどく他人に思えた。今の空っぽな自分とは違い、画面に映る自分は充実していて、使命をもって生きているように見えた。

 清水は講義室の端に連ならされていたパイプ椅子を引きずり出し、ドスンと乱暴に座った。

「…だったら良かったんだけどね。」

 清水の声色は一定で、本当のことを言っているのか、壱湖を騙そうとおちょけているのか、さっき会ったばかりの壱湖にはまったくわからなかった。

 モニターの映像がぐるぐる変わる。そこには先程の桃色の少女、"しほり"も映っており、壱湖と同業者であることを示していた。

「これさ、リアルなんよ。」

 清水さんは本当に悲しそうにモニターを眺めていた。


 清水さんによると、どうも壱湖の職業は”魔法少女”、らしい。壱湖は休日の朝に放送される女児向けのアニメを想像したが、まったくもってそういうものではないらしい。

 ""は、地球を守る要になっている大切な現代の”職業”だというのだ。


 今、地球は宇宙からの敵襲に見舞われている。

 それはどれもこれもが説明しがたい造形のおぞましい怪物で、これまで幾つもの軍が壊滅させられた。戦闘兵器ももろもろ壊滅。人口も随分減らされてしまったらしい。

 そらからどうして敵がやってくるのか、どうして地球が狙われているのか。人類皆、わからないまま戦っている。

 …人類は百数年前、地球の核、マントルにある””と呼ばれるエネルギー体が暴発した。その際に世界人口は激減した。ほとんどの大陸は爆発の衝撃に耐えきれずに海に沈み、人類は壊滅的な打撃を受けたのだ。

 その際に、世界をつないでいた海中ネットワークすら破壊され、日本は一部の地域を除いて沈下。第7都市と名前をつけた過去の東京に全日本人が集まって暮らしている状態らしい。他の国と交流もできず、現在はただひたすら敵襲に怯えて人類は生活している。


 暴発した”生命エネルギー”というのは、地球の中心部マントルから吹き出す地球規模の噴火のようなものだったらしい。

 地球の爆発を機に、無限に湧き出る生命エネルギーを現在宇宙に放出し続けてる。地球のあちこちからは大量のラッパ状の施設が宇宙に向かって伸びており、そこから直接宇宙にエネルギーを放出。宇宙と言う海に人類の持て余したエネルギー体、所謂"ゴミ"を吐き捨て続けているのだという。

 過去には地球のエネルギーを人間が吸い尽くすのではと不安を抱いていた頃もあったというのに、今はまったくの反対だ。放出をやめると再び地球が噴火する危険がある、そのため人類はエネルギーを宇宙に放出し続けなくてはならない。酷く厄介で扱いの難しい高エネルギー体なのだという。

 専門家の意見では、この高エネルギーを宇宙に放出し続けているため、宇宙の微生物が活性化し、人類が"敵"と認知する生物が産まれ、地球に降り注いでいるのではないかと言われている。


 そして今、現代の地球に生き残った人類を守るため”魔法少女”が戦っているらしい。

 魔法少女の仕組みとしては、エスパーや神通力と言った、”非科学的”な力を持つ少女たちを現代化学の力でバックアップ、サポートし、能力を増幅させることで人類特別戦闘員という形で宇宙からの敵と戦闘させている、ということらしい。

 人口が激減し始めたあたりから、どうしてか日本では神通力を持った子どもが産まれ始めた。

 その特別な神通力は敵襲が起こってから産まれてきた一部の”女の子”にだけ見られること、そして思春期を過ぎると消失してしまうと考えられていることから、神通力を持って生まれた子ども達を"魔法少女"と世間は呼んでいるそうだ。

 ”選ばれし子ども”として、魔法少女と呼ばれる神通力を持った少女全員がこの機関に招集され、人類存続のために力を貸しているとのことだった。


 壱湖は清水の説明を聞きくだらないSF映画みたいな話だと思った。あまりに実感が湧いてこない。自分にどんな力があるのかも記憶に無いのだから無理もない話だった。

 明日は力を思い出せるような"訓練"があるらしい。壱湖は頭の中で訓練…訓練…と数回唱えた。一応、"訓練"内容の一連は説明を受けたが、おおまかに言うと筋トレや走り込みでの体力向上や、ヨガや精神統一といった精神力の向上が主なようだった。

 壱湖はジムに運動に行く気分だ。と思ったし、そんなことならジムでいいのでは?と疑問に感じた。



 次の日の朝、壱湖は自宅を出てすぐの道路にて、『顔面蒼白』という四字熟語を思い出していた。 顔面の血管1本1本が広がり、ゾゾゾ…と血が下がっていくのを皮膚下にはっきりと感じていた。

 ――目の前にいるものは…本当に生き物なのだろうか。その生き物は、肉がどろどろに熔けたような身体に、4本のか弱い羽が生えている。そしてその肉塊はヒラヒラとしたレースを身体中に巻いており、果てには肉の中腹あたりから気孔のようなナッツ状の穴が開いており、唸り声のような音が漏れている。


 壱湖の脳は軽く停止していた。初めてこんな生き物に出会ったのだ。無理もない。

 肉塊は昔の人形劇アニメのような動きをした。体を上から糸ででもつられたかのようにカクカクと気味悪く移動している。…不幸中の幸いか、この肉塊は動きが存外鈍かった。図体は100センチちょっとで小さな子どもほどあったが、動くスピードはナメクジ並みだ。

 壱湖は[[rb:後退 > あとづさ]]った。この肉塊から目を離すのは危険だと判断し、視界には入れたまま少しずつ距離をとった。何かの本で「クマと出会ったときの対処法」というものに、『目を離さない』『背中を向けない』と記述があったことを壱湖は思い出した。余計なことだけはよく思い出すのだ。

 肉塊の体はバーナーであぶられた肉のように、とろけた風貌だった。観察したものの目の場所が全く分からなかったため、こいつがこちらを見ているのかどうかも壱湖には判別がつかなかった。

 数メートル程、肉塊との距離をとったあたりで、肉塊がゆらゆらと大きく左右に揺れ始めた。壱湖は冷や汗が止まらなかったが、ゆっくりと距離をとり続けていた。


 突然肉塊の身体、中腹あたりからボコンといくつかの[[rb:瘤 > こぶ]]が生えてきた。みるみるうちにその瘤は膨れ上がった。それらの瘤はその場で回り、気持ち悪い挙動を始めた。壱湖はあまりのグロテクスさに目を覆いたくなったが目を離してはいけないと肉の塊が行う気持ちの悪い挙動を見守っていた。

 肉片の隙間、全身からびちゃびちゃと水が噴き出るような音を立ち始めた。そしてそのまま気孔からべちゃべちゃと音の通りの水分と、勢いよく臭気が肉塊から噴出された。

 …噴出音がやむや否や、目も開けられないほどの刺激臭が壱湖にまで届いた。壱湖は目をきつくつむり、鼻と口を手で塞ぎその場に蹲った。皮膚もじりじりと刺激を感じる程のきつい刺激臭だった。

 壱湖はしばらく瞼をあげられなかった。やがて、柔らかく重いものが地面を擦ってこちらに来る音が聞こえた。壱湖は懸命に自身も這って肉塊から距離をとった。その音は肉塊だと壱湖は確信していた。今この場に、自分と肉塊以外は存在していないのだ。

 耳を澄ますと、肉塊は時々うめき声をあげながら一定のペースで壱湖に向かって近付いてきているのが分かった。


 しばらくの間、一定の距離を保っていられたが、ついに壱湖の酸素が足りなくなった。あまりの刺激に息をするのも憚られていたのだ。這っていた壱湖の動きが止まり、壱湖自身も死を覚悟した。なぜだかわからないが、追い付かれたら死ぬ、と本能的に察知していたのだ。

 だんだん肉塊に距離を詰められているのが音でわかっていたが、どうしても壱湖は動くことができなかった。


 ――そんな時、壱湖の正面から大きな風が吹いた。風を感じたと同時に背後にいた肉塊も動きが止まったのがわかったが、壱湖はなかなか目を開けることができなかった。先ほど感じた刺激への恐怖と、肉塊への恐怖で目を開けられなかったのだ。息すらも止めはじめて数分、壱湖の頭は朦朧としていた。

「壱湖ちゃん、息を吸って。」

 壱湖はうすく瞼を開け、目の前に青髪の少女が屈んで話しかけてくるのを確認した。柔らかそうな細く絹のような青髪が壱湖の鼻先をかすめた。

「もう刺激臭、ないと思うのだけど。」

 こてんと首を傾け、「ほら、息、息。」と、笑顔で息をするレクチャーをしてくる少女に、壱湖はやっぱり見覚えがなかった。とても端正な顔立ちでいつまでも見つめていたくなるような可憐で美しい少女だった。

「あんな産まれたてにやられちゃうなんて、壱湖ちゃんらしくないよ~。」

 壱湖はヒュウっと深呼吸をした。久しぶりに息をものだったから、同時にひどくせき込んでしまった。肺が縮こまっていたのか、息するたびに胸には鈍痛が走った。外気は刺激臭もなくなり、いつも通りの清潔な空気に戻っているようだった。


「ご、ごめんなさい。…私、なんか、今、記憶、ないみたいで、」

 壱湖はせき込みながら言った。息をするのに必死で変な言い回しになってしまった。と、思ったが青髪の少女はおおむね理解したようで、「うんうん。」と、人当たりの良い笑顔のまま頷き話を聞いていた。

 座りなおした壱湖は、先ほどまで這いずりこちらへ向かってきていた肉塊がほぼ液状になり、道の真ん中で絶命しているのを確認した。

 この目の前の少女が倒したのだろうか、。壱湖は一瞬の風しか感じなかった。肉塊のつぶれる音も逃げ惑うような声も、何も聞こえなかった。このような細腕の少女がどのように倒したのか壱湖には皆目見当もつかなかった。

「私はね。玖理羽くりはね蝶華てふか、壱湖ちゃんと同じ魔法少女よ。はじめましてではないんだけど、よろしくね。」

 蝶華はコロコロ笑いながら自己紹介をした。

「今から訓練でしょ?頑張ってね。」

 そういったと同時に大きく蝶華は跳ねた。そしてそのまま、こちらが返事する間もなくその場から消え去ってしまっていた。まるで蝶々が花から飛び立ったかのように可憐に静かにいなくなってしまった。

「まだお礼も言ってないのに…。」

壱湖は何もない虚空と、ひき潰され液状になった肉塊の死骸を見比べ、ため息が出た。



 壱湖は朝の事件のこともあり、清潔な機関へ到着した時点でもうすでにひどく疲れていた。まじめな性格のため約束をないがしろにしたまま自分の家に戻ることもできず、疲弊した体を引きずり機関へ訪れたのだ。

 壱湖は先ほど道端で出会った気持ちの悪い肉塊が脳裏に焼き付いて離れなかった。この前、視聴覚室にて清水から「現在の日本の生態系が歪んできている。」という趣旨の説明は受けた記憶があったが、ああいった気持ちの悪い見た目のモンスターが横行しているとは聞いていなかった。


「壱湖、こっちだ。」

 清水は受付近くで待っていたようだった。受付横に供えられたカウンターチェアをぐるりと回転させて、清水はコチラを向いて手を振っていた。

 壱湖は日常に戻ったと安心し、足早に清水に近付いた。壱湖は今朝に出会った肉塊について、そして一緒に青髪の少女に助けられたことを清水に伝えた。

「青色の髪って、蝶華かな。」

 清水は少しはにかんで話した。

「あの子はいい子よ。」

と、清水は静かに笑った。「あの子""」ということは、他の魔法少女は変な奴がいるかのような言い回しだと壱湖は思った。


 清水に連れられるがまま壱湖は大きな貨物用のエレベーターの前に来た。「これで降りるよ。」と、清水は言った。

 壱湖はこれから行われる"トレーニング"にさして緊張はしていなかったし、ワクワクもしなかった。これから”魔法少女“として、変な生き物と敵として対峙しなくてはならないという事実も受け入れがたかったし、いまだに現実味がまるでなかった。


 地下に着くと、そこは大きな体育館のような空間になっていた。部屋の端々にはジム等でよく見る筋トレ機械なんかがずらりと並んでいた。

 魔法少女というのだから戦いは基本魔法でどうにかするんじゃないの、と踏んでいた壱湖はトレーニング内容を聞いていたとはいえ、少し呆気に取られた。本当に体力向上のトレーニングだけなの?と多少がっかりしてしまった部分もあった。

 部屋に入ってすぐのところに、ひとり少女が立っていた。その少女ぼんやりとトレーニング部屋を眺めているようだった。くりんとした大きな目に、長いまつ毛が特徴的なかわいらしい少女だ。

 しばらくすると壱湖と清水がいることに気がつき、

「おい、おせぇだろうが。」

 と、可愛らしい顔に反してドスの効いた声を出した。


「…壱湖、今日一緒に訓練するむつ恋夏れんげだよ。ほら、同じ日に退院した。」

 清水は先ほどの彼女の暴言が聞こえていないような顔で淡々と壱湖に説明した。壱湖は自分と同じ日に退院した人がいたこと自体知らなかったので、非常に困惑した。

「…お前か、壱湖。」

 少女は乳白色の艶やかな髪を、頭の高い位置で緩く二つの団子に結っていた。頭のお団子がふよふよ揺れる様と、ずんずんとこちらにガニ股で近付いてくる姿はあまりにもミスマッチだった。

「お前さ、攻撃技ねぇんだってな。」

 壱湖を下から覗き込むようにして恋夏は言った。大きく開いた口からはちょこんとした八重歯が二本覗いていた。

「この前は、馬鹿みたいにでかい敵だったみてぇだけど、その時出動した魔法少女全員がアタシみてぇな攻撃特化ならもっと街の被害は減ったと思うぜ。」

 恋夏はニヤけた表情の儘、ぐだぐだと壱湖をまくし立て、果てには返事をせずぽかんとしている壱湖に「おい、なんか言うことはねーのかよ!」と、怒鳴った。


「いや、ごめん。私、今記憶ないんだ。」

 壱湖はスッパリと恋夏に言った。すると恋夏は呆気に取られたような顔をした。

「じゃあお前いま、魔法少女でも何でもねエ、フツーの女じゃねえかよ。」

 と、改めて壱湖のことを睨み、罵倒した。

「壱湖は今からリハビリも兼ねて筋力トレーニングをして、そのあと別室で脳見っから。」

 ずっと口を閉じてた清水が、壱湖と恋夏の間に入った。脳を見られるというのは、壱湖は初耳だったので、「昨日の時点で先に言えよ。」と思った。

 恋夏は軽く舌打ちをし、「久々に組手でもできるかと思ったのに、来たのがお前じゃあなぁ。」と言い、壁沿いの筋トレ機械を片っ端から破壊する勢いで利用していた。


 一頻り筋力トレーニングを行った壱湖は、清水に連れられ別室に向かっていた。

 トレーニング中は恋夏とは極力かかわらないようにつとめたが、近くを通過するごとにまるでヤンキーのように絡まれて精神的にも疲れた。また、体力的にも少し動いただけですごく息切れをしてしまい、すぐに足がガクガクと動かなくなった。本当に私は、入院するまでは何かとアクティブに戦ったりなんてしていたのだろうか…。と、不思議に思った。


「あの、清水さん。私、攻撃技使えないんですか?」

「あぁ、恋夏が言ってたヤツか。まあそうだな、能力的には。」

「能力…?」

「大抵、魔法少女それぞれに得意分野があるんだよ。まあ、いうなりゃ…勉強なんかと一緒よ。」

 清水はエレベーターの中だと言うのにポケットから取り出したタバコをくわえた。火をつける気は無いようだ。

「壱湖はね、補助技が得意なの。バリア張ったり、仲間の足場創ったりさ。空間をつくんのよ。」

 壱湖は1ミリもピンとは来なかったが、恋夏に批判された意味合いを理解し、なるほど。と、思った。

「まったく、覚えてねっす。」

「これからこれから。」

清水は火のついていないたばこをくわえながら、愉快そうにけらけらと笑った。


 エレベーターを降りると、真っ白で永遠に続くかのように見える廊下にでた。そこはまるで病院のようだった。しかしまだここは地下のようで、廊下に窓は一つもなく、全体的にひんやりと空気が冷たく感じた。

 清水が「こっち、」と案内板も見ずに壱湖を誘う。まっすぐ歩いてすぐに『処置室』があり、壱湖はそこに入るよう清水に促された。

「すぐに[[rb:菊森 > きくもり]]がくるから、そこで待ってな。」

 と、清水は言い残し部屋を出ていってしまった。


 暫くすると、菊森と名乗る女性が部屋へやってきた。

 いくつか質問をされ、清水に教えてもらったことは何となく答えられたが、深堀されるとなんにも理解ができない単語が横行し、壱個は困惑した。

「壱湖ちゃん、ひどいのねぇ。こーんなにすっぽり全部忘れちゃうなんて。」

 壱湖はベットに寝かされながら、菊森の話を聞いていた。

「けど名前は覚えてたんでしょ?えらいえらい。」

 菊森は優しく笑ってそういうと、壱湖の頭をなでた。清水よりも明るくて女性っぽい人だった。


「壱湖ちゃんには今からすこーし、眠ってもらうけど。…その間にショック療法で治療しちゃうわね。」

「…それって荒治療では?」

「気付いた?」

 菊森はくすくすと笑いながら「副作用とかはないはずだから。」と、壱湖の頭をまた、優しく撫でた。壱湖はごまかされないぞ…。と、思いながらも頭を撫でられ続けていた。


 壱湖の寝かされているベットはカプセルのような形をしており、この中で全部、治療は終わるらしい。中ではCTやMRIやらレントゲン色々検査ができちゃうらしい。何ともハイテクなことだ。

「じゃあおやすみ、壱湖ちゃん。起きたらあなたはきっと、本物の壱湖ちゃんになれるわ。」

 壱湖は菊森の言葉に違和感を覚えた。カプセルの蓋がゆっくり閉じるのを内側から見送った。しばらくすると急激に眠気が襲ってきて、壱湖はそのまま瞼を落とした。


EP1 了

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