第37話 橙色の少女は見た
――校内の階段を上る頃には、あんなにかいていた汗は綺麗さっぱり引いていた。
「ふぅ……」
結衣は通学鞄とリュックの二刀流で、今現在、教科書を取りに教室へ向かっている。四階の廊下に出れば、なんでかその階だけ電気が点いていた。
不思議に思いながらも、奥のA組教室へ歩いていく。
タンッタンッタンッ――と廊下を歩く音。それだけが物寂しく響いた。
しかし、歩くたびに揺れていた結衣のサイドテールが突然、動きを止める。
「誰か、いるの……?」
施錠のことをすっかり忘れていた結衣。数秒前ならすぐに引き返し、職員室に鍵を取りに行っていたところだった。
それをしなかったのは、自分の教室の扉が開いていたから。そして、何者かの声が聞こえてしまったから。薄暗い教室の中で、誰かが会話している。
結衣は忍び足になると、その微かな声音に聞き耳を立てた。
「――――なった?」
「でしょ――――よろ――」
距離が離れているため、彼らの声は聞き取りづらい。ならば、と結衣は隣の教室に背中を合わせ、すり足で目的の教室へ向かうことにした。
だが、結衣の直感が見てはいけないものだと告げている。
また、過ちを犯しそうで怖い。
この前みたいに、大切な誰かを傷つけてしまうことになるかもしれない。自分の軽はずみな行動が、誰かの害になってしまう。
いつもなら持ち前の明るさで、誰とでもコミュニケーションが取れていたのに。こんな時に限って、結衣の明るさはなりを潜めていく。
きっと、いつもの自分なら迷わずに教室に飛び込めていた。それができないのは矢張り、何かよからぬ不安が胸臆に押し寄せていたからだろうか。
結衣は教室の扉までたどり着くと、扉を背にして浅い深呼吸をする。それから、バクバクと鳴る心臓の鼓動に急かされ、直ぐ近くから聞こえる声に耳を澄ませた。
「……ろーお? きもひぃ?」
甘えるような女の声だった。
そして、それは呂律が回らないのもお構いなしに延々と繰り返される。当然、その問いかけじみた声音に返答している者がいた。
「やばい……気持ちよすぎる……」
聞き覚えのある男の声だった。
いや、だとしたらもう一つの声の方も結衣には覚えがある。心の中で必死に否定しつつも、聞こえてくる声は何度確かめようとも知っている人物のものだった。
――それも、一人は大切な幼馴染の声。
「んっ……へろっ……」
何かを舐めるような音の合間に、二人の会話が楽し気に交わされていく。時間が経つにつれ、それは結衣の心を乱れさせた。
確認しなければ。確認しなければならないのだ。
何をやっているのかは定かではない。見てはいけないものなのかもしれない。だが、膨れ上がる好奇心が結衣の顔を横に、ゆっくりゆっくり、振り向かせる。
確認するだけ。それだけだから。見たら、帰るから。もう、これで最後にするから。
――ねぇ、ちさちゃん。
「なに、してるの……?」
開けられた扉のすぐ真横――自身の椅子に横向きで座っている秋鷹がいた。廊下から射し込む光で、その全体像が半分ほど見切れている。
そして背もたれの隙間から見えるのは、千聖のツインテールだった。女の子座りでペタリと床に座り、彼女は秋鷹の膝の間に顔を埋めている。
これだけなら安心はできなくとも、まだ状況を呑み込む努力はしたかもしれない。でも、出来ない理由がそこにはあった。
「わからないよ、もう……」
――秋鷹の下半身には、衣類も何も着用されていなかった。
結衣とて、それがはしたない姿なのだと理解できる。だって、パンツも何も履いていないのだ。ただの変態ではないか。
ならば、その変態に甘えている千聖はなんだ。
彼女も、あるいはそうなのだろうか。媚びへつらった態度で、秋鷹に〝何か〟をしている。それは結衣の想像の及ばない果てしないナニか。
できれば、千聖のそんな姿は見たくなかった。
気丈に振舞う彼女の態度に憧れていたこともあったし、今も心根は変わっていないのだと信じている。
なのに、自分を下に見る彼女の弱々しい態度が、結衣の心に疑念を抱かせた。そこまでして、秋鷹に尽くす理由が彼女にあるのだろうか。
「唾垂らすね……?」
「……ああ」
目が離せなかった。逸らせなかった。
未知の行為を行う二人の動向が気になって仕方がなかった。その真相を知ろうと、結衣は枯れ果てた喉をキュっと締めて彼らの行いを静観する。
この後、後悔するなんて一欠片も思わずに――。
※ ※ ※ ※
「う、ぅ……」
千聖は、涼に好意を寄せているはずだった。それはどうやら、結衣の思い違いだったらしい。
既に彼女は、秋鷹という男に陶酔している。
けれど今さら彼と千聖が付き合っているとか、実はもっと前からこんな関係だったと言われても、もはや結衣にとってはどうでもよかった。
――だめだ。
考えられない。今、結衣の脳裏に蔓延るのは二人が行っていた行為の、その先にあった淫らなパフォーマンスの一部始終。
二人は裸で重なり合っていた。とても嬉しそうな顔で。それでいて今あるこの現状を楽しんでいるような、そんな幸せ絶頂の夫婦みたいな面持ちで。
「幸せ、なの……?」
問いかけても、当然ながら返してくれる者はいない。
気づけば、結衣のサイドテールはほどけていた。鎖骨辺りまで下ろされてしまった橙色の髪が、風に乗って後ろに靡く。
背負っているリュック、加えて肩に掛けられている通学鞄を大振りに揺らし、
「あぁぁああああッ――――!」
大口を開けて叫びながら、結衣は全力で走っていた。
見慣れた通学路。朧気に照りつける月光。通り過ぎていくのは、チカチカと点滅する壊れかけの街灯。
移り変わる景色の中で、涙脆い結衣の頬に雫が滴っていく。
「なに? なんなの? 何をしてたって言うの――!?」
一度、同じような体験を子供の頃にしたことがあった。
ただ結衣は、トイレに行きたかっただけなのに。
彼らも千聖たちと似たような表情で繋がっていた。心を通わせていた。だから今の今まで、それに疑問を抱かずに結衣は生きてこれたのだ。
――きっと自分の親がしていたあの行為は、愛のあるスキンシップのようなものであったのだと。
けれど千聖たちの行為はそれとはまったく違った。違っているように見えてしまったのだ。
それは、結衣が子供ではなく、現在は大人として成長している過程にあった為なのかもしれない。
あの行為を思い出す度、ゾクゾクッと身体の芯が震える。
何故か彼らの背徳感を自分が背負っているような感覚。人の倫理に背いたその行為が、思ったより正しいのではないかと錯覚してしまう。
――いや、本当は正しいのではないか?
もしかしたら、自分が間違っているのかもしれない。アレは本来なら誰もがする行為で、誰もが知る常識的な行為ではないのだろうか。
ともすれば、自分もいつかはあんな風に乱れる時がきて、悦楽に浸っていくのだろうか。
――わかりそうで、わからない。
「結衣ちゃん? 帰ったの……?」
「ただいま……」
家に到着すると、親に帰りの挨拶をしてから自分の部屋に向かった。バタンッと扉を閉め、暗い表情で扉に寄りかかる。
雪崩のように床に落ちていった通学鞄とリュックを無視し、それから結衣は嘆息した。
「こんな時こそ、笑わなきゃ……」
嫌なことがあれば笑顔になる。なれば、すべて吹っ切れるから。
今までだって、そうしてきたじゃないか。
辛いことがあってもめげずにやってきた。誰かが困っていれば、自分の元気を分け与えてきた。
結衣がクヨクヨしていてどうする。
「――――」
頑張って口角を上げているけれど、ぎこちなく歪んで見える。人差し指で無理やり押し上げてみても、全然変わらない。
「わたしも、しなきゃダメなの……?」
アレを、経験しなきゃならないのか。
自問してみても、答えはわからない。だって、結衣にわかるはずがないのだから。
昔からそうだった。自分は何も知らない。皆は知っているのに、自分一人だけが疎外されていて。
知るのはいつも事が済んだ後、手遅れになってから気づく。
一歩遅れて知ったとして、それに意味はあるのだろうか。
「――わからないよッ!!」
悲痛の叫び声と共に、妙な苛立ちが込み上げてきた。
何も知らない、何もわからない自分が本当に腹立たしい。
知ったような笑顔を模り、わかった振りをして相手に合わせてみたり。結衣がやっていることは、人を騙すことと同義だ。
だから、きっとこれは報いなのだ。
勉強だって全然できない。恋愛だって、動こうとすらしなかった。すべて後回しにしてきた結果がこれだ。
何もわからないまま精神が蝕まれていく。何もわからないまま、苦しめられていく。
「わたしだって、頑張ってきたのに……ぐすっ……」
鼻声で言葉を紡げば、いつのまにか流れていた涙が視界を滲ませる。
曲がりなりにも、わかろうと努力していた結衣。
それが今では、こんなにも情けなく落ちぶれていた。かつての自分なら、ただ頑張っただけで充分笑顔を模れただろう。
でも大人になった自分は、努力だけでは決して今を乗り越えられない。視野が狭かったあの頃とは違い、こんなにも色んなものが見えてくるのだから。
泣きながら、結衣はへたりこんだ。
――しかし。
「え? なに……?」
なにか水気を含んだ音が聞こえた気がする。
その音の方へ――下へ、結衣は視線を送った。そこには床にへたり込む自分の足と、足を隠すように広げられた制服のスカートがあった。
それだけでは理解できなかったが、僅かに腰を動かした瞬間――。
「や、やだっ……わたし、お漏らしして……」
パンツの下に違和感を感じて、羞恥で顔を赤く染める。
この歳になってよくもまあ。自制が効かないとは、もう笑いものでしかない。一気に苛立っていた感情が冷めていく。
だが、結衣の知っているお漏らしとは何かが違う。
「なんで今、ちさちゃんが……」
唐突に頭に浮かんだのは、さっき見た千聖の姿だった。甘色の声で男に縋り、結衣と同じように下半身を濡らしていた彼女の姿。
それを思い起こしてしまった時点で、結衣にはもう止まる手立てがなかったのかもしれない。
先に大人になってしまっていた千聖。彼女が成していたアレは、果たしてどんなものなのか。
ただの興味、好奇心。思春期にありがちな探求心を湧き上がらせ、結衣は自分が後戻りできないところまで来ているのだと悟った。
「さわる、だけだから……」
自分を無理やり納得させる。
絶対、それだけでは終わらないと解っているのに。心の枷を外して、結衣はスカートの下に手を潜り込ませた。
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