第伍話 無数の怪物
さむい。
ぶるりと全身が震える感覚で、わたしは目を覚ました。
中空に提灯の炎が赤く燃えている。ぼんやりと首を巡らせれば、真上に退紅の傷んだ髪が夜風に揺れていた。
「お目覚め?」
ユキシロが軽い調子でニィと笑う。
どうやらわたしはユキシロに膝枕をしてもらっていたらしい。
なんでこんなことになったんだっけ。妙に身体がだるい。
のろのろと身を起こしてから、わたしは青ざめてユキシロの腕に取りついた。
「篝は!?」
立ち上がって階下を見渡してみても、試合会場に人の姿はない。
「んあ? ああ、おめでとー。一回戦も二回戦も突破で、今は準決勝始まる前のインターバル」
その言葉にへなへなと身体の力が抜ける。
よかった。篝は死んでいない。
篝が死んでいないということはその相手は死んだのかもしれないが、今はよく知らない他人に心を砕けるほどの余力はなかった。
わたしはよろよろと席に座り直してから、自分の服を見下ろす。
意識を失う前、わたしは嘔吐した。反射的に口元を手で覆ったけれど、たぶん防ぎきれなかったはずだ。
借り物の服を汚してしまっていたらと青ざめる。だけど、それらしい汚れは付着していない。受け皿にしたはずの手も綺麗だ。代わりに、袴の一部が少し湿っていた。
「ユキちゃん、ひょっとして綺麗にしてくれた?」
おそるおそる尋ねれば、ユキシロは一瞬なんのことか分からなかったように目を瞬いた。
「あー、カネ貰ってんだからいーの、いーの。汚物処理が俺の生業だかんね」
ユキシロは平然とお猪口に口をつけている。ていうかそのお酒、わたしが気を失っている間に勝手に頼んだな?
まあユキシロが散財したぶんのお金は、わたしがバイト的なことをして篝に返すことにしよう。
それにしてもユキシロってばゲロ処理の件を本当に気にしていないらしい。
よくよく見てみたら、絞った布巾かなにかで袴の汚れを吸い取ってまでくれたようだ。これなら後でちゃんと洗えば元通りになるかもしれない。
「ユキちゃんとの契約にそんなことまでお願いしてなかったもん。……ごめんね、ありがとう」
ユキシロがどう言おうと、わたしが申し訳ないと思う気持ちに変わりはなくて、目を伏せる。ユキシロは「あんたやっぱり変わってんな」と気味悪げに眉根を寄せた。
「俺、汙徒じゃあねぇけど、ハクシュウの最底辺だぜ」
ハクシュウ。また新しい言葉が飛び出してきた。ハクシュウってなにって聞きたいところだけれど、さすがにやめておく。文脈から推測するに、おそらく身分を表す単語だ。浄紫と汙徒の間の中間階級ということだろう。
仮にわたしが正真正銘の浄紫なんだとしても、身分が低い人に汚れ仕事を押しつけて当然って顔をするのは抵抗があった。胸のなかがもやもやする感じ。
だけど、八嶌の人間でもない部外者のわたしがよく知りもしないこの国の制度についていきなり口を出すのも気が引ける。だからわたしは、別の話題を振ることにした。
「賭闘で人が亡くなるのは、普通なの?」
「へ? ああふつーふつー。人っつーか、奴ら汙徒だしな。まあカネに困ったハクシュウとかもたまーに出てるけど」
平然とユキシロが言う。
ユキシロの口ぶりからは、篝のような汙徒の人たちはそもそも人間扱いされていないかのような印象を受ける。
さっきの大鳳さんと野馬さんの対戦だってそうだ。思いだすだけで視界がぐるりと廻りそうだけど、彼らを人間だと思っていたら、あんなふうに人が死んで歓声なんか上げられない。
わたしはスクールバッグのなかに手を入れて、イカスミの素敵な御髪を撫でる。なんだよっていうふうにつついてくるイカスミの変わらなさに少し安心した。
やがて準決勝の幕が上がる。そこでも血みどろの命の奪い合いが繰り広げられたけれど、わたしは篝の出番まではぎりぎり正気を失わずにお行儀よく試合会場を見下ろしていた。
*
賭闘には、十六人の闘士が出場していた。そのうち半分が一回戦で敗退して、二回戦で四人が脱落。準決勝は残り四人に絞られ、篝はその第二試合に出場するようだった。
ちなみに第一試合を制したのは、骨繰技師の野馬さんだった。まるで勝負に拘っていないかのような無表情で、歴戦の猛者たちを返り討ちにしている。
ただ骨繰が対戦相手を飲み込む瞬間だけは、その能面のような顔に猥らな笑みが浮かんだ。その姿はどこか不気味で、わたしの肌をぞわりと粟立たせた。彼が今回の賭闘の大番狂わせらしく、観客たちは野馬さんの話題で持ちきりだった。
「さぁて準決勝第二試合。東は常勝の剣豪・
相変わらずふざけた調子の戯主の声が響きわたる。
狂狼の篝。外の幟の煽り文句にも書いてあったけど、凄い異名だ。ちょっと中二病っぽさを感じちゃうのを禁じ得ない。
篝が現れるやいなや、観客席中からブーイングが上がる。
「な、なに――?」
「なにってミチちゃん、篝推しのくせに知らねぇの?」
「知らないってなにが?」
「っんと、あんた世間知らずだな」
そう言って、ユキシロは欠伸を噛み殺す。涙目を擦りながら、退屈そうにユキシロは続けた。
「あいつ、元は浄紫だかんな」
「そうなの?」
お貴族様的身分の浄紫が賤民になってしまうというのはどういうことだろう。
ああでも、細民窟でも、同性愛が罰せられて浄紫の身分が剥奪されるみたいなことを聞いた。
篝はなにか罪を犯したということ?
「まあつっても、奴が鼻垂れ坊主の頃の話よ。奴の親が塾を開いててな。そこでお上に歯向かったとかで、それがバレて晒し首」
ユキシロは自分の首に指を宛がって横一文字に払うと、舌を出してみせた。
お上とは、天帝とか大王あたりのことだろう。
「元々はあいつんち皆殺しにされるはずだったんだけど、気まぐれで一番小さかった奴だけ生かされたんだと。まあ気まぐれっつーか、見せしめだな。おかげでハンノウ派の士気はダダ下がりよ」
ああもう、次から次へと意味の分からない固有名詞が出てきて頭が爆発しそう。お勉強はあんまり得意じゃないんだから、もうちょっとイージーモードでお願いしたい。
だけど、たぶんハンノウ派は反王派って字を書くんじゃないだろうか。大王に反抗する派閥。幕末で言うところの討幕派みたいな感じって考えるとしっくりくる。
つまり、篝パパが大王の治世に不満を抱いていて、それがなんらかの形でお偉いさんに露見して親兄弟やら塾生が粛清を受けた。そして篝も汙徒の身分に落とされたってことだろう。
篝が連中を殺せればそれでいいって言っていたのは、復讐のため?
「まあ、そういうわけで、浄紫のお歴々は、篝アンチ。ま、顔がいいから密かに女に人気だけど、反王派って言わば天帝に喧嘩売ってるわけだかんな」
そっか。大王は神書を通じてこの八嶌の一番偉い神様に択ばれたってことだもんね。
天帝を奉じる人たちが、篝のパパさんに良い気がしないのも道理だろう。
篝の口ぶりから、大王は暴君そのもので皆から嫌われているような気がしていたけれど、ここにいる浄紫の人たちにとってはそうでもないのかもしれない。
「だから篝はそこそこ強ぇけど、浄紫連中は奴に賭けねぇの。もし篝が勝ち抜いたら、ミチちゃん、成金になれるぜ」
この賭闘が敗者の死を前提としないスポーツだったら、わたしも喜べたかもしれない。
だけど、今はもう無理だ。
わたしは曖昧に笑って、篝の向かいの対戦相手を見た。
篝よりは年上の、壮年の男だ。彼が今回の賭闘の一番人気、白波さん。腰に日本刀チックなものを佩いていて、正統派剣士って感じがする。
対する篝は、槍を手にしていた。槍なんて日常生活で見たことがないから本当に槍なのか断定できないけれど、長い棒の先っちょに刃物が付いているからたぶんそうだろう。
リーチは長いから、刀よりは有利かもしれない。
篝は身の丈よりも長い柄を物ともせずに、くるくると槍を振り回していた。パフォーマンスの一種だろうか。
でもすぐにそうではないと気づいた。
白波さんは刀を構えたまま、距離を縮められずにいる。
とはいえ、常勝の異名を取る白波さんも篝に振り回されっぱなしなどではいてくれない。白波さんは懐に手を差し入れると、なにかを篝に向かって投げた。
キン、と金属と金属の触れ合う音がして、槍の穂先がそれを弾く。どうやら手裏剣みたいなものらしかった。
一瞬の隙を突いて、白波さんが篝の懐に潜り込む。
間近で閃いた太刀の切っ先を、篝は地面を転がって避けた。返す刀を受け止め立ち上がると、槍を振り回しながら高く地を蹴って身体を回転させる。
ふわりふわりと舞う姿は狼というよりはむしろ、蝶のようだった。
だけどすぐに篝は飽きたように槍を放る。
「ななななにやってんの、篝!?」
「あー……いつもああだぜ。最近の闘士に槍遣いがいねぇからって槍持たされてんだけど、けだものだから全然言うこと聞かねえんだ。だからいつまで経っても槍がどうのって異名になんねえの」
なんじゃそりゃ。
白波さんは得物持ってるんだから、丸腰だったらすっごく危ないじゃん。
もうこれはあとでお説教コースだ。絶対とっちめてやる。
そのあとがないかも、だなんてことは絶対に思ってやらない。
わたしは心に決めて、篝を食い入るように見る。うっかりユキシロの袖口をぎゅうぎゅうと摘まんでしまっていたけれど、彼は文句は言わずにお猪口を左手に持ち替えてちびちびお酒を干していた。
白波さんの迷いのない銀の太刀筋が闇を切り裂く。
篝はそれを躱すと、姿勢を低くして思いきり白波さんにタックルした。
白波さんが踏ん張りきれずにひっくり返る。
その上に倒れ込んだ篝が身を起こすよりも早く、太刀の切っ先が力任せに滑り、血飛沫が舞った。
わたしは自分の身体をきつく抱きしめる。
篝の背中から、鮮血が噴き出していた。だけど白波さんも無理な態勢でなんとか斬りつけただけで、致命傷には至らない。
篝のこがねの眸が稲妻のように閃く。肉食獣じみた無駄のない動き。
次の瞬間、篝は白波さんの喉笛に食らいついていた。
――比喩ではなく、文字通り。
白波さんの呻き声がして、ぶしゅ、と厭な音とともに噴水みたいに赤い液体が噴き上がる。
しばらく痙攣していた白波さんの身体は、やがてぴくりとも動かなくなった。
勝者がゆらりと立ち上がる。
顔も身体も返り血で真っ赤に染まった姿は、まるで――。
「うーわ、相変わらずえげつねぇ戦い方しやがる。人間の肉食い千切るかよ。マジのバケモンだぜ。こっわ」
ユキシロが顔を歪めて、お猪口から口を離す。
あんまりな物言いに反論したかったけど、わたしもほんの一瞬同じことを思ってしまった。そのことに気づいて、お腹の底がひやりとする。
わたしは自分で自分の考えに頭を振った。
篝は自分の命を奪われないために先んじて白波さんの命を奪うしかなかった。この賭闘がそういう場所なんだって、わたしももう理解している。
相棒の篝ひとりを戦場に送り込んで、他の浄紫の人たちと同じように観客席で呑気に高みの見物を決め込んでいるわたしに、なにか非難めいたことが言えるはずがない。言えるわけがない。
だけど。
今、仮に篝がわたしの元に戻ってきたとして、どういう顔をしてどんな言葉を掛けたらいいかまるで分からなかった。
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