第二章 青春アテンダンス
第23話 無尽蔵の精神
「あ、おはようございます」
アパートの階段を下り、秋鷹はタンクトップ姿で挨拶をする。
その相手はアパート一階付近からのろのろと出てくると、
「ああ、お前さんか。今日も走りに行くのかい?」
「今日もって……最近は走ってませんでしたけどね」
「なんだい、わたしゃがボケてるとでも?」
「どういう解釈したらそうなるんですか。まさに今ボケてるんじゃ?」
「――おどれ今の言葉を忘れんじゃないぞ。とっちめてぶっ殺してやる」
秋鷹の煽るような問いかけに怒り心頭する婆。彼女はこのアパートの大家であり、毎朝ここで意味もなく掃き掃除をしている番人的存在だ。
しわくちゃな顔を更にしわ寄せにして、婆の背後からメラメラと炎の幻覚が。
眼を何度も擦る秋鷹は、消えない幻に眉を顰めながら、
「朝っぱらからそのテンションじゃあ早死にしますよ?」
「あんたがさせとるんじゃい。……ほんで金曜日の晩は、随分とお楽しみだったようじゃないかお前さん?」
「金曜日の晩……」
したり顔のばあやに対し、秋鷹は一瞬考え込む。そして余裕綽々に、
「ふっ、それで言い返したつもりですか? 痛くもかゆくも、怯みすらしませんよ」
「はんっ、近所迷惑なんじゃよ。朝っぱらまで何やってんだい。おかげでただでさえ早起きなわたしゃあ、一睡もできずに寝不足じゃったわい!」
「若気の至りです。許してくれませんか?」
「なーにが若気の至りだ。ほんの数か月前まで女の影すらちらつかない、ましてや自分から遠ざけていた不能だっただろうに」
「不能じゃねーよ」
だが確かに、秋鷹は女性と密接な関係を持つことはなかった。高校に入学してからは訳あってバイト三昧の日々だったし、自分の部屋に異性を連れ込むなぞあの頃なら考えられない。
とは言っても、現在の秋鷹は使い道のない金を消費するだけの立派な能無しだ。金曜日の晩のことを考えると、いよいよ変わろうとしていた日々なんて霞んで消えていく。
「どんな心境の変化があった?」
「別に、なんもないですよ……」
そうだ、変化はない。ただあの頃の自分に戻っただけなのだ。人の好意を軽んじ、弄ぶ最低最悪な
「そうかい。まぁ、家賃さえ払ってくれりゃあわたしゃからは何も言わないよ」
「そう言ってもらえるだけでありがたいです」
「それと、このアパートをホテル代わりにするのはやめとくれ。お前さんの隣に住んでんのが夜中に訪ねてきおったわい」
「傍迷惑な人ですね」
「あんたが言えたことじゃないよ。とにかく、これからはうるさくしないでおくれ」
「……善処します」
言いながら、秋鷹は空を見上げる。
まだまだ陽が昇りそうにない明け方の空だ。雨が降りしきっていた金曜日と比べればそれは、悲しくはならなくともどこか愁然な気持ちにさせるようなものであった。
――週明け、体育祭の振り替えを挟んで火曜日。秋鷹の日常は何食わぬ顔でやって来る。
※ ※ ※ ※
「――――」
忙しなく息を吐き、首に巻かれた白いタオルで汗を拭く。秋鷹は見慣れたランニングコースをひた走り、自身の通学路とは遠く反対方向へ。
この、紅葉や銀杏が生い茂る並木道を走るのも、秋鷹にとっては数えきれないほどだ。新学期が始まってからは大して走れてはいなかったが、去年の秋と比べても周りを彩る銀杏並木の姿はさして代わり映えしない。
こうして秋鷹が走り込んでいる姿も、周囲の人間からしてみれば変わりはないのだろう。そこに運動不足や身体を鍛えるためだとかの理由があったとしても、気に留める者なぞいない。
しかし、気ままに走る秋鷹の目には一人の少女が留まっていた。ランニングコースが被っているのならば問題はないが、どうも付いてきているように思えて仕方がない。
背後、そこには一定の距離を保って走り続ける少女の姿があった。
秋鷹が走るペースを上げようものなら頑固にも追いかけてくるし、ランニングコースを変更しても彼女の姿が消えることはない。
そろそろ疲労も蓄積されてきた頃だ。振り切るのは難しい、と考えた秋鷹はペースダウンを試みる。
すると、それに気づいた少女はここぞとばかりに秋鷹の隣へ駆けて来た。やはり、何か用があって追いかけてきていたみたいだ。
「――おはようございます先輩ッ!!」
「うわっ、うるさいな……」
開口一番、それは朝の気だるさを吹き飛ばすくらいの大きな声量だった。元気溌剌な彼女はそれから、
「宮本先輩ですよね? 二年生の」
「そうだよ。それで、君は誰なの?」
「あ、すいません! 私は一年の
「うん、いきなりの自己紹介ありがとう。後半は全部聞き流しておいたよ」
「なんでですか!?」
緩いペースで走りながら愕然とする少女――茜。彼女と肩を並べる秋鷹は、言葉通りやかましい茜に向けて、
「そんなことより、俺は君がここにいる理由を聞きたいんだ」
「そんなことって何ですか! 私の誠意を込めた自己紹介を――」
「あーはいはい。少しは知ってるよ。影井のところによく来てた子だろ? ほら、覚えてない? 俺と肩ぶつけただろ」
忘れもしない。登校初日のホームルーム前、肩をぶつけられて謝りもされなかったことを。
だが、茜は首を捻るとあっけらかんとして、
「すいません覚えてないっす。でも、私も宮本先輩のことは知ってます。涼先輩と同じクラスですし、先輩、結構有名ですから!」
「ふーん、それで俺の名前知ってた訳か……で、涼先輩でもない俺に、君は何の用があって話しかけてきたんだ?」
彼女が影井涼と関わるようになったのは確か三か月前――夏休みを目前とした頃だ。なので彼女を知るようになったのもここ最近なわけで、秋鷹は自分がなぜ絡まれているのかいまいち掴めないでいた。
「いや~、気分転換にランニングコースを変えてみたら、すごいペースで走ってる人を見かけたんでつい追いかけちゃいました! しかも知ってる人だったんで尚更っ」
「好奇心だけで追いかけて来たのかよ……一歩間違えればストーカーだよそれ」
「大丈夫です! 捕まるのは先輩の方ですから!」
「どんな理不尽だよ」
こんな不条理の塊みたいな世界はすぐさま捨て去りたい。交番に駆け込まれた時点で秋鷹には勝ち目がないのだ。
腹立たしいが男の食指が動きそうなほど整っている容姿に、ランニングウェアからチラリする日焼け跡の色香。
彼女のような美少女が助けを乞えば、男の心なんて綿毛同然の軽さで弄ばれることだろう。彼女自身も、そういう目で見られる経験はこれまでの人生の中で何度もしてきたはずだ。
「ま、能天気だし、気にしないような性格なんだろうけど」
「なんすか?」
「いや、なんでも」
不思議そうに首を傾げる茜に、秋鷹は首を振って嘆息した。それを見ていた茜は、「そうそう」と手を叩き、
「宮本先輩、陸上に興味とかないですか?」
「ないよ。なんだよ藪から棒に」
「ほんとのほんとに、すっごい早かったんで、ぜひ陸上部に入ってもらいたいなと思ってるんです」
「無理だね。俺は放課後は拘束されたくないタチなんだ」
「そこをなんとか! 私が走りで追いつけなかったのは先輩も含めこれで四人目なんです。悔しいんです。だから、お願いします!」
「えぇ……」
回り込まれ、目の前で頭を下げられた秋鷹は足を止めた。
悔しいというのは解る。おそらく彼女は、高校に入学するまで自分より早く走れる者を知らなかったのだ。
それが持ち前の好奇心によって「勝ちたい」と、彼女の闘争心を燃え上らせたのかもしれない。
ただ、秋鷹には彼女のような負けん気の強さとか、意志を貫かんばかりの気概はない。
――何事も中途半端で終わる自分は、きっと何事もやり遂げられないまま何もかもを放棄するのだから。
「熱烈なアプローチの返答としては悪いが……ごめん、他を当たってくれ」
「そっすか……なら、もう聞きません!」
「やけに潔いな」
「先輩の顔を見てれば解りますよ。これ以上は言っても無駄。なので、他の人を勧誘してみます! ちょっと手強そうですが!」
「うん、あんまり迷惑はかけるなよ」
「はい!」
気持ちいい笑顔を咲かせた茜は、曲げていた腰を上げる。一つに結われている焦茶色の髪が、同時に彼女の背中で揺れた。そして辺りを見回し、
「それではこれで! 遅刻はしたくないんで、早く帰ろうと思います」
「ああ、気をつけろよ。家までは一人で帰れるな?」
「なに言ってるんですか。夜道ならまだしも、バチくそ明るい道ですよここ! それに私の家、直ぐ近くですし」
そう言うと、茜はくるりと秋鷹に背を向ける。だが、歩を進めようとしたところで思い出したかのように「あ、先輩」と振り向いて、
「先輩とは長い付き合いになりそう……というか、仲良くなりたいと思ってるんで、その作り笑い、やめてもらえませんか?」
「――――っ」
優し気な笑みを模っていた秋鷹は、冷淡な彼女の視線を受けて表情を強張らせる。
「どうせなら素の先輩と仲良くなりたいので。それ、やってて辛いでしょ? 私と話す時は気楽にしてください。あと、よければ私のことは茜と、下の名前で呼んでください。私も先輩のことはアッキー先輩って呼ぶんで!」
「アッキー先輩!?」
突然のことで驚きが隠せない。ここは文句を言うべき場面なのだろうが、ふっと笑う彼女に秋鷹の言葉は遮られた。
「ではでは、また学校で――」
「あ、おいっ!」
有無を言わさず、茜の背中は先輩に対しての敬意を微塵も感じさせないまま遠ざかっていく。
ぽつり、取り残された秋鷹は再び嘆息し、無機質な前髪を掻き上げて若干の汗を滲ませた。
「演技、上手くできていたはずなんだが……」
少しばかりのブランクがあるとはいえ、体に沁みついた悪辣がそう易々と消えることはない。
気遣いを誇示し人を騙すことには長けていると、自分で勝手に思い込んでいただけなのか。あからさまに不満を表情に出す秋鷹は、ふと辺りに視線を巡らせた。
「つーか……どこだよここ!?」
見知らぬ土地、見知らぬ木々。閑静な住宅街に、秋鷹の声が躊躇なく響き渡った。
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