M.-11; 詩篇

    †  †


 活字の力は素晴らしい。

 漫画も勿論素晴らしいけれど、晩ご飯までの時間とその後の時間、何もかもを忘れたようにあたしは『翔べよおっさん』という小説にひたりきってしまっていた。


 簡単に言うと復讐がテーマになっているその小説は、でも復讐モノにありがちな陰鬱とした物語ではなくて、何というか、とても前向きになれる作品だった。

 奪われ失ってしまった大事な絆を取り戻すため、日常の中で強さを手に入れていく主人公の“おっさん”と、それを鍛える屈強な高校生。

 非常にポップなシーンもありながら、強さを手に入れるごとに周囲との絆も深めていくその様は、気が付けばページめくる手に力が入ってしまっていて。

 そして、クライマックスに向かう中で主人公が口にした『灰とダイヤモンド』という映画から引用された詩に、あたしは心に引っかかる違和感を覚えていた。


 ――松明のように その体から火花飛び散るとき

 ――君は知らない その身を焦がして自由になること

 ――持てるものは 失われる運命にあること

 ――残るのは灰と 嵐のように深淵に落ちていく混迷だけ

 ――永遠の勝利の暁に 灰の底深く

 ――燦然と輝く ダイヤモンドは残された


 あたしが知っているのは、微妙にアレンジされたそういうだ。

 思いついたあたしは手元に帰ってきていたことも忘れていたスマートフォンを起動し、中にいくつもの楽曲がダウンロードされていることを確認する。

 イヤホンを差し、そのひとつひとつを再生させながら探す――あった。


『松明のように その体から――』


 まだ拙くも力強く歌うその声は、聞いた瞬間にぐゎしっとあたしの心臓を鷲掴みにする。

 才能に恵まれず、努力に裏切られ、孤独に苛まれても。

 それでも命を燃やして立ち向かえと。

 燃え尽きる前に灰になるんじゃないと。

 燦然と輝くダイヤモンドになるんだと歌う、我武者羅を音にしたような彼女たちの声。


 画面表示を見ると、“シー”という楽曲名と、その文字列の下にそれを歌う“RUBYルビ”というグループ名が表示されていた。


「……RUBYルビ


 口に出して、記憶を取り戻す。

 “シー”という楽曲名は、引用したノルウィドの詩に出てくる灰とダイヤモンドその双方に共通する化学式であり、そしてRUBYルビとは宝石ではなく“ふりがな”のことだ。確か、ふりがなを振らないと読めないくらいの難解な歌詞が持ち味だった。

 その程度の知識を有しているくらいには、あたしはこのアイドルグループが好きだった。


「――こんばんは」

「ぅわっ!」


 突然、イヤホンを取ってあの子が耳元で囁いた。

 あたしはまるで幽霊に出会ったように慌てふためき――


「しぃーっ」


 またも人差し指をあたしの唇に当て、悪魔はその曲がりくねった性根を笑みに宿す。


「……あんた、脅かす現れ方しか出来ないの?」

「約束通りの時間に来たのに、ノックを無視して曲を聴いている人が悪いと思うけど」


 言われてみると確かにそうだと思う。

 何故か消灯時間を超えないと現れないヱミはベッドに座って殺風景な部屋を眺めてにこにこしている。

 月明かりが薄いカーテン越しに青白く部屋を照らしていて、その中でやはり真っ白な彼女の影は幻想的で魅入ってしまう。


「ここ、何も無いね」


 ヱミは小悪魔的な、という表現が驚くほど似合う、意地の悪そうな笑みでそう言うと、起こした上体をベッドボードに預けるあたしに擦り寄って、鼻がくっつくんじゃないかってくらい顔を近付けて訊ねる。


「本、好きなの?」


 その細い両肩を押し退けて距離を取ったあたしは、サイドテーブルに積んだ5冊の本に目を移す。


「あんまり好きじゃないと思う。でも、この本は読んでて面白かった」


 最後に失ったものを取り戻したおっさんの、優しく温かい復讐劇は、爽やかな読後感を与えてくれた。

 特に現代の言葉に直して引用された灰とダイヤモンドの詩は、あたしが好きだったアイドルの思い出も取り戻してくれて二重に感謝だ。


「この本は?難しいの読むんだね」


 そう言って彼女が指差したのは、まだ読んでいないセラピーのやつだ。


「ゲシュタルトの祈り、ね」


 そう呟いたヱミは、目を瞑ると淡い唇を少しだけ開いて、その“うた”を暗唱した。


 ――私は私のことをする

 ――君は君のことをする

 ――私が生きているのは君の期待に応えるためじゃなくて

 ――君が生きているのも私の期待に応えるためじゃない

 ――私は私で 君は君だ

 ――縁あって 私たちが互いに出会えたのなら それは素晴らしい

 ――もし出会えなかったとしても

 ――それもまた 出会えたのと同じくらい素晴らしい


「……知ってるの?」


 開いた目の混じりきらない薔薇と琥珀の淡い色彩は、月の光に妖しく光って見える。


「そうだね、知っているね。わたし、この詩好きだから」

「詩、なんだ。そこからあたし知らなかった」

「特にね、最後の部分が、本来は“もし出会えなかったとしてもそれは仕方ない”って意味なとこが好き」

「どういうこと?」

「読みなよ、本」


 告げて立ち上がると、ヱミはあたしが凭れるベッドボード付近まで身体を摺り寄せた。

 そして何やら悪戯いたずらでも考えてそうなどことなく不安になる笑みを満面に湛えながら、あたしのことをただじぃっと見つめているのだ。


「えっと……あたしの顔に何かついてる?」

「そうだね、目と鼻と口に黒子ほくろかな」

「それあんたにもついてるやつ」

「でも昨日は無かったよ、黒子ほくろ

「うわ、増えた?」


 慌ててベッドから降りて横の洗面台の鏡をチェックすると、確かに目立たないものの、存在していなかった筈の黒子ほくろがちんまりと顔を出している。


「何だよ、もう……ぅわっ!」


 毒吐いたあたしを、ヱミは後ろから抱き締めてきた。そしてあたしの髪に顔を近づけ、すんすんと鼻を鳴らす。


「メイちゃん、髪の毛気ぃ使ってる?」

「何、え、臭い?」

「傷んでる匂いがする。シャンプー合ってないんじゃない?」


 というか、まだシャワーすら使わせてもらえない身分なので、匂いがすると言われると少しどころじゃなく結構恥ずかしい。

 首に回された両腕を引き剥がすと、ヱミはそのまま背中からベッドにダイブした。

 両腕をバンザイした入院着のスリットから彼女の脇腹が覗き、その枯れた青白さに目を背ける。


「エミはさ、」


 そしてその薔薇色と琥珀色の混じり切らない淡い双眸で天井を見つめながら、彼女はもう一人の彼女の名前を口にする。


「……うん」


 あたしは彼女の横になる隣に腰を落ち着け、そこ、あたしの寝る場所なんだけどなとは言い出せずに話を聞くことにする。


「あの通り子供だからさ」

「うん」

「結構面倒に思うかも知れないけどさ」

「そんなことないよ」


 彼女が横のあたしを向いて見上げる。


「何だこいつ、って思うことはあるけど、でも面白いよ。面倒だとは思わない、思ったことない」


 あたしがその本心を伝えると、ヱミは目をぱちくりと瞬かせたと思ったら、いつものような意地の悪い笑みじゃなくて、何というか、どこか艶やかな笑みを顔に浮かべた。


「安心した」

「……うん、それは良かった」

「あの子、きみのことすごく好きだからさ」

「そんな好かれるようなことした?」

「追いかけてきてくれたでしょ。何で追いかけたの?」


 そう問われると本当に困る。同じ入院着を着ていることからあたし同様にこの病院に入院してる子だと推察したのは本当だけれど、でもやはりあたしの中ではそれは追いかける理由じゃない。


「……白ウサギ」

「白ウサギ?」

「そう、ほら、不思議の国のアリスってあるじゃん、その、白ウサギ……」


 言ってて自分でも不思議だった。目の前の彼女ですら、不思議そうな顔できょとんとしている。

 でもすぐにその顔は、にたぁと意地の悪い小悪魔の顔に変わっていく。


「エミが白ウサギに見えて、追いかけなきゃって思ったんだ。まぁ白いもんねー、わたしたち」

「ち、ちがっ」

「じゃあ、メイちゃんは自分がアリスだと思ってるんだね、かっわいー」

「違う、思ってるわけじゃないけど!ああ、うう……」


 けらけらと笑う横であたしは、恥ずかしさで熱くなった顔で訂正を口にしようとしてしどろもどろになってしまう。


「ありがとね、白ウサギを追いかけてきてくれて」


 窓から差す月明かりに照らされた、白い笑顔。

 どきりとあたしの心臓は高鳴って、それから鼓動の音が煩くて堪らない。


 長居するといけないから、と彼女はベッドから降りた。そして病室のドアの前で一度立ち止まって、「じゃあね」とあたしに手を振る。

 あたしは頷いて手を振り返すだけで、何か言おうとしたけれど口が回らなかった。喉はさっきからやたらと渇いているし、口の中もからからと乾いている。


「何だよ、もう……っ」


 彼女が去ったのを見届けてから、毒吐どくづいて枕に顔を埋めた。

 まるでこれじゃあ、恋する乙女だ。どくどくと心臓の鼓動が痛くて、でもナースコールに頼るたぐいの痛みじゃない。


 あたしは、ヱミのことが好きにはなれないだろうと思っていたけれど、どうやらそうじゃないらしい。

 その蠱惑する妖艶とも取れる笑みには、寧ろ惹き付けられていると思う。

 屈託なく突き抜けるエミの笑顔も好きだけれど、ヱミの笑顔は、例えるなら怖いのに心霊スポットに行きたくなるような、どこか後ろめたい“好き”だ。禁忌に触れたくて抑えられない、中毒めいた感覚がある。


 神秘的で、神出鬼没で、どこか儚げな、まるで幽霊みたいな白い少女。

 もしも本当に彼女が幽霊だと言うなら。

 出会って間も無いと言うのに、あたしはすでに憑りつかれてしまったようだ。

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