第19話 母の秘密と恋の行方
「えっと、ウィル様これは一体どういうことで……?」
空には半月が浮かび、ゼーレアーム祭の目玉である流星群がときおり夜空に煌めく。
私たちはいつかのようにログハウスの屋根の上にいた。でも問題はそこではない。
「こうすれば一緒に手帳を見られるし、もし中を見てユズが倒れそうになっても支えてやれる」
私が座っているその後ろから、ウィル様が抱き締めるようにして座っているということだ。
ウィル様、私にはこういうことに免疫がないんです。離れてください。心の中でそう何度も訴えかけるけれど、まったくもって言葉にならなかった。
肩にかかるショールを頭からかぶり、姿を隠してしまいたいくらい恥ずかしい。
「俺のことは単なる背もたれだと思ってくれればいい」
「そんな無茶な……!」
私の動揺なんてお構いなしで、彼はからかうように笑って言った。
「心の準備はいい?ユズ」
あぁ、ウィル様は平然と……惚れた方の負けなのか。そうなのね。
諦めた私は、コクンと小さく頷いた。
母は一体にこの手帳に何を書いたんだろう。天井裏に隠し、封印までかけるほどに。ウィル様が手帳をゆっくりと開くと、そこには整然と丁寧な文字が並んでいた。
間違いなく、母の字だった。
『今日、森におかしな男が来た。ケガをしていたから手当てをしたら、妙に懐かれてしまった。アルスと名乗り、どうやら隣国から流れてきた傭兵くずれらしい』
最初は、父がこの森に来たときのことから書かれていた。アルスは父の名だ。
あまり話を聞いたことがなかったから、私はちょっとびっくりしてしまった。あの母がケガの手当てをしたなんて。
『新薬の実験体に使っていいから置いてくれ、そう言われてちょっと心が揺らいだ。とても頑丈そうで、色々使えそうな男だわ』
うん、母はやっぱり母だった。
こうして父はまんまとこの森にいつき、私という娘を成す関係になったのだと書かれていた。
『こんなに出産が苦しいとは思わなかった。わりに合わない。痛い、痛すぎる。子供なんて産む意味あるのかしら』
この一文を見て、ウィル様が私の顔色をうかがう。
「……続きを読むか?」
「あ、はい。ここまでは想定内です」
母の性格からすると、これくらいは予想の範疇だ。単純に出産が痛かったんだろう。痛いとか汚いとか嫌がりそうだもん。
先を読んでいくと、父は私が生まれてすぐに故郷に戻っていった。自国で戦が起こり、帰ってきてくれと家族や友人に乞われたことが理由だった。
『アルスが私たちを置いて国に戻ると。何年かかっても、必ず戦を収めて帰ってくるからと言って手を振った。帰ってこなくても別にいいのに。だって転移魔法陣があるからいつでも行き来できる』
父と別れるときも、母はドライな感じだった。実に母らしい。
でもここからどんどん母の気持ちに変化が訪れる。
『ユズリハが、特別にかわいく見える』
手帳の中盤。そんな文字が突然目に飛び込んできた。
「お母さん……?」
ページをめくる手が思わず止まる。信じられない。でも確かにここに、私のことがかわいいと書いてある。
母は、私の気づかぬところで葛藤していた。
『あぁ、この子は
いやいやいや、お母さん。それは一体どういう心境!?
私は自分の目を疑うけれど、母の異変はずっと続いていた。
『ユズリハは、私とアルスのいいところだけを受け継いで生まれたに違いない。天才だ。それにかわいい。きっと将来は美人になって、たくさんの男から求婚されると思う。でも
私が十歳児なみの体格で十七歳まで過ごしたのには、こんな理由があったのか。呆れて言葉が出てこない。
母は私を愛していない、なんてことはなかった。
「随分と演技派だったんだな、ユズの母親は」
「そうみたいですね」
いつも無表情で無口で、無関心のように装っていた母。私が見ていたものは一体何だったんだろう。
手帳は五歳頃には終わっていた。探せば、他の手帳に続きがあるのかもしれない。
読み終えると、ため息が出た。
これまで私が悩んでいたことは、完全にムダな悩みだった。
「ふふっ……」
ばかばかしくなってきて、つい笑いが漏れる。手帳を手にとっては開くのをやめた日々は、一体なんだったのか?
「おばあちゃんが昔言っていたんです」
「何を?」
低い声が、耳元で聞こえる。
「『事実は予想をはるかに超えることがある』って。本当に……その通りでした」
ウィル様が天井を破壊しなければ、きっと一生知らずにいただろう。母の隠された本音を。
はるかに私の予想を超えた、母の不器用さを。
「私、がんばります。母に認めてもらえる魔女になります。完璧な
そう言うと、ウィル様は不思議そうに尋ねた。
「それはいつまでに?」
「え?」
いつまで、とは?私は目を瞬かせる。
「大丈夫だよ、ユズリハ。完璧になんてならなくていい」
「でも……」
これまできびしい修業に耐えてきたんだ。完璧を目指して。
ウィル様は優しい声で続けた。
「できないことがあるなら、俺がなんとかする」
「ええっ」
「迷宮に行くときは一緒にがんばればいいし、蜘蛛が嫌なら俺の後ろに隠れればいい」
リクアに蜘蛛を投げられたことを引き合いに出すウィル様に、私はくすりと笑ってしまった。
「あぁ、そうだ。嫌いなものが出たときは、ハクに隠れてこっそり俺が食べてやるから心配ない」
「そんなこと?」
「あぁ、そんなことも。ユズはもっと頼っていいんだ、俺やハクのことを」
私はふと手帳に視線を落とす。母はいつも完璧をめざせと言っていた。
だから、ずっとがんばってきた。自分は強いって、しっかりしているんだって思わなきゃ生きてこられなかった。
「俺は一度死んだとき、何もかも認められなかった。自分の力でなんとかしてやると、傲慢なことにそう思ったんだ。それができると、信じて疑わなかった。でもそれが叶わないと知ったとき、絶望した。ユズと出会ったとき、すでに俺は壊れかけていたんだ」
抱き締める腕の強さが増した。私はその腕にそっと手を添えて、黙って話を聞いていた。
「ユズは俺に手を差し伸べてくれた。だから、これからはユズがつらいときは俺の手を取ってほしい」
いいのだろうか。
ウィル様に頼っても。
振り返り、じっと菫色の瞳を見つめると不思議とホッとした。
「ダメか?」
ちょっと窺うように笑うウィル様。
あぁ、やっぱり私はこの人が好きなんだなぁと思う。
「ウィル様……」
「ん?」
「それは恩返しの一環ですか?」
クスリと笑ってそう問えば、ウィル様もふっと笑った。
「いや、そうじゃない」
大きな手が私の髪を撫でる。
「ユズが好きだから。これからもそばにいたいと思っている」
「っ!」
言葉にできない感情がこみ上げて、胸がグッと詰まった。
「それは……どの好きですか」
博愛主義の延長だろうか。うれしいのに、素直に受け取ることができない。
だって、ウィル様ですからね!?
でも彼は「信用ないな」と笑って、困った顔をした。
「ユズと同じ気持ちだと思ってる。ユズだけが好きだ、といえばわかってもらえるか?」
「うっ……!!」
涙腺が壊れてボロボロと涙が零れ落ちる。
ウィル様の荒れた指が私の目元を拭い、滲んだ視界に菫色の瞳が入った。
穏やかな笑みがきれいすぎて、また涙が伝う。
「ユズリハ」
そっと唇が重なり、私は驚いて肩を揺らした。
初めてのキスはとても優しくて、一瞬で終わってしまった。
手帳を抱いたまま、私はウィル様の腕に閉じ込められる。
それはとても静かな夜で、幸せな時間だった。
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