M.-12; 嗚咽

    †  †


 朝ご飯で起こされてもまだ目がぼんやりとするのは、絶対にあの子のせいだ。

 あの後寝付きが悪くなり、結局日が昇るかってくらいの時間に漸く眠気が下りてきてくれて、三時間も眠れていないのだ。


「夜更かしは駄目よ」


 寝ぼけ眼のあたしに、ベッドテーブルに朝ご飯の載ったトレーを置きながら女医さんはそう言った。たぶん、読書灯を点けて読書に耽っていたと思われているんだろう。

 あたしはお箸を取った手を合わせていただきますをした後で、味噌汁を啜りながらそう言えばと思い出した悪夢のことを女医さんに報告する。


「死ぬ夢は生まれ変わりの象徴だから幸先さいさき良い、って言うけどね」


 夢占いなんて頼りにならないけど、と付け加えて、女医さんは微笑みかける。


「そうね、でもあまりに続くようならまた教えて頂戴」


 女医さんのまるで女神みたいな笑みは、見ていてどこか安心する。

 でもその顔とプロポーションの割に四十歳手前アラフォーだっていう事実には心底驚愕した。


    †  †


「ねぇ、昨日の夜あたしの病室来た?」


 読み終えた手塚治虫と、読破していないけれど読む気のしなくなった医学書2冊の計3冊だけを返してブラックジャックの続きを借りようと赴いた図書室で遠くにエミを見つけたあたしは、本を返すよりも先に詰め寄ってしかめっ面のまま問い質した。

 するとエミはもじもじとしながら、「ごめんね」と呟いた。


「いや……別に、責めてるわけじゃなくてさ」


 あたしはエミの座る横の椅子を引いてそこに腰掛けながら、テーブルの上に返すつもりの3冊を置いた。

 正直言うと、昨夜の出来事は半分くらい夢だったんじゃないかって気もしていた。でもエミは否定せず謝った。つまり、エミはあたしの病室に来た、ってことだ。


「わたしは止めたんだけど、でもヱミがどうしても行きたいって言うから」

「は?」


 昨日と同じテーブルで話すあたしたち。エミの言葉を真に受けるなら、昨夜のあれはエミじゃなくて、エミの仕業だそうだ。何だそれ。


「エミって誰?もう一人いるの?」


 流石にこれだけ白い少女は一人だけで十分なんだけど。


「エミじゃないよ、ミ」


 なんだか現地人ネイティブに英語の発音を正される日本人みたいな気になってきた。

 そうしてあたしが混乱していると、エミはあたしがテーブルに置いていたまだ返していない本の一冊を指差した。


「……解離性同一性障害?」


 掻い摘みまくって説明すると、ひとつの身体の中にふたつ以上の人格が存在する症状のことのようだ。どうやらこの白い少女の身体の中には、エミという今あたしが喋ってるこの人格と、ヱミという昨夜あたしの病室に訪れた人格が存在しているらしい。


「朝と昼はエミでね、夜はヱミなの」


 ややこしいな、その呼び分け。何とかならないのか。


「行っちゃダメ、って言っておくね」


 あたしが怪訝けげんな顔をしていると、エミはそう言って分かりやすく影を背負った。

 これが漫画なら、ずーん、という書き文字と、背中に縦に突き刺さる幾つもの棒線が見られただろう。


「いや、ダメ、ってことじゃなくて……」

「行っていいの?」


 顔を輝かせるんじゃない。


「い、いきなり来られたら吃驚びっくりするじゃん、だからさ、……」

「だから?」

「……朝、ここで打合せしよう。今日の夜来てもいいか、とか、そういう約束を決めてたら、いいんじゃないかな」


 その輝いて迫る顔圧に押されて、あたしはついそんなことを口走ってしまった。

 するとエミはやっぱり顔をぱーっと輝かせて、鼻息荒く首を縦に振る。首が取れちゃうんじゃないかって心配になるくらい、力強く、何度も。


 日の昇る時間のエミと、日の沈んだ時間のヱミ。記憶は共有しているようで、この取り決めはすでにヱミに伝わっているようだ。


「ヱミはね、意地悪だけど、優しいんだよ」

「何だよ、それ」


 確かに、あの表情は意地が悪そうだと思ってしまう。アクションに対するリアクションを面白がって、とんでもないことをしでかすタイプの輩だ。決まって、本人にはふざけ合ってる・じゃれ合ってるだけだって感覚しか持ち合わせていないんだ。

 そんな感じで、気が付けば朝の図書室の時間は終わってしまった。結局あたしは本を返すことも出来ないまま病室に再度持ち帰り、お昼ご飯の後でもう一度行くことにする。


 お昼ご飯はやっぱり味気なくて、お金があったらポテトチップスを買いたかった。


「そう言えば先生」

「何?」

「あたしのうちってどうなってるの?」


 あたしが目を覚ましてからもう三日目だ。だと言うのに、あたしの家族は見舞いに来ない。

 記憶が戻ってこないから家族が何をしているかあたしには分からない。でも流石に、これは異常だって思う。


 それでも女医さんは、その答えをあたしにくれなかった。それどころか、何も言わなかった。

 ただじっとあたしの目を見詰めて、そして手を握った。

 少しだけ力を込めてぎゅっと握られた手は、温もりで少しだけ柔らかくなった気がする。


「思い出すまで教えてくれないの?」


 女医さんは何も言わない。


「あたしが、また死にたくなるかもしれないから?」


 女医さんは何も言わない。

 少しだけ目を伏せて、そして握っていた手を放した。


「あたし、多分もう死にたくなったりしないと思う」


 本心だった。今のあたしには、何を聞いても絶望しない自信があった。

 それは生きる希望があるからとか、死にたかった自分と決別したからとか、そういうことじゃなくて。

 思い出した記憶も、リストカットをしていた過去も、今のあたしにとって、それは本当に他人事のように思えてしまうからだ。

 もしかしたらあたしは、別の人の体に入り込んでしまったんじゃないかってSFチックなことを考えついてしまうくらいには、他人事のように感じている。


「それでも、今は言えないの。……ごめんね」


 そんな表情をさせてしまったなら、頷くしかないじゃないか。

 あたしこそごめんなさいとうそぶいて、あたしは食後の読書にふけることにした。


 お昼ご飯のトレイを下げた女医さんが持ってきたのは、あたしの財布とスマートフォンだった。

 一応、自殺未遂だと言うことで警察の方が預かり、調べたらしいけど、事件性は無いとのことで返されたそうだ。


 財布を開くと、いくらかのお札と小銭、そして見慣れたキャッシュカードが入っていた。それを手に取った瞬間に、暗証番号の4ケタを思い出せたのは僥倖ぎょうこうだった。


「入院費のことは取り合えず心配しないで。君がちゃんと退院できるようになったらお話する」

「あ、一応取るんですね」

「そりゃそうよ。慈善事業じゃないの」

「そうですよね」


 そう返して財布を閉じてサイドテーブルに置こうとしたところで、女医さんは「ごめんね、まだ怒ってる?」なんて訊いてきた。

 正直吃驚びっくりして、「何でですか?」なんて訊ねてみたら、あたしが全く笑わないから、あたしが不安だとか悲しいだとか、苛立ちや寂しさでいっぱいなんじゃないかと思ったらしい。


「あたし、別にそんなこと無いと思いますけど……」


 自分で言って、その違和感に自分で気付く。

 そうだ。あたしは、この病室で目を覚ましてから、一度だって笑ったことは無い。女医さんと話している時も、ご飯を食べている時も、本を読んでいる時も、エミと話している時も。あたしは、確かに笑った記憶を持っていなかった。

 まぁ、こんな状況じゃ笑えない方が普通なのかもしれないけれど。でも、違和感は確実に存在する。

 だから笑ってみようと思った。確か笑い方はこうだって、目を細めて、口角を上げてみようって。

 別に笑いたいわけじゃないけれど、誰かを安心させるためだけの、面倒事にならないための、張り付いた笑顔で良かった。


「ぁ」


 そこで気付いた。あたしは笑わなかったんじゃなくて、笑えなかったんだ。

 嬉しい気持ちが無い。

 楽しい気持ちが無い。

 笑える気が、全くしない。どうやっていたのかすら思い出せない。

 笑おうとする度に、眉尻は下がってしまい目頭に熱が籠った。

 嬉しいことを思い出そうとする度に、申し訳なさが顔を出した。

 楽しいことを思い出そうとする度に、悲しくなって涙が溢れ出た。

 笑い声の代わりに、嗚咽がしゃくり上げて息が苦しくなった。


 ああ、これはダメだ、と心の中で独り言ちた。

 こんなことになっているのに思考は極めて冷静で、やっぱりどこか他人事のように自分を俯瞰ふかんしている。


 女医さんは子供のように泣きじゃくるあたしを抱き締めて背中をさすっている。

 そして漸く泣き止む兆候を見せ始めたあたしの顔から、涙と鼻水とを優しくティッシュで拭き取ってくれた。


「……ごめんなさい」


 何となく謝ると、女医さんは再びあたしを優しく抱き締めた。


「気にすることじゃないよ」


 気にしないことなんて出来ないけれど、あたしは取り合えず素直に頷いた。


    †  †


 エミの話だと、夜活動しているヱミのために昼間は寝ているらしい。

 だからエミに会えるのは、基本的には午前中だけだ。


 あたしは未だ熱のこもった目のまま読書を再開する。

 昨日は読むのを止めたけれど、エミから聞いた言葉が気になってその医学書に目を通す。


 解離性同一性障害。

 もしかすると、あたしが自分の記憶のことをどこか他人事のように感じているのは、そうだと気付いていないだけで、あたしもとっくに人格が分かれているのかもしれないな。


 でも連なる文字が言わんとしていることはやっぱりよく解らなくて、心の中でエミに謝罪しながら本を閉じる。

 無理なものは無理だ。やってみてダメだったんだから、やらなくてもいい。やってみたことだけ褒めて欲しいと思う。


 そしてあたしは、5冊の本を抱えて図書室へと行きその全てを返却した。

 ブラックジャックの2巻から6巻までを新しく借りようと思ったけれど、ちょうど5巻が貸出中だったから、それを飛ばして6巻を借りるのもどうかと思ったあたしは、また1時間かけて残りの2冊を物色する。


 本棚を流し見していると、何となく目に留まったのが『たましいのセラピー~ゲシュタルトと21人の祈り~』という本だ。

 何の本かはよく分からなかったけれど、ゲシュタルト、というまるで聞き馴染みの無い単語が持つ物々しさに心惹かれて手に取った。


 最後の1冊はやっぱり小説にしようと思い、文芸の棚で『翔べよおっさん』と刻まれた背表紙を抜き取ってみた。

 タイトルにも著者名にも聞き覚えはないけれど、表紙の空みたいな青色に飛んでいる人の形をした黒い影に目が興味を覚えたらしく、あたしはその本を再び棚に差し戻す気にはなれなかった。


 カウンターのお姉さんは今日も神経質そうな顔をしていた。疲れているのか、目の下に色濃く隈が出来ていた。


「ありがとうございます」


 だからかは判らないけれど、今日はそう言ってみた。するときょとんとした後に、少しはにかんだように会釈してくれた。

 もしあたしが笑えるようになったら、あの人は笑顔を返してくれるだろうか。

 それが試せる時には、あたしは退院しているのだろうか。

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