第92話 お見舞いに来たよ

 警察が事情聴取に来たのは数分前のことだ。秋鷹はやや上体を起き上がらせた状態でベッドにリクライニングし、自己憐憫に浸ったような面持ちで正面の壁を見据えていた。

 聞く話によると、ナイフの刃先は胃を貫通して、背中の静脈の一歩手前で止まっていたらしい。仮に静脈まで達していたら、救命は不可能だった。全治二週間。それまで入院生活なのだが、明日にでも退院できるくらい体は元気だった。面会もOK。

 秋鷹をこんな生活に至らしめた男は、現在取り調べで黙秘権を行使している。たまに発狂したりして異常者を演じているのだとか。強姦、窃盗、脅迫、殺人未遂、これらの罪から逃れられるかは今の段階ではわからない。ただ、母親が弁護士を立てるとのたまっていたため、秋鷹は少しだけ安堵していた。

 そういえば、事情聴取の最中なぜか杏樹の住所を訊かれたため、勝手に教えてしまったが、大丈夫だっただろうか。もしかしたら怒られちゃうかも――と秋鷹が思っていると、窓際の簡易的な椅子に座っていた千聖が、リンゴを剝きながら口を開いた。


「アンタが最近結衣と仲が良い理由、やっとわかったわ」


「言う必要もないと思って、黙ってた」


「一応さ、アタシとエリカは友達なの。そして結衣とも、友達とまではいかなくても、ずっと一緒に育ってきた幼馴染だから。関係ないことは、ないんだよ」


 エリカの彼氏が起こした強姦事件。その被害者に結衣がいたことも、その事件に秋鷹が関与していたことも、ここに来るまで千聖は何一つ知らなかった。


「アタシを困らせたくないって理由もあると思う。だけど、教えてほしかったな。知らないままより、知って理解していた方が、幾らか安心できるでしょ?」


「そうだな。……ごめん、今度からはそうするよ」


「約束よ?」とまた新たな約束を取り付けて、千聖は言った。「あーくんは正しいことをしたの。二人どころか、被害を受けた女の子みんなを助けちゃったんだからね。少しくらい、胸張ったっていいんだよ」


「そんな大袈裟な……」


 秋鷹が彼女たちを助けたのは、正義とか同情に衝き動かされたためではない。悪く言えば、暇つぶし感覚の自慰行為でしかなかった。だから最終的に彼女たちがどうなろうと知ったことではなかったし、好意さえ向けてくれれば己の欲望は存分に満たされた。

 しかし、秋鷹はそういった自分の考えに、少しだけ目を背けたくなる。病室に入ってきたときの千聖の顔は、ひどく悲しそうで、あまり心地の良いものではなかったから。もう一度あの顔を見せられたのなら、その憂悶が自分にまで伝染してしまうというくらいに。


「でも、まだ納得できてないことがあるわ」


「……え?」


 リンゴの皮を剝き終わった千聖が、キッと目元を吊り上げる。


「来栖さんと一緒に帰ってたことは、百歩譲ってまだ許せる。百歩譲ってね。でも、なんでアンタが陽ちゃんにお土産を渡しに行くって話になるのよ。もうそれって、口説きに行ってるのと同じよね。――ねえ? そうでしょ? そうだと言いなさいよ!!」


「えっ!? ここは警察の取調室か何か!?」


「そもそもの話、あーくんと陽ちゃんが知り合いって言うのが四半世紀最大の謎よ。どういう交友関係してんのっ」


 シュピッ、とナイフの風を切る音が聞こえた。千聖が小型のペティナイフをこちらに向けたのだ。秋鷹は「ひぇ……」と竦みあがる。


「千聖しゃん……ナイフは仕舞って。今の俺にはめちゃくちゃ有効的だ……」


 腹部の傷が疼き、ちんちんが縮み上がった。

 こういうとき、秋鷹は自分が何をどうすれば良いのかよく知っている。それは彼女と恋人になって仲を深めたからという理由もあるが、もっと根本的な部分でこういう危機的状況の処世術を覚えてしまったための慣れが生じてしまっていたからだろう。

 秋鷹は咄嗟に弁解した。


「実は影井の家に寄った後、千聖の家に行こうと思ってたんだ。次の日休みだし、久しぶりに泊ろうかなって……。陽ちゃんにお土産を渡すのは、そのついで?」


「ちょっ、そういうことは早めに言いなさいよ。危うく刺すとこだったじゃない」


 シャキン、シュバッ、シュパパッ、とナイフをペン回しの要領で素早く回し、リンゴの乗った皿に、華麗に置いた千聖。若干だが頬が紅潮していた。


「なぜそんなにも刃物の扱いに長けてるんですかねー……」


「料理の最中に練習したのよ」


「無駄な努力を……」


「無駄な努力になればいいんだけどね」と意味深な言葉を残し、千聖はフォークでリンゴをぶっ刺した。「ほら、りんご食べるでしょ? あ~ん……」


「あーん……」


 促されるままに、秋鷹は大きな口を開けた。そしてリンゴを咀嚼する。


「美味しい?」


「……ん」


 もぐもぐと口を動かしながら、こくりと頷いた秋鷹。それを見て、千聖の口元が緩む。


 開いた窓から吹き込んだ風が、ささやかに前髪を揺らした。気持ちい風だね、と千聖が言った。自分の口が、ちょっと寒いと返事をした。

 しばらくそんな時間が続いた。なんとなく過ぎてゆく温かな時間。すると、そこに割って入るように、「失礼しまーす」と扉の方から声が聞こえてくる。


「なっ――!? ま、まさか……っ」と秋鷹は驚愕した。「……千聖、俺は今から寝たふりをする」


「え、なっ、ど、どうしたの?」


 激しく動揺する秋鷹に釣られて、千聖も慌てふためく。少し離れた場所から、ガラガラっと扉が開く音がした。


「あとはよろしく頼んだ、千聖」


「あ、あーくん……わけがわからないよ……」


 死んだように眠る秋鷹を前に、千聖は狼狽えたまま沈黙する。向かってくる足音の方に視線を向ければ、そこには茶色のツインテールをした小柄な少女がいた。帽子を目深く被っているため、その顔は把握できない。


「……寝てるの?」


 少女はあったかボアコートのポケットに手を突っ込んだまま、秋鷹の顔を覗き込む。「髪、伸びたね」と少女が囁くが、秋鷹は微動だにしない。息を止めているし、逆に不自然ではあるのだが、


「寝てるみたいだね」


 秋鷹の寝たふりにあっさりと騙されてしまった少女は、屈めていた腰を上げる。それから数秒の間を置いて、千聖と目を合わした。


「やっほー千聖ちゃん。二日ぶり? 渡り廊下以来の再会だね」


「あっ……」


 少女が帽子を外すと、そのツインテールも一緒に取り外され、千聖の視界にピンク色の影が目一杯広がった。

 肩口で綺麗に揃えられている桃色の毛先と、満面に取り繕った彼女特有の営業スマイル。愛くるしいまでの仕草一つ一つは、千聖のよく知る人物と合致した。


「……桃源さん、だよね」


「うんっ、こんにちは。千聖ちゃん」


 甘やかな声音を転がし、桃源桜はニコリと微笑んだ。


「どうして、ここに……?」


「そりゃあ、幼馴染だから?」


「幼馴染?」


「そう、千聖ちゃんならわかるでしょ? ちっちゃい頃から――それこそ、生まれたときからずっとそばにいる存在」


「そんなこと、秋鷹は一言も……」


「言わないからね。あきたんは私を、私と幼馴染でいることを、嫌ってるから」桜はちょっとだけ、声に哀愁を滲ませた。「ひどいと思わない? 私が悪いわけじゃないのに、あきたんは私を遠ざけるの。ざけんなって感じ」


 今度は破天荒なポーズで、あからさまな怒りを醸し出した。


「でも、それでもいいよ。あきたんのお陰で、こんな素敵な女の子と出会えたんだから――」


 そう言って、ベッドの反対側へ歩いて行った桜は、椅子に座る千聖を背後から抱きしめた。首回りを優しく抱擁するように。


「すぅーっ。はぁぁ……いい匂い……」


「ひゃっ……な、なに……?」


「ね、千聖ちゃんの好きな食べ物は?」


「い、意味わかんない……なんなの」


「……おっぱい大きいよね。牛乳とかいっぱい飲むのかな? 自分でご飯作ってるって言うから、朝はフルーツをシェイクしてジュースにするのかな? お昼はもちろんお弁当だよね。あきたんに毎日作ってきてるの知ってるよ。あっ、これはただの憶測だよ。千聖ちゃんなら、作ってきてるんだろうなぁ、って勝手に思ってるだけだから、気にしないでね。それで、夜は温かい家庭的なご飯を作るんだよね。強気な千聖ちゃんに似合わず、丹精込めたお味噌汁とか得意そう。俺のために毎朝お味噌汁を作ってください、とか言われちゃったりして。あー、そうそう。私は最近、タピオカにハマってるんだぁ……ってぇ、今、時代遅れだと思ったでしょ? いいの。私が好きで食べてるんだから。飲んでるの間違いかな? ……あ、興味ない? じゃあさ、あきたんの話でもする? お見舞いに来てるくらいだし、興味がないことはないよね。あきたんはね、昔から靴底に溜まる砂が嫌いだったんだよ。だから小さい頃はいつも砂場では遊ばず、遊んでる私たちをベンチに座って絵に描いてたんだ。他にも人の集まる場所は滅法嫌ってるイメージだったなぁ……日陰者でもないのにね。私とか友達が遊びに連れってって上げれば、公園にも水族館にも動物園にもプールにも夏祭りにも学校にも、積極的に、盛りのついた子供・・みたいについてくるの。そんな汚らわしい人の密集地帯なんて、あきたんが最も嫌がる場所なのにね。嫌な顔せず、あきたんはついてきてくれたんだよ。優しいよね。……当たり前だけど、あきたんの精通がいつかは知らない。オ〇ニーの回数も。私は小学生の頃からたくさんしてたんだけど、男の子はどうなのかな? そこんとこ気になるよねー……ただ、私のお姉ちゃんは、なんでかあきたんの精通がいつかも知ってたんだ……オ〇ニーの回数も、女の子の好みも、どんな性癖かも、どうすれば喜んでくれるかも、どうやったら笑ってくれるかも、それから、彼の初体験さえも……」と桜は声を潜めて言った。その声は、彼女の甘やかな声音を、少しだけ低くしたよなもので。「そうだよ、なんで知ってたんだろ……。訊いても答えてくれないんだよ。だんまり。私には一生応えてくれない。でもねぇ、千聖ちゃん。千聖ちゃんなら応えてくれるって、私は知ってるんだよ。千聖ちゃんはね、私のお姉ちゃんに似てるの。意志が強くて人に流されないところとか、強気だけど甘えん坊なところとか、人一倍努力するところとか、おっぱいが凄くおっきいところとか……。だからね、答えてほしいな。なんで、知ってたの? なんで、私が知らないようなこと全部、お姉ちゃんが知ってるの? なんで、私よりあきたんのこと知ってるの?」


「あ、アタシに訊かれたって、わからないわよ……」


「まあ、そだよね。千聖ちゃんは私のお姉ちゃんじゃないんだから」と桜は言った。「でも千聖ちゃん。あきたんのことならよく知ってるよね。二人、付き合ってるんだし」


 その言葉を受けて、千聖は目を見開いた。首回りの抱擁が解けていることに気がつくと、腰を捻って後ろに振り向く。

 桜は逆光に当てられながらも、終始場違いな笑みで千聖を見下ろしていた。すると、


「……あ、電話だ」


 桜の上着のポケットから、携帯の着信音が鳴った。一昔前に流行った洋楽だった。


「またシャッチョサンかよ……うぇ、千聖ちゃんともっと話したかったのに……」


 携帯を持って顰めっ面になった桜が、どこから取り出したのか、桜色の便箋を千聖に手渡してきた。


「それ、あきたんに渡しておいて。千聖ちゃんも見ていいからね。ていうか一緒に見て。見ないと、ぷんぷんっ、だかんね」


 わざとらしく頬を膨らませた桜は、手に持っていた帽子を被ると、ツインテールを揺らしながら去って行く。病室に、タイトル名が朧げな洋楽――携帯の着信音が響き渡っていた。それは、桜が病室から出ると同時にかき消える。


 静かになった病室で、千聖は渡された便箋をじっと見つめていた。まるでラブレターのようだが、それを見て、秋鷹が溜息交じりに言う。


「捨てといてくれ……それは呪いの手紙だ……」


「え、でも……」


「見ただろ、あいつは頭がおかしいんだ」秋鷹はこめかみに手を当てた。「千聖も、宇宙人と交信するようなやつとは関わりたくないと思うだろ? あいつは、そういう電波的な異常者なんだ。現に、あいつには姉なんかいない。ある意味……俺を刺したあのメンヘラ男と同じだな」


「そ、それは言いすぎよ……」


 しかし、千聖は弁護することも即座に否定してあげることもできなかった。桜が普通の女の子ではないことくらい、傍から見てもわかりきっていることだったから。

 ゆっくりと便箋の中身を覗き見る。そこには、血のような赤文字で『寂しがり屋のあきたんをよろしくね』と書かれていた。言われなくても、と千聖は思った。

 秋鷹と千聖が交際していることをどこで知ったかはわからないが、なんだかマウントを取られているようで腹が立った。それに、


 ――彼の初体験も。

 

 と彼女は言った。秋鷹が千聖以外の女の子とえっちをしたことがあるというのは、彼の性技の巧みさを考えれば容易に理解できるのだが、


「あーくんの、初めてか……」


 それを思ってみると、ちょっとだけ、胸が痛んだ。



※ ※ ※ ※



 帝が病室にやってきたのは、二時間ほど経った後のことだ。


 秋鷹の膝元に上半身を乗せ、千聖は気持ちよさそうに寝ていた。そんな彼女に一瞥を与え、帝はそっと微笑む。


「今は、彼女がここにいる理由は訊かないでおくことにするよ」


「ああ、そうしてくれ」


 物分かりが良いな、と秋鷹は感心した。しかし、退院したらめちゃくちゃ問い詰められるんだろうな、とも思った。


「他のやつらは?」


 秋鷹が訊いた。


「今日は俺一人だけだよ。クラスみんなでお見舞いに行くのも迷惑になるだろうしね。面会OKってことだから、クラスの代表で学級委員の俺が行くことになった」


 帝がお見舞いに来るということは、事前に連絡をもらっていたから知っていた。数人だけなら問題ない、と秋鷹が学校に伝えていたのだ。


「てことは、俺が刺されて入院したってことは、もうクラス中に広まってるのか?」


「ニュースにもなっていたし、全国に広がってると思うよ」


「え、それまじ?」


 素で驚いた秋鷹は、リモコンを手に取り、病室のテレビをつけた。どうやら、帝が言っていることは本当らしく、テレビでは『これもう、パワハラだよねぇ』と番組МCの方がおっしゃっていた。


「だから、しばらくは大人しくしておいた方がいい」と帝が言った。「ただでさえ、秋鷹は最近SNSで話題になってるんだ。面白がって秋鷹のことを嗅ぎまわる連中も出てくるかもしれない」


「それはちょっと困るな」


「まあ、一週間後に、コットンラブリーの最新アルバムが発売される予定だから、そっちに話題が流れてくれれば万々歳なんだけどね」


 帝は柔和な表情で笑い飛ばしてくれた。その後、彼は色々な情報を秋鷹に伝えた。

 秋鷹を刺した男の実名と顔がネットで晒されていること。ネットと学校で、強姦事件を解決に導いた英雄として秋鷹が祭り上げられていること。クラスのグループチャットが秋鷹に対する心配の声で溢れかえっていたこと。今日が修学旅行の振替休日だということも。

 ひとしきり語ったあと、帝はふと思い出したように、新しい話題を切り出す。


「そうだ。秋鷹って、姫乃さんと友達なんだろう?」


「……姫乃? 友達と言えば友達かもしれないが……急にどうした?」


「いやさ、彼女から連絡が来たんだ。初めてだったからびっくりしたよ。しかも、秋鷹と中学が一緒だったって言うし」


「そっか、お前が好きだって言ってたやつ、あいつのことだったんだな」


「好きだとは言ってないけど……」


「ほのめかしてたじゃん」


 帝が連絡を取り合っていたという相手が、今やっと繋がった。帝と芽郁が文化祭で知り合ったというのは、芽郁本人から文化祭で聞かされた。思えば、その日から帝はよく携帯を気にするようになった。帝の口から誰とメッセージのやり取りをしていたのかは聞かされていなかったため、秋鷹はここにきて理解する。


「とにかく、姫乃さんから秋鷹の様子を訊かれたんだ。秋鷹の方からも、連絡しといてくれないか?」


「ああ、わかった。あとでな」


 秋鷹の携帯は、今はおそらく充電が切れている。そのため、メッセージを返すのはすぐには出来なさそうだった。


「それでなんだけど……」


 帝が言いづらそうに頬を掻いた。


「今度、姫乃さんが中学時代どんな子だったか、教えてくれないかな?」


「気になるのか?」


「まあ、ね」


「幾らでも教えてやるよ」


 帝と同じで学級委員だったということくらいしか思いつかないが。


「それじゃ、俺は帰るよ。あまりいても邪魔になるだろうしね」


 秋鷹の膝元で眠っている千聖に、帝はちらっと視線を送った。そして、彼女に聞こえないように小さな声で、


「一年生の頃はバイトばかりだったから、もしかして秋鷹は女の子に興味がないと思ってたんだけど、どうやら違ったみたいだね。そっち系じゃなくてよかった」


「どっち系だよ。その考えを今すぐ改めろ」


「もう改めてるよ」


 そう言って、帝は病室を後にした。秋鷹のベッドの横には、お見舞い用に持ってきた手土産が置いてあった。律義なやつだ、と秋鷹は呟いた。

 その声に反応して、「んぅ……」と千聖がちいさく唸る。頭を撫でてやると、寝ぼけ眼でこちらを見つめてきた。


「ふぇ……あーくん?」


「まだ寝てていいよ」


「あとでえっちしようね」


 千聖は、ここが病院だと気づいていないようだった。幸せそうな顔で秋鷹の太腿に頭を乗せる。

 昨日から眠っていないらしい。もし秋鷹の状態が今よりも悪く、面会謝絶でもされていたなら彼女は一体どうしていたのだろうか。二日、三日、寝ずに待っていたのだろうか。どうにも、そこだけが秋鷹的には気掛かりだった。



※ ※ ※ ※



 面会時間いっぱいまで居座っていた千聖は、名残惜しそうに「また来るね」と言って帰って行った。それが数時間前までの話。

 検査や食事などで疲労を滲ませた秋鷹は、億劫になりながらも数多あるメッセージの返信をしていた。それも常人では数えきれないほどのメッセージの量。

 気づけば日は落ち、消灯時間もとっくに過ぎていた。暗くなった病室で、空虚なタップ音だけが響き渡る。爪が伸びていたのかもしれない。


「……もしもし」


『あっ、秋鷹……! やっと出た……』


 耳に当てた携帯から聞こえたのは、安堵にも似た吐息。


『もう、心配したんだよ?』


「うん、心配してくれるのは嬉しいけど、電話かけすぎだ」


『だって、声聞かない限りは、安心できないでしょ』


「心で感じろよ。離れていても繋がれるよ、Bluetoothみたいに」


『それ、近距離無線だから全く届かないと思うんだけど。せめてWi-Fiにしてよ』


「俺、最近5Gスマホに買い替えたんだ」


『唐突だなぁ、おい』


 無難に平凡に、姫乃芽郁はいつも通りの秋鷹に半笑いを浮かべたらしい。呆れたような一笑が飛んでくる。


『……本当に、心配したんだよ?』と芽郁は言った。『秋鷹が死んだら、私も死んでやろうと思ってた』


「やめろやめろ。俺みたいなクズのために命を投げ出すのは」と秋鷹は軽い口調で返した。「この世界が、神様が許さない」


『出ました。秋鷹お得意の中二病』


「それくらい許されないことなんだよ。世界が急に優しくなるなんてことはあり得ないし、たぶん俺は、死んだら絶対に地獄に落ちるんだろうな」


『なに、なんだか今日は、やけに悲観的じゃん』


「そうか?」


 今回秋鷹が生き残ったのは、悪運が強かったというだけに過ぎない。それはどれだけ悪いことをしても報いを受けず、逆に人並み以上の幸福を賜ってしまうという世界への反逆に近かった。そんな悪人は反感を買って然るべきだし、周囲からは無数の悪罵を浴びせられるに決まっている。


「死んだ方が、マシだったのかな」


『……え?』


 ぽつりとつぶやかれた秋鷹の言葉に、芽郁は唖然としていた。


『そんなこと、思ってても言っちゃだめだよ』


「そうだよな。ごめん」


『わかったなら、よし』


「だから俺は、生まれ変わったらサンドバッグになりたい」


『はあ?』電話越しでもわかるくらいの間抜けな声が聞こえた。『確認だけど、そのサンドバッグっていうのは、格闘技の練習に使うあの砂袋のことだよね?』


「ああ、その砂袋のことだ。殴られたり蹴られたり、ストレス発散のために滅多打ちにされるあれのことだ」


『えっと、これは理由とか訊かなきゃダメなのかな? 理由は、なに……?』


「単純だよ。これまで犯した罪の数々を、洗いざらいそこで償わせてほしいんだ」


『殴られることで?』


「……ああ」


『変態なの?』


「違う」


『殴られるんだよね。じゃあ、苦しくないの?』


「苦しいさ。でも、当然の結果だろ」


『それは、今じゃだめなの?』


「もう手遅れなんだ。とっくに戻れないところまで来てしまってる」


『それは独善的じゃない……?』


「独善的だよ。それを自覚してしまってるっていうことが、もう救えないよな」と秋鷹は天井を見上げながら言った。「そういう俺を、ボコボコに殴り殺してほしい。なんであのとき償わなかったんだって、酷く理不尽な悪罵を与えてほしい。逃げられないように縛り付けて、これまでの幸福が霞んでしまうくらいの、地獄を見せてほしい……」


 微かな願いだった。新たに生まれた望みだった。期待と願望を色褪せたものとして認識していた秋鷹が、唯一欲した楽になるための近道遠回りだった。


「だからさぁ、芽郁。そのときは目一杯苦しむから、それまで、俺の我儘を聞いてくれないか」


『いいよ、聞くよ』


 やさしさに包まれた声音で、芽郁は秋鷹の言葉を受け止めた。そして、僅かに声を弾ませる。


『でも、変わったよ秋鷹は。昔の秋鷹は、そんな風にうじうじ悩むことはしなかった。なんか、自分からは中々告白できないチェリーボーイみたい』


「……うじうじしてたか? むしろ清々しさ全開だったと思うんだが」


『してたよ。少なくとも、私にはそう見えた』


 声だけを聞いているはずなのに、芽郁は秋鷹のうじうじ加減をその目で認めたのだという。不思議なことを言うやつだ。


『さて、誰が変えたんだろうね。冷たくて頑固な秋鷹のことを』


 ちょっと嫉妬しちゃうな、と小声で言うと、芽郁は改まった態度になる。


『ではでは、そろそろ私は寝ようかな。秋鷹も、夜更かしはダメだからね』


 それに対し、秋鷹は「ああ、おやすみ」と返した。しばらくして、通話が終わる。カチ、カチ、と無機質な時計の音が部屋の中を支配しだした。

 耳から離した携帯画面を正面に持ってくると、その画面が光を放って眩しかった。思わず眉を顰めてしまうというくらいに。

 秋鷹はふと視線を真横に向ける。そこで、隣のベッドに居た少年と目が合った。


「ごめん、うるさかったか?」


「いえ、誰と話してるんだろう、って少し気になっただけです」


「友達だよ」


「あなたは、友達相手にマゾスティックな会話をするんですね」


「忘れてくれ。俺はちょっと自分に酔ってるんだ」


 そう言って、少年が納得してくれたかは定かではなかった。しかし、秋鷹の次の要求には、快く応えてくれる。


「まだしばらく、電話していいかな? 声は小さくするから」


「遠慮なくどうぞ。声も普通のままで大丈夫です。騒がしい方が、僕は好きなので」


「変なやつだな、少年」


「あなたに言われたくありませんよ」


 少年はイヤホンを耳に装着すると、自分の世界に入っていった。千聖とは仲良く話していたのだが、なぜか秋鷹には素っ気ない。おそらくあまり好かれていないのだろう。

 秋鷹はそっと溜息を吐きつつも、携帯画面に視線を向けた。トーク画面を開き、メッセージの返信を再開していく。

 結衣からは『今度お見舞い行ってもいいかな? 返信待ってます』と自撮り写真付きのメッセージが送られてきていた。もちろんくぱぁ写真。

 迷惑になるからとか、千聖が秋鷹のそばにいるからとか、様々な理由でお見舞いを断念しただろう結衣が、なんとくぱぁ写真以後、何のメッセージも送ってきていなかった。1000件ほどメッセージを送ってきたエリカと違って、秋鷹を困らせないよう相当我慢したのだろう。それを感じ取った秋鷹は、まず初めに、結衣に電話をかけることにした。エリカは後だ。


 しかし、そんな二人とは連絡が取れても、連絡先を所持していない杏樹とは、一向にコンタクトが取れなかった。声を聞くことも、顔を合わせることもなく。それから、一週間が過ぎた――。

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