632. お前のせいだ
「うわっ……ッ!?」
慌ててスイッチを元の位置に戻す。薄グレーの障壁に遮られ、愛莉の姿は見えなくなった。どういう仕掛けなんだ。マジックミラーとかそんな辺りか。
例を見ない速度で急激に上昇する心拍数。壁に背中を預けると、鼓動の数があざといまでに伝わって一向に収まる気配も無い。背後の水滴が弾ける音も加わり、小刻みに左胸をノックされているかのよう。
「ハルト? そこにいるの?」
「えっ……あ、あぁ。ちょっと転んだ」
「なにしてんのよ、ったく…………って、まさか、シャワーの音聞いてたとかじゃないわよねっ!?」
「んなわけねえやろ……ッ」
壁越しに座っている俺に気付いたのか、愛莉の慌てた声が反響して良く届いた。今更音を聞かれたくらいで動揺されても逆に困る。
それどころではない。思いがけず、突発的な事故であるとはいえ。俺は、愛莉のすべてを目の当たりにしてしまった。
(…………綺麗、だったな……)
ほんの一瞬の出来事だったから、細かいところまでは見えていない。精々シルエットくらいだ。けれど、ハッキリと覚えている。
日本人離れした長い手脚。粒をぱちぱちと弾く、瑞々しい色白の肌。アスリート然とした流麗で滑らかな曲線。
年齢不相応、子ども染みた要素など一片も無い。とっくの昔に完成された大人の身体。
空高く打ちあがるロケットを彷彿とさせる、ツンと反り立った張りのある乳房。すべてが理想的で、非の打ち所がない美しさ。
裸体を前にするのはこれが初めてではない。瑞希とお風呂に入ったことも、ノノと致してしまったことも、真琴に悪戯したこともある。でも、こんな感情を抱くのは初めてだった。
美術館に鎮座する名も知らぬ彫刻に血の巡りを感じない、そういうものなのだと頼りない美的センスが訴え掛けるように。彼女の身体もまた、それに近いものを感じさせた。神秘的で、母性的で、ある意味暴力的で。
(あんな奴と、これから……ッ)
相反する二つの衝動が引っ切り無しにせめぎ合う。触れるべきではない。触れてみたい。綺麗なままでいて欲しい。汚したい。終わらない押し問答。
「ねえ、まだそこにいる?」
「……お、おう」
か細い声まで嫌に扇情的だ。この優雅で気品に満ちた美しい声までが、自らの手で嬌声に染まるというのか。想像出来ない。そうすべきではないとさえ思う。
「今日、楽しかった?」
「……えっ?」
「いや、別に大したことじゃないけど。一人でいたらお昼のこと思い出しちゃってさ。ホント、自分でも呆れる。どれだけ取り繕ったって、結局相手はハルトなのに。全然、いつも通りで良いのにさ。馬鹿に張り切って、緊張しちゃって」
特別言いたいことがあるわけでもなく、ただただ暇潰しに話をしているようだ。
一方の俺と言えば、こんな些細なやり取りもまともに出来ない。答える術さえ持ち合わせていなくて。
「やっぱりさ。どこまで行っても私たちは私たちで、変わらないのよね。ちょっとだけ意識するのも、まぁ偶には悪くないけど……全部ひっくるめて、いつもの私たちの延長線にいたら、それが一番良いのかなって」
「……そう、だな」
なんてことはない。彼女はしっかり分かっている。俺が考えていたことと丸々同じ。肯定以外の選択肢は皆無。
でも、それだけで良いのかとも思う。
何かが足りない気がする。
愛し合う男女が辿り着く場所は一つ。それ自体に文句は無い。抵抗も無い。当然の摂理だと思う。
だったら、この奥底から沸き上がる、言い様の無い真っ黒な感情は。いったいなんだ。なんて説明したら良いんだ。
性欲などという単純なモノでは片付けられない。もっと浅はかで、馬鹿馬鹿しいモノな気がしてならない。
「あんなにビビってたのが馬鹿みたい。いや、ね? そりゃさ、いざその時ってなったらすっごい緊張すると思うけど……」
「……でも、必要以上に怖がること無いのかなって。だってハルトはハルトだし。私は私だし。最後はいつも通りの私たちになるのかなって、そんな気がしてる」
本当に、そうだろうか。
少なくとも俺は今。
いつも通りではないのだけれど。
「ねえ、バッグ開けてみてよ。こないだ誕生日プレゼント渡しそびれちゃったでしょ? 結構ギリギリまで悩んで、結局普通の物にしちゃったからさ。ホント、直接渡すのも忍びないくらいのしょうもないやつ」
「……じゃあ、開けるぞ」
「期待しないでね。もうお財布カツカツなんだから。覚えてる? 私の誕生日もうすぐだから、お返し期待してるわよ。現金でもオッケー」
「ロマンもクソもねえこと言うなや」
「アンタは逆にロマンチスト気取り過ぎ」
ベッドに置かれたミニバッグを手に取り中身を確認する。小さな包装だ。他のみんながくれたものと比較するわけでもないが、誕生日プレゼントにしてはちょっと貧相に見えなくもない。不満など一つも無いが。
紐をほどいて中身を取り出す。
これは……ミサンガか。
「ブレスレットと被っちゃったけど、まぁ着けてるのが大事だから。上から巻いといてよ。もし切れちゃったら、次の誕生日も同じの買ってあげるから」
「…………ハッ。安い女やな」
「言い方ッ! 言い方が悪いっ!!」
早速左手首に巻いてみる。これくらいのものなら試合中でも気にならないだろう。意外と頑丈な作りをしている、簡単には切れない筈だ。
(ピンクと白、ね)
クリスマスプレゼントに悩んでいた頃、ミサンガも候補のうちに入っていた。どの色にどのような意味があるのかはなんとなく知っている。
イメージそのまま、恋愛絡みの願いが込められた色だ。そして利き腕に巻くと、やはり恋愛成就の効果があるらしい。成就もなにもという感じではあるが。
どいつもコイツも、身に着けるタイプのプレゼントばっかり送りやがって。そんなに日頃から意識して欲しいのかよ。束縛した過ぎか。
「……ありがとな、愛莉」
「全然。もっと良いのあげられなくて、ごめんね」
「気にすんな。痛いほど伝わったから」
「……うん? なら良いけど」
シャワーをキュッと止める音が聞こえた。俺はなにを考えるわけでもなく、ミサンガを巻いた左手を先ほどのスイッチへと伸ばす。
どうやら向こうからは見られていると分からないらしい。栗色の艶やかな髪の毛をタオルに当て、なんだか満足そうに壁をジッと見つめている。
不思議な光景だ。
向かい合っているのに視線が逢わない。
愛莉は知らない。俺がなにを見ているか。愛莉は知らない。俺がなにを考えているか。どんな想像をしているか。知らない。なにも、知らない。
ベッドへ置いたスマートフォンに誰かからメッセージが入って、画面がふっと明るくなった。まだ部屋に入って十分も経っていない。
本当にただの休憩のつもりだった。夜にはここを出る予定だ。時間ごとにプランが切り替わるシステムだから、最短なら一時間。それより早くでも問題は無い。
そうだ。プランがある。
今日まで散々考え抜いた、二人にとって理想的な、完璧な流れとプランがある。いつもそうやって過ごして来た。駆け足にならず、顔を突き合わせて、言葉を交わして。お互いが納得するまで、決して妥協しない。
それが最善だと思っていた。いや、今もそう思う。これからだって同じ、俺たちの歩幅は絶対に乱れない。同じ高さから、同じ世界を見つめる。同じ未来を描く。それが幸せへの一歩だと、心から信じている。
ただ一つ、誤算があったとすれば。
「服、まだ乾いてないんじゃないか」
「えっ? あー、確かにそうかも……」
「部屋着っぽいのがあったから、用意しといた。浴室の前に置いてあるから」
「ん、ありがと」
「下着も濡れとるやろ。風邪引かれても困るし、取りあえずそれだけ着とけ」
「…………う、うん。分かった……っ?」
曖昧な返事と共に首を捻り、愛莉はバスルームから出ていく。同時にスイッチを切る。飛び出たのは深呼吸か、それとも派手なため息か。
ごめん。愛莉。
また嘘を吐いてしまった。
俺、お前が思ってるほど我慢強くないし、気も利かないし、ましてやロマンチストでもないんだ。
お前が俺を強く求めているのと同じように。俺を縛りたがるように。愛莉、お前が欲しい。お前の自覚していないモノさえも、全部、ぜんぶ欲しくなった。
俺という重みを、十字架を、足枷を。隅々まで嵌めたくなった。真っ白なお前を、後戻り出来ないくらい、真っ黒に染めたくなった。
今すぐに。
誰よりも先に。
こうして俺は、またも振り出しに戻る。
巡り巡って、良くも悪くも。
お前が悪い。愛莉、お前のせいだ。
全部ぜんぶ、お前が悪いんだ。
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